第5話 アキレス! 君は女!?

 水曜日。ヘルメスの日。

「ストレッチは、ゆっくりやれ。圧力はかけすぎるな。軟骨を痛めるぞ」

 若いと人体や骨関節がやわらかいため、どんな動きも器用にこなせる。だが、決して猛訓練はさせないのがケイロンの基本方針だった。

「貴様らの身体はやわらかい。それは同時に、脆いということだ」

 柔軟にして強靭な肉体を練り上げること。それが念入りなストレッチの主目的だった。

「どうしたアキレス、背中でも痛めたか」

 ケイロンの指摘に、生徒は顔をしかめる。まさにその通りだったのだ。

 半人半馬の教師は、いやがるアキレスを毛布の上に仰向けにさせた。

――こう恥ずかしがる仕草は、どうにも少女のようだな。

 湧き出る雑念を振り払い、ケイロンは二本の笛を生徒に渡す。

 長さの異なる二本の縦笛を同時にくわえて、両の手を同時に操るアウロスという楽器であった。

「寝転んだまま、吹いてみろ」

 ぶびーべぺぺぺぺ。

 脊柱に歪みあれば、音も歪む。寝ながら笛を吹くことで、それを自覚できるのだ。

 アキレスはこのとき初めてリュラ以外の楽器に触れた。

 リュラは、定位置をつま弾けば、必ず決まった音が鳴る。だが、この笛は違った。その旋律は不安定なため、二本の笛の音が正確なハーモニーを重ねることはない。

 人の叫び声に似た音色と相まって、それがアキレスにとって、決して重なることのなかった二人の男女を想起させた。

――これぞ人間だ。

 アキレスは、自分の養育でことごとく対立した父母を、その笛の音で思い出したのだ。

 馴染まぬようで、近づいては離れ、離れてはまた近づき、どうにか一つの曲を奏でようとする。なんとも不器用な楽器に、この若者は黙しがたい愛着を覚えた。

「僕はこの楽器を使いたい」

「そいつぁダメだな」

 手にしたアウロスを、ガメノンが横取りした。

「この笛は、肺活量がモノを言うんだ。腹式呼吸もできない、水泳もできない、そんな奴に吹かせられるか」

 ぐっとアキレスは言葉を飲み込んだ。

「おまえは、テュンパノンでも叩いておけ」

 テュンパノンは片手で持てるサイズの、指で弾くだけのささやかな楽器である。現代のタンバリンに近い。これがなぜか当時は、女の楽器とされていた。

「アウロスは、舶来楽器の花形だ。番長の中の番長たるこの吾輩にこそふさわしい」

「確かにその通りだが」

 ケイロンが言いかける間もなく、怒りと悲しみに支配されたアキレスは、逃げるようにその場を飛び出していた。


――悪い癖だ。いつもカッとなると、相手を説得する前に手が出そうになる。

 アキレスはこの衝動を自覚している。

 はじめてケイロンが来た日だって、あやうくガメノンを槍で刺し貫くところだった。最近、ますます自制が効かなくなっている。抑圧された鬱憤が、日増しにつのっている。

 感情に任せて飛び出したアキレスは、一本の剣だけを佩いていた。気晴らしによく来るこの馴染みの水辺は、自分を隠すほどに背高く育ったケーンが生い茂っている。ここでなら、誰にも見られず、邪魔されず、ひたすら剣をふるえるだろう。

 このとき、ガサリと茂みから音がして、どこからか、甲高い悲鳴が聞こえてきた。

 誰だ、叫ぶのをやめろ、耳障りだ。

 違う。

 声の出どころはアキレス自身だった。

 声が枯れた頃に、ようやく恐慌から覚めた。

 葦の原っぱをかき分けて、人よりもはるかに巨大なサソリがそこにいた。ゆっくりと尾を振り、その先の毒針を誇示している。威嚇どころではない。これは狩りを楽しもうという仕草だ。ずぞぞぞぞとサソリが接近する。

