第6話 理性よ永遠なれ
いよいよ十一月、豊穣神デメテルを祭る秋のテスモポリア祭の日がやってきた。
この祭典では、ギリシャ全土から集まった高校生たちが、楽器試合で腕を競う。
そして、開催以来の連続優勝を果たしているトロイア高校が、名誉ある一番手を買って出ていた。
全体レベルが分からないうちは、審査員も高得点を付けづらい。それにどの高校生も緊張でガチガチだ。あえて不利な先陣をつとめるのは、彼らの栄誉であり、余裕の表れ、自信の誇示に他ならない。
「やつら、こないだの練習試合と同じ曲だな」
「ああ、意趣返しにはもってこいだ」
その演奏は、誰の耳にも今日一番の出来なのは明らかだった。ひたすら練習に励んだ成果であろう。同校のPTA会長であるアポロンも、来賓席でこれ以上なく満足げにうなずいていたのだ。
「より堅実で、優雅で洗練され、そしてミスがない。それこそ、人々と審査員が良しとする音楽の理想だ」
ケイロンが厳かに説く。
いまギリシア高校の生徒たちは、ステージ近くの小広間で出演を待っていた。
前回の惨敗は誰の記憶にも鮮明で、観衆を興ざめさせぬよう、彼らの演奏は最後にまわされていたのだ。
「どうだ、貴様らには、あんな演奏ができるか?」
「できねぇな」
ガメノンが一笑に付す。
「そんなカタッ苦しい音楽、人間様の生き方を真っ向から否定してるぜ」
「違ぇねえ」
全員が笑いあった。
ギリシア高校は、もはやまったく臆する気配がない。
まだまだ技術は未熟だが、今日の演奏は自分たちにしかできないとの自信に満ちていた。
「ギリシア高校さん、準備お願いしまーす」
係が呼びかける声に、全員の目が戦場に赴く戦士のそれになった。
「さあ、決戦だ」
ケイロンが次々に背中を叩いて、不良どもを送り出す。
最後にアウロスを持ったアキレスが、黒髪をなびかせて師に振り返った。
「僕は今日、英雄になるよ」
「ああ」
幾多の戦士を送り出し、失ってきたケイロンであったが、今日この出立に悲壮感はなかった。
「いや、お前はアイドルになるんだ」
彼らがステージに立ったとき、失礼にも聴衆たちは無関心であった。
軽食売りを呼び止めて、夜の部の食事や酒を買い求めたり、トイレへ抜け出したり、審査結果を待たず、もはや帰り支度をしていたり。
だから、ギリシア高校の生徒たちが頭のてっぺんから傷だらけであったことに違和感を覚えず、手にする楽器がこれまた異様な組み合わせなことも気づいていなかった。
喧噪に包まれる円形劇場だったが――
ガランガシャンどこどっどんガラン!
突如、けたたましい騒音が鳴り響いた。
天空の饗宴でテーブルがひっくり返ったような、ありとあらゆる楽器の音が混じった凄まじい音の奔流。
この一発が、聴衆の意識を一気に引きつけたのだった。
ついで、静寂が襲う。
あれほど喧しかった聴衆は、いまや立つ者は座ることを忘れ、酒を買った者は支払いすら忘れて、身じろぎもせずステージを見守っている。
ひたすら長い、息づかいしか聞こえない無音の世界。まるで全ての生物が死に絶えた冬のようだ。
いや……?
気づけば、小さく小さく、アキレスの奏でるアウロスが、むせび泣くような旋律を奏でていた。
そして、やはり聞こえるか聞こえないかの音量で、少しずつ打楽器が加わりはじめている。
「春の訪れ……だ」
「植物が芽吹き始めている?」
不思議なことに、人々の耳には詩が聞こえてきた。
合唱隊が皆無なのにもかかわらず、確かに旋律の歌声が聞こえてきたのである。
黄金づくりの
ブドウ酒を注げ
蜂蜜を加えろ
香料を混ぜろ
水はほんのちょっぴりでいい
演奏にはますます熱が入っていく。音量がせりあがり、テンポも速くなっていく。
やがてアキレスが笛を吹いたまま、くるくる回りはじめた。没我の状態に入っている。それが他のメンバーにも浸透していった。
――スイッチが入ったな。
会場の最も高い席で見下ろしていたケイロンはうなずく。夢見がちな思い込みの激しい若者ほど、トランス状態に入りやすい。ただでさえ社会で抑圧されている女子だから、なおのこと大きな爆発力を秘めている。
――見たか、お上品な理性主義者ども。これが豊穣と酩酊の神の旋律だ。やつらが肉体と精神を追い込んで生み出した、貴様らとはまったく逆方向の音楽だ。
狂気はうねりを伴って聴衆にも感染していく。
打楽器に合わせて、誰もが足を踏み鳴らす。踏みならす。だんだん。だだん。
地の底から響いてくるビートは、もはや聴衆にとって
さあ、
解放のときは来たれり
性交!
