第4話 偶然は疑いを越えて
おかしな新任教師が、おかしなことを始めている。
自分のことしか考えない教師陣のなかで、一人だけそれを気にしはじめた男がいた。
「オデュッセウス校長、あの新任教師は、どうも武芸ではなく、音楽を指導しているとのウワサですぞ」
「おかしな話だな、教頭。武術に長けたケイロン先生が、なぜ音楽を?」
そこまで言うのならと、二人はこまめに軽音部の練習を視察することにした。
日曜日。ヘリオスの日。
「息を吸ったり吐いたりしていますな」
ディオ教頭は、物陰から見たままを、口にする。
「教頭、あれは呼吸というのだ。生きているなら誰にでも必要な行為でな」
と、生真面目に答えるオデュッセウス校長。
その通り、ケイロンは呼吸法を指導していた。
「呼吸には大きく分けて三つある」
「はいはい!」
ネラオが挙手して答える。
「息を吸う、息を止める、息を吐く、ですね!」
「我が弟、見事な答えだ!」
ガメノンが、感動を堪えきれず抱きしめる。
「……そうではない」
ケイロンは鼻を鳴らして説明を続ける。
「呼吸法と名の付くものが三種類あるのだ。お前たち男どもは、たいてい無意識に腹式呼吸をやっている。だが、他の呼吸法も知っておけば、使いわけが可能だ」
――おや?
ケイロンが気づく。
寝転んで自分の腹を眺めながらの深呼吸トレーニングの最中、アキレスだけが女子に多い「下部肋骨式」の呼吸をしていたのだ。
「スポーツ万能のおまえが、そういう呼吸をしていたとは意外だな」
四つ足をたたんでしゃがむと、ケイロンはぽんぽんと若者の腹をなでる。思いのほか腹筋が少ない。
「さ、さわるな」
イモムシのように身をよじらせる仕草が、妙になまめかしかった。
「正しい呼吸法は正しい姿勢によって保たれる。ちょっと片足で立って、目をつぶってみろ」
ケイロンを早く遠ざけたい一心で、表向き素直にアキレスは従った。
「それが、世界の水平だ。重力だ」
サンダル履きの足を通して、大地から何かが這い上がってくる心持ちがアキレスにわきあがった。
ためらいもあったが、そのまま深呼吸をする。つぶれていた革袋がぱりぱりと伸びていく感触が体内に起こる。
「呼吸法さえマスターすれば、あらゆる緊張をときほぐすことができる。高ぶる感情を自在にコントロールすることも不可能ではない」
そんなケイロンの説明も、どこか遠い日の思い出のように聞こえていた。
どれだけの間、そうしていただろう。アキレスは目を開けた。ずっと別世界にいた気分だ。
ケイロンはすっかり遠くに行って、別の部員の呼吸を指導していた。
――あの馬男、実はすごいヤツなのか?
教師が視線に気づいたように振り返った。
「腹式呼吸を極めるためには、腹筋を鍛えろ。特に横筋だ」
ちっ。
素直に従うのも癪だったが、アキレスはその日ずっと地面に寝そべって、浮かせた両足を左右にひねる筋トレにあけくれた。
月曜日。セレネの日。
「人が初めて奏でた楽器はなんだと思う」
ケイロンが唐突な問いを発する。
「アウロスか」
「リラだ」
「パンパイプさ」
「いやもっと単純なものだ」
と、ケイロンはヒントを出す。
「きっと太鼓だ。太古の楽器だけにな」
「人だよ」
教師が答えを言うと、失笑があふれた。
「貴様ら、笑ったな?」
生徒たちをみまわす。だが目は笑っていた。
「その笑いも立派な音楽なのだ。そもそもパンパイプは妖精の声。ロンボやアウロスは死者の声。どれも人の声をもとに作られている」
手を打ち鳴らし、泣き叫び、それが音楽となったのだ。
「よって今日は、気合いと発声の練習を行う」
なんだそりゃと不平の声があがった直後、
「喝ァーッ」
ケイロンの鋭い叫びが、部員たちを金縛りにした。
「人の力が最も発揮されるのは、この気合いを発した瞬間だ。開放された力は、神に比肩しうる。どんな不可能ごとも、可能にする」
「すげえ」
しびれが解けてきた部員が、ツバを飲み込む。
「地の果てまで届く雄叫びを放て!」
「うぉっしゃーっ」
「その調子だ!」
「おー」