 アキレスはすぐさま剣を抜いた。ジャブのように繰り出される大きく曲がった毒針を、二度三度と払ってしのぐ。

 ダメだ、盾がいる。サソリの危険は、毒針だけではない。左右のハサミも必殺の武器なのだ。

 不利を察するや、アキレスは脱兎のごとく逃げ出した。屈辱も躊躇もない。鞘に戻した剣を背負うや、ザブリと水に飛び込んで泳ぎはじめた。


 だが、誤算だった。サソリも泳いで追ってくる。ウミサソリだったのだ。

 河の対岸に上がったアキレスは、再び剣を抜きはらう。すっかり冷えた水で体力を奪われ、身体の動きもおぼつかない。しかし無情にもサソリは水を這い上がり、今まで以上に高々と毒針をふりあげた。

 もうダメだ。ならば毒針を身に受けたまま、差し違えてやろう。アキレスが覚悟を決めたそのとき、陶器を打ち砕くような鈍い音が響いた。

 バキン!

  バキン!

   ブキン!

 合計三発。何の音かと思えば、ウミサソリの頑丈な甲殻に、深々と矢が突き刺さっているのだ。

「後悔するなら今の内だ。つぎは手加減せぬぞ」

 ヒヅメの音とともに現れたのは、かのケンタウロスの姿だった。

「もう……死んでいるよ」

 アキレスはそうツッコミを入れるのが精一杯だった。

 えびらを背負い、弓を手にしたケイロンの姿を見てしまったとき、いままで感じることのない戦慄が、不意にアキレスの全身を駆け抜けていたのだ。

「ケガはないか? 急に飛び出たから、さすがに今回は見失ったぞ」

 アキレスが見たのは、世にも珍しい「馬上弓」というやつだった。

 当時は、まともな鞍などない。足を乗せるアブミすらなく、男たちは両足で裸馬の腹を押さえて乗りこなすしかなかった。

 だから馬上で剣や槍を使える戦士など、めったにいない。まして矢を放って当てるなど神業だ。

 その不可能であろうはずの馬上弓を、いともたやすく実演する存在が目の前にいた。

 強靱な四本の足で安定脚アウトリガーよろしく大地を踏み締めて、高所からの一矢を寸分の揺らぎもなく放つ。強壮な肉体が可能にした強弓の戦士、それがケンタウロス族だった。

「あの巨人オリオンすら一撃で屠れるであろう海サソリを、たやすく殻ごと射貫く男……」

 この男こそ、探し求めていた弓の名手ではないのか?