暴力!
流血!
中毒だ!
いたぶる相手がいなければ
我が身をこぞって切り刻め!
子鹿の皮をまとい、
未開の野蛮で奔放な踊りで
この世を謳歌するのだ
大地からあふれ出るような、全身の血が沸き立つような原始のリズムを再現するステージへ、聴衆はみるみる同化していった。共に叫び、泣きわめき、手足を振り回して暴れる。もはや音楽ですらない。
「これは軽音部じゃあない。ケイオス部だ」
部活動の行く末にひとり正気を保っていたディオ教頭は、観客席で頭を抱えこんだ。しかし、ヒザが音楽にあわせ痙攣するようにリズムを刻んでいる。
「どうしたのかね、先生」
聞き覚えのある声に頭をあげる。全ギリシャ学問吟味テストの会合で遅れたオデュッセウス校長が、ようやく会場にたどりついたのだ。
「大変です、校長。もう無茶苦茶です」
ディオが言わんこっちゃないと興奮気味にまくしたてた。
「確かに、ずいぶんな盛り上がりだが、何が起きたのだ? まるで暴動のようではないか」
「いいえ校長、これは暴動ではありません」
教頭はかぶりをふった。
「革命なのです」
ツタを絡ませ
葡萄酒で河をつくり
無粋な奴らはイルカに変えてしまえ
古くて新しき神
その名は
ディオニューソス・エイラフィオーテース!
「この旋律は、すでに抹殺された神のものではないか!」
トロイア高校のアポロンは、いらだちを隠せなかった。なにしろ普段は礼儀正しいトロイア高校の生徒すらも熱狂して手を打ち鳴らし、意味不明な叫び声で狂喜乱舞のありさまだ。もはや
「司農女神のための神聖なる大会が、無粋な男子高の者どもに破壊されてしまった。あの野蛮な神、ディオニューソスのせいでッ」
ディオニューソスは、強大さを誇るオリンポス十二神のなかで最も特異な神であり、美しい青年の姿をしているという。人々に葡萄酒の作り方を教えるとともに、狂乱と酩酊を広めた功績があるが、大昔には抑圧を受けていた女性にとりわけ熱狂的な信仰を受けたというから、ガメノンの記憶にあるのも、破壊されずに残った大理石像かなにかであろう。
「ようやく若者たちに、人のあるべき理想の姿が浸透してきたというとき、あの神はまた生まれ戻って邪魔をするのか」
いまや審査員も頭を激しく揺すってリズムをとり、酒杯を打ち鳴らし、講評用の楽器を手にとって好き勝手なメロディで演奏に加わっていた。
いま優劣を問えば、このなし崩し的な
「私のタイヨウヘカトンベを解き放て!」
即座に暴れ牛が咆哮をあげてステージに飛び込んだ。人の肉を食らって育てられたという狂牛は、炎の鼻息も激しく首席奏者たるアキレスめがけて突進する。
「生け贄だぁ!」
「肉だ! 肉が来たよ!」
「極上のつまみだッッ」
焦点定まらぬガメノンが立ちはだかり、
「この血は、あたたかい葡萄酒だ」
「人間の溜め込んだ悪業に、肩までじっくり浸かって、百万年数えろ~っ」
意味不明な呪いの言葉を吐きながら、ギリシア高校の生徒たちは体中を赤く染めて、あわれな犠牲を骨に変えてしまった。この一部始終を目の当たりにして、オデュッセウス校長は快哉を叫ぶ。
「見事だ! 素手で牛を引き裂くとは、よくぞ鍛えたものよ。かのヘラクレスに匹敵する猛者たちではないか」
興奮した観客が、ついには服を破り捨ててステージで踊りはじめる。
その中には、かつてのネラオの恋人ヘレネの姿も。
「ネラオ、アンタってば最高!」
「ヒュエス! アッテス! アッテス! ヒュエス!」
夜の帳が訪れたのちも狂騒は収まることなく、人々がようやく我に返ったときは、すでに三日三晩が経過していたという。
かくして酒神ディオニューソスを讃えるこの野性の演奏は、強烈なイメージを若者達に植え付け、その後またたく間に全ギリシャに広まった。
そしておよそ十年の内に、これまで支配的だった荘厳かつ教訓的な音楽の全てを駆逐したとのことである。
その中心となったのは、他でもない新時代のアイドル、アキレスであった。
また、テスモポリア祭が男子禁制となって女性だけの祭りに変化したのも、この出来事がきっかけだったと一言申し添えておきたい。
トロイアウォーズ ~半人半馬先生の10年戦争~ モン・サン=ミシェル三太夫 @sandy
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