「アキレス、声が小さいぞっ。腹から声出せ!」
「ヘレネのばっきゃろーっ」
「いいぞ、ネラオ!」
魂を振り絞るような叫びは校長室まで届いた。オデュッセウス校長とディオ教頭は、視察にやってくる。
「どうだね、彼らは試合に負けて以来、やたら練習しているじゃないか」
「彼らは心を入れ替えました。ようやく基礎から鍛えていけます」
ケイロンは満足げに、部員たちの練習を見渡す。
「うむ、基礎鍛錬は重要だ」
「この気合いの練習は、肺活量はもちろん、身体の内側から免疫力を高めます。そしてバランス感覚を磨く。そう、
「うむ、若者は
健全な肉体は健全な精神に宿る。この認識は古来より常識である。そして生徒の親というのは、読み書きそろばんよりも、むしろ品行を正しくすることを学校に求めていた。
オデュッセウス校長が大いに喜んだのも当然である。
「古来、体育は健全な肉体を育て、音楽は健全な精神を育てるものです」
「うむ、キミの指導方針に間違いはないようだ」
ディオ教頭だけが腑に落ちない表情で、意気投合する(ように見える)二人の会話を眺めていた。
火曜日。アレスの日。
太陽の照る午前中は、プールにかぎって水はまだ温かかった。軽音部の一同は、一糸まとわぬ素っ裸で水練に励んでいる。
「水泳は、呼吸器を乾燥させずに全身を鍛えられるから、音楽屋には格好のトレーニングだ。突き指もなく、関節への負担も少ない。そして心肺機能を強化する」
しかしアキレスだけが服をきたまま、一人で勝手にストレッチなどをしている。
「泳がないのか」
「水は嫌いだ」
ははーんとケイロンは邪推する。
「泳げないなら、なおさら練習をしろ。お前も軍船に乗って戦いに出ることもあるだろう」
アキレスはふっと口元をゆるめて遠い目をした。
「むかし、どぶ漬け健康法とか聞きつけた母親が、僕の足首をつかんで河の水にだな……」
どうやら触れてはいけない過去があるらしい。
「頼むから放っておいてくれ」
すがるような目つきで見上げられては、さすがにケイロンも見逃すほかなかった。
――俺も甘いな。
数多くの英雄を育ててきたケイロンにとって、アキレスはぜひとも磨き上げたい逸材だ。だが、彼が世に送りだした英雄は、誰もが冒険に命を削り、栄光と引き替えにその後の人生はどぶ漬けならぬ悲運漬けであった。
――俺の身勝手な教師根性が、彼らを過酷な運命に追いやったのか?
いや、それは傲慢に過ぎる。死すべき存在である人間ごときの運命は、全て不死たる神々の御心のままなのだ。いかに抗おうと逃げ切れるものではない。
――だから神託を受けた俺は、この地に立っている。
アキレスも、他の連中も、きっと偉大な何かをやらかすだろう。その予感を胸に秘め、ケイロンは最後まで見届ける決心をすでに固めていた。
「よし、上がれ。次は踊りの練習だ」
「踊りだってー?」
「次から次へと、この教師は……」
「音楽はリズム感と、仲間とのタイミング合わせが命だからな」
――これで彼らの楽器適性はほぼ把握できるだろう。
ケイロンは脳内の粘土板に刻んだ生徒たちのデータを読み返すことで、はやる気持ちを鎮めるのだった。
どこで聞きつけたか、ディオ教頭がまたもやオデュッセウスに注進に及んだ。
「校長、きゃつらは踊りに興じるとか言ってましたぞ」
「やれやれ、きみはまだ鉄棒曳きどもに振り回されているのか」
視察がてら二人が校長室を出たところ、軽音部は
「ガメノン、うまいな!」
ケイロンは、褒めるべきは容赦なく褒める。
「当然だ! 俺たちの故郷スパルタでは、これは兵役訓練の一環だ!」
武器を持たせれば、やはりアキレスの動きも鋭い。剣と槍を両手に持っての鮮やかな体さばきに、遠巻きに見ていたオデュッセウスはさらに眼を細めた。
「ディオ教頭、彼らはちゃんと武器の練習をしているではないか」
「は、はあ」
これ以降、二人の軽音部の視察は、ほとんどなくなったのだった。
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