「ケイロン!」

 走り寄ったアキレスは歓喜のあまり跳躍し、ケイロンの胸に抱きついた。

「ケイロン、あんただ! 僕を英雄にしろ!」

「おいおい、いきなりどうした……」

 そして、その感触と濡れた服ごしに見える肢体から、教師は気づいてしまったのだ。

 アキレスが少女であることに。


「それが、水泳を避けた理由か」

 目を空に向けるケイロンの態度に、アキレスはようやく自分の有様に気がついた。

 みるみる顔を赤らめると、ケイロンから飛び離れた。着地に失敗し、したたかに足首をひねったようだ。

「なぜ男の振りをしていた」

 ケイロンは座り込む少女にマントを手渡した。

「ひとたび英雄の子として生を受けたからには、英雄を目指すものだろう」

 アキレスの父ペーレウスもまた、アルゴ船に乗るなどで名を知られた英雄の一人であった。

「だが僕は女で、世間では男の所有物だ。決して戦いと冒険に彩られた人生は歩めない」

「一途というか、思い込みが激しいというか」

 しかし、この少女をいまケイロンが諭したところで、一割も理解しないだろう。

「ともかく、今は俺の背中に乗れ。血の臭いをかぎつけて、小サソリが集まってくるぞ」

「いいのか? ケンタウロスは誇り高い生き物だと聞いたが」

 かの種族は馬扱いされることを極端に嫌う。誰かを乗せるなど、本来はあり得ない話だった。

「今日は大サービスだ。貴様が新しく生まれた記念にな」

「生まれた?」

 服のスソをしぼりながらアキレスが聞き返す。

「さっきは腹の底から声を出して、さぞかし気持ちがよかったろう? おまえの絶叫は地の果てまで響き渡っていた。おかげで居場所がわかって、間一髪で駆けつけられた」

 その言葉にアキレスは口元を押さえた。

「とっさに腹式呼吸をマスターしたようだな」

「ああ、どうやら呼吸法はばっちりだ。大声を出したおかげで、わだかまってた鬱憤もさっぱり消え失せたよ」

 彼女はケイロンの首に両手をからませる。

「今まで僕は、いったい何をこだわり、何に焦っていたんだろうな」

 確かにアキレスの心は、新しく生まれ変わったような満足感にあふれていたのだ。


 アキレスを乗せて、ケイロンは河を泳ぎ戻った。

「僕の稽古場だ。日頃から腹立たしいことがあると、ここに来ては剣を振るっていた」

「よっぽど腹に据えかねる毎日だったようだな」

 その一帯の葦は、広範囲にわたってことごとく切り伏せられていたのだ。

「ああ、鬱屈しているよ。女ってのは我ながら面倒な生き物で、毎日ストレスの連続だ。すぐさま癇癪を爆発させられる男どもが羨ましい」

「その鬱屈のおかげで、良いリードが得られそうだ」

「リードだって?」

「アウロスのリードだ。ここの葦なら、いい材料になる」

「ああ、笛の口元でビリビリ響いてた薄い板か。たしかに葦笛と同じ香りがした」

 リードとは、葦を薄く削ったもので、音の鳴る原理は草笛に近い。なお、葦は竹と同じ稲科の植物だ。

「なら、ガメノンに持って帰ってやろう」

「憎いんじゃなかったのか」

「軽音部の勝利のためなら、いくらでも協力してやる」

 この若者は、本当にふっきれたようだ。ケイロンはぴくぴく耳を動かしながら笑みを浮かべ、切り捨てられた葦の一つを拾った。

「丈夫さを考えると、二年は経過したものがいい」

「十分だ。背が高く、わりと手応えのある葦ばかり斬ってきた」

「刈り取るにも熟練が必要だぞ? 音楽を愛する神アポロンは、太陽の神でもある。彼に妬まれぬよう、こっそり夜、月が沈みゆく時刻に収穫するのが理想だが」

「それも好都合。僕の剣の習練は、たいがい夜中だったからな」

 だから今まで昼行性のウミサソリにも襲われずに済んでいたのだ。

 その時、葦の小山に、空っ風が吹き抜けた。

 切られた葦の乾燥具合も申し分なかったが、それはきっとこの風の効果だろう。

「こっちの葦を切った時期はいつだ」

 手にした葦の茎を、ケイロンは頭を下げぎみに観察する。

「太刀筋の甘さからして、昨年の初夏だろうな」

「よかろう、一年でいちばん弾力のある季節だ。これなら使えるぞ」

 アウロスはダブルリードだ。

 一本の笛に同時に二枚のリードを使い、それが左右二本。つまり一日で四枚を使いつぶす。

 良質な乾燥済みの葦が大量に手に入ったのは、軽音部にとって僥倖であった。

――それにアキレスが女だったとはな。奴らがあの音楽にたどりつくとしたら、まさにうってつけだ。

 心中で神々に感謝の祈りを捧げるケイロンの思いをよそに、アキレスは片足を引きずりながら嬉々として葦の束を拾い集めていた。


 一方、アキレスを追ってケイロンが飛び出したあとの部室では、残った生徒がわりとマジメに練習に苦心していた。

 とりわけアウロスをつかんだガメノンは、その難しさに疲れ果てていた。息を吹き込んでもめったに音が鳴らない。しかも左右の手で別々に動かさねばならない。

 肺活量だけあっても、この二つを組み伏せるのは容易でなかった。

「くそっ」

 ガメノンは壁を殴った。みんながその音に飛び上がった拍子に、彼らが手にした楽器たちが各々の音を放つ。

「ん?」チャリンチャリン。

「え?」シャンシャン。

「お?」じょあぁぁぁぁぁん。

 部員たちは何かを感じ取った。

 どん。どん。

 ガメノンが壁を殴ると、心地よい音がする。

 だん。どん。だん。どん。

 彼は何かに取り憑かれたように壁を殴り続けた。


「なんだ、あの音は」

 校長室でオデュッセウスが耳をそばだてた。

「誰かが壁を殴っているようです。やめさせてきましょう」

 生活指導の教師が部屋を出ようとするのを、校長が制止する。

「いや、これも新しい練習かもしれん。どのみち旧部室棟は取り壊す予定だしな。しかし」

 ますます壁を殴る音は大きくなっていく。

「大した音だ」


 ガメノン番長、太鼓に目覚める。

「太鼓こそ男の楽器よ。これぞ楽器の王っ」

「太鼓だって?」

「太鼓だっ。とにかくデカい奴を見つけてこい!」

 部員総出の捜索の末、ほこりを被ったメガロテュンパノンが倉庫から探し出された。これは現代のティンパニに近い楽器である。

 そこへリードにふさわしい乾燥葦を持ってきたアキレスが帰って来た。

「ガメノン、さっきは見苦しいところを見せたな。ところで、リードに使える葦を見つけてき……」

 番長がメガロテュンパノンを打っているのを見て目を白黒させる。

「もう飽きたのか!?」

「いや、諦めたのだ。アキレスよ、アウロスはお前にこそふさわしい。吾輩はこいつを……」

 そして汗だくで顔をあげたガメノンも言葉を失う。

 アキレスがまるで別人に見えたのである。

 乾いていない黒髪が艶やかに光っているせいもあるが、すべてが吹っ切れた表情と、ケイロンの馬体に右手を預ける立ち姿が、あまりに神々しく彼の目に映ったのだ。

――吾輩は、この姿をどこかで見たような気がする。多くの動物を従えた、真白な大理石の石像だ。

「ガメノン?」

「いや」

 頭をふる。

「吾輩もすまなかった。アウロスの神妙な音色は、お前に向いている」

 ケイロンが秘蔵の金型を取り出して、アキレスにリードの削り方を教えている間、ガメノンの視線はずっとその姿を目で追っていた。


 日々の基礎練習に加えて、楽器の練習も本格化していったが、大会が近づくにつれてケイロンはいっそう悩み顔を深くして校長室を訪れていた。

「間近に迫った秋の祭典で、いよいよ再戦となります」

 悩みというのは、ギリシア高校の演目が、楽器演奏だけだったことだ。

 当時の「音楽」とは、楽器の演奏だけでなく、詩や舞踊も含めた総合芸術を意味していた。

 単独で試合に出られるのは、キタラーやリュラといった限られた楽器だけ。それ以外は、詩の朗読の伴奏であったり、祭礼や葬儀のBGMとして使われるのがもっぱらだった。

 ケイロンの指導のもと、軽音部はリュラを捨てた。

 その他の楽器は、アウロスからメガロテュンパノンの他、クロタル、シンバル、パンパイプ、サルピンクス、キュンバラ、シストロンなどなど打楽器がメインで、多用な陣備えだが弦楽器は一つも含まれていなかった。

――音楽としての体裁を整えるためにも、聴衆のハートをつかむためにも、合唱なり舞踏なりを入れるべきでは。

 そうケイロンは思案していた。軽音部の連中に、今さら踊りや詩の朗読まで教え込む余裕はない。かといって、他の部に応援を依頼するのも新参のケイロンには難しかった。

「今からか。前回は生徒たちの甘えがあって、大敗したと聞き及んでいるが……今回はなにか秘策でもあるのかね」

「剣劇をもって、気分を盛り上げるのも一案かと」

 武器の扱いならお手の物。刃をつぶした舞踏用の剣を持たせれば、どうにか見られる演出ができるかもしれないと彼は考えたのだ。

「剣戟とは、おだやかでないな」

 ケイロンの苛烈な体罰教育を想像し、歴戦の校長は冷や汗をにじませた。

「ステージの空気は一変するでしょう。やるからには徹底的に、と思いましたが」

「徹底的に! まさか殺すのも辞さないつもりか」

「おや、合唱隊コロスも必要ありませんか」

「私が見た限りでは、あの生徒たちはケイロン先生を信頼している。とりわけ不良集団の頭目あるガメノンが君のほうを見る目は、もはや崇拝に近かったぞ。彼らを信じて、もっと自由に全力を発揮させてやればどうだ」

 ケイロンは感動した。

「さすがは多くの部下を従えてきた堅忍不抜のオデュッセウス校長です。言われてみれば、俺は奴らを信用しきれていなかった。教育者にあるまじき態度です」

「わかってくれて嬉しい。大会の日は校長会議があるが、終わりしだい私も駆けつける」

 腹は決まった。奴らの楽器だけでいく。若き教師ケイロンは心を定め、ますます軽音部の指導にのめり込んだ。


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