四、

  





   四、




 夕飯を作っている間も、矢鏡は「どこの男が嫁になれと言ってきたのだ」とか「ちゃんと断っているのか」など、紅月に問い詰めてきた。紅月は「大丈夫ですよ」「お断りした人はほとんど来店してきませんから」と何度も伝えると、やっとの事で矢鏡も安心してくれて、それ以上言及はしてこなかった。



 「そういえば、先程の店では何をしていたのだ?」

 「あの店はアロマショップと言って、香りの専門店なんです。香水とかお香などが売られているんです」

 「あぁ。確かに、いろんな香りがする店だったな。そこで何を買ったんだ?」

 「あ、開けてはダメ、ですー………」



気づいて声を掛けた時にはすでに遅く、矢鏡はテーブルの上に置いてあった紙袋に手をかけて、勝手に開封してしまっていた。

 そこから出てきたのは、もちろん木藤の店で購入したもの。沈丁花の練り香水だ。円形の小さな容器には、花のイラストと「沈丁花」の文字まで書いてある。もし、ローマ字などで書かれていれば彼につたわらなかったかもしれないのに……と思いながら、紅月は顔が次第に赤くなっていくのがわかった。



 「沈丁花……?これはなんだ」

 「ね、練り香水といって、香りがする練り物で肌につけるもので……」



 言い終わるかいやな、矢鏡はまたその容器を開けると、真っ白な指で練り香水を少し取った。そして、驚く紅月に近づくとその指をゆっくりと近づけた。

 もう片方の手で紅月の髪をさらりと避けると、露になった首筋に沈丁花の香りをピタリとつけた。そして、氷りよりも深い冷たい手でそれを優しく塗り込んできた。



 「……ん……」



 甘いくすぐったさと冷たさと、恥ずかしさから声が漏れてしまう。

 それと同時にまだ冬の寒さが残る空気に甘い香りで春の訪れを感じさせる沈丁花が薫ってくる。この香りを矢鏡を紅月に似合うと勧めてくれた。こんな可愛い可憐な花の香りが自分に似合うなど信じられなかったが、女としてそれは嬉しい事だ。

 けれど、それよりも何よりもまずは矢鏡との距離が近い事が問題だった。恥ずかしさから、紅月が体を離そうとした。が、それよりも先に矢鏡が更に距離を近づけてきたのだ。



 「うん……本来の沈丁花より少し甘すぎる気がするが、いい香りだ」

 「ッ!!」



 クンクンッと紅月の首筋に、矢鏡が鼻を近づけて匂いを嗅ぎ始めたのだ。

 突飛な行動に、紅月は呼吸が止まりそうになり、体がビクッと震えた。


 甘い沈丁花と落ち着いた木の香りである沈香が混ざり合い、薫りが鼻先で溢れかえる。

 まるで2人が混じり合っているような感覚に、一気に体温が上がる。



 「や、矢鏡様ッ!近いですッ!!」



 先程からの密な距離。

 男性慣れしていない紅月にとって、もう我慢の限界だった。

 気づくと、大きな声を出して矢鏡の体を思い切り押してしまっていた。

 突然の行動に、矢鏡も体をよろけさせながら後退し、驚いた表情で紅月を見返していた。



 「紅月?一体どうした?」

 「距離が近かったもので………。いくら夫婦になったばかりだといえど、急にそんな事をされては困りますッ……!」



 顔を背けながら、早口で抗議する紅月を落ち着いた態度で、見つめる矢鏡。

 そんな様子を見た後、何故か満足気に微笑みを零した。


 「なんだ、照れているのか?顔が真っ赤だぞ?」

 「なッ!?それは矢鏡様があんなに近寄るからで」

 「なるほど。先ほどの話は本当だったんだな。どうやら、男性慣れはしていないようだ。安心した」

 「や、矢鏡様ーッ!!」



 神様は何とも強気で勝手なのだろうか。

 やはり、人間とは違う存在なのか。


 その後の夕食では、矢鏡のハンバーグだけがやけに小さくものがよそわれて出てきたのだった。












 「さて、それでは蛇払いでもするか」



 食事もお風呂も終わり、もう寝るだけになった頃。矢鏡は、「もう寝るか」というかのように軽い口調で紅月にそう言ったのだ。呪いを払うとなると、もっと大がかりな準備が必要だと思っていただけに、紅月はぽかんとしてしまった。

 神社でご祈祷をしてもらう時にお経を上げたり、川で禊をしたり、呪いと激しく戦ったりすると思っていたので覚悟していたが、どうやら神様ならば簡単に対処出来るのだろう。もしかすると、言葉ひとつで終わったりするのだろうか。

 そうでなければ、そんな明るい声音で言うはずもないのだろう。


 そう思うと、紅月は一気に気が楽になってきた。

 が、その期待はすぐに崩れてしまう事になる。



 「俺はほとんど廃神社になってしまった神だからな。力はあまりないんだ」

 「え」

 「だから、作戦を考えてある」

 「作戦?」



 矢鏡は腕を組んで真剣に話し始めたけれど、紅月は妙に嫌な予感がひしひしと伝わってくる。根拠はない。けれど、女の勘というものだろう。

 きっと、あまり良い方法ではない。


 緊張した面持ちで、彼にその作戦内容を聞いてみる。

 すると、矢鏡は聞き覚えのある昔話のタイトルを言ったのだ。



 「『耳なし芳一』、だ」

 「耳なし芳一って、あのお話の?お経を耳に書き忘れたから耳を取られてしまったっていう?」



 耳なし芳一は、日本の怪談話。

 盲目の琵琶法師である芳一が、平家の怨霊から逃れるためにお寺の住職に全身にお経を書いてもらうのだ。その夜、平家の亡霊が芳一の元へ訪れるが、お経のおかげで亡霊には芳一の姿が見えなくなっていた。が、住職は耳にお経を書き忘れてしまい、見えていた芳一の耳だけを亡霊が奪って去っていく。

