第3話 開かれた戦端

 楽器の練習を始めて数日で、副部長のアイアースが部室に飛び込んできた。

「とととっとトロイア高校の連中と試合が決まったぞ!」

 この男は「羊殺し」と異名をもつ怪力の持ち主だが、早合点のおっちょこちょいでも学内随一だった。

「試合ってなんだよ。初めから落ち着いて話せ」

「は、はじめ世界は無であったが、そこに混沌カオスが生じた。混沌からは大地ガイアが生まれ」

「そこからかッ」

「誰が宇宙の初めまで戻れっつった」

「トロロロイア高校のバンドやってそうな連中と街で口論になったんだっ」

 それだけで部員達は納得した。要はケンカの流れで、勝手に演奏の予定を組んでしまったというわけだ。

 遅れて聞き及んだケイロンは、部室にやってくるや腕組みをして思案顔となった。

「だって、つい話がさー」

「貴様らに楽器試合は早すぎる」

「でもよー、トロイア高校の連中を凹ませるチャンスなんだぜー」

「かわい子ちゃんが多いんだろ? いいとこ見せてやんよ」

――ものは試しか。

 そもそも話が相手高の顧問にまで