 そんな怖いお話だ。子どもの頃にこの話を聞いた紅月は、あまりの怖さから泣てしまったのを今でも覚えていた。日本の怪談の中でもトップクラスで知られている話だろう。


 その怪談の内容を頭に思い浮かべた瞬間、紅月はハッとしてしまう。

 もしかすると、いや、もしかしなくても作戦というのは、あれではないか、と。



 「矢鏡様。もしかして、作戦というのは……」

 「そうだ。全身にお経を書くんだ」



 やはり、予想通りの言葉が返ってきてしまった。耳なし芳一の主人公のように、体にお経を書いていくと言うのだ。



 「それは、洋服の上からじゃないです、よね?」

 「肌に直接書かなきゃ意味はないだろうな」

 「そ、それは無理です……」

 「恥ずかしさを我慢するしかないだろう。命を失うよりいい」

 「んーーー……!!」



 矢鏡が言っているはもちろん理解している。

 呪いにより死ぬ運命なのだから、裸になるぐらい堪えなければいけないのはわかる。けれど、矢鏡の前で全裸になり、筆で肌にお経を書かれるのだ。想像しただけで恥ずかしさで体が震えてしまう。

 子どもの頃、「売り切れなんだから、我慢しなさい」と言われた時と同じぐらいに何故か納得できない。



 「墨や筆を準備しておく。紅月は、服を脱いで」

 「………」

 「ん?……紅月?」

 「…………矢鏡様のエッチ」

 「えっち?なんだ、それは。どういう意味だ?」

 「や、やらしいという事です。……破廉恥です!」

 


 紅月は顔を真っ赤にさせながら、うつむいたまま大きな声で抗議をする。

 その声はいつもより部屋の中に妙に響き、音が残ったように感じる。が、それはきっと急にその場が静かになったからだろうか。紅月の言葉の後、矢鏡は何も言わなかったのだ。

 そして、反応がないことに少し自分が言いすぎたのではないか、と次第に紅月は不安になってしまう。


 彼は紅月の残り少ない命を思って考えてくれた作戦なのだ。

 それなのに、いくら裸になれと言われたからといって、少し冷静さを失っていたのではないか。そんな風に不安にになってしまう。

 恐る恐る顔を上げる。と、そこには紅月の顔がうつったのか。真っ赤になった矢鏡の顔を目に飛び込んできたのだ。あれほど真っ白だった顔が、真夏の炎天下の日に海水浴に行った時のように見事な赤に染まっている。



 「や、矢鏡様?ど、どうしたのですか?」

 「おまえがだけが恥ずかしいわけじゃないのだぞ。俺だって、人間の娘の裸をみるのは望んで行うわけじゃないのだッ!!」

 「は、はい………」

 「………けど、少しだけ我慢をしてくてくれ。俺は、紅月を助けたい。俺の力が強ければ、こんな事をしないでも呪いを払えたんだが、今は無理なんだ。力不足で。だから」

 「矢、鏡様……」



 始めは恥ずかしそうに声を荒げていた矢鏡だったが、すぐに冷静になり落ち着いた口調に戻っていった。それと共に、切実な声音になるのだ。

 紅月に対しての申し訳なさと自分の力の足りなさを恥じているような様子だった。



 廃神社になる寸前のところまでいってしまったのは、矢鏡のせいではないはずだ。

 そこに住む人間が大切にしないからだ。

 それなのに、彼は自分の力足らずな所を恥じているようだ。


 矢鏡に何を言わせているのだろうか。

 自分は命を助けてもらう立場だというのに。


 紅月は咄嗟に顔を上げて、矢鏡の駆け寄り手を掴んだ。

 そして、背の高い彼を見上げながら、「すみませんでした」と自分の愚かさを謝罪した。



 「矢鏡様が助けてくださるというのに、すみませんでした。……裸になるのは正直恥ずかしすぎるのです。そ、その男性とそのような経験がないので、神様でもどうしても躊躇してしまって。ですが、頑張りますので。矢鏡様は力不足などではありません」



 彼の月色の黄金の瞳を見つめ返し、切実な声でそう訴える。

 自分が間違っていた、と。だから、自分を責めないで欲しい。そんな気持ちを込めて。



 「よし。その言葉を忘れるなよ」



 すると、先程の切なげな表情とは打って変わって、ニヤリと口元を曲げて勝ち誇ったように微笑む矢鏡の顔に変わっていた。この神様は悪い意味でコロコロと表情がわかるのだ。そう、わざと変えていたのだろう。



 「や、矢鏡様ッ!?騙しましたね?」

 「そうか。紅月は俺が初めての男なのだな。いい事を聞いた」

 「なッ!!矢鏡様ッ!!」



 満足気に声を零した矢鏡は、「さて準備をするか」と、何もないところから硯を準備して墨をすり始めた。

 それに文句の声を上げても「いいから、準備をするように」と先程言った口約束を出されてしまい、紅月は黙るしかなかった。



 やはり、この神様はずるい。

 紅月は矢鏡に隠れてため息をついたのだった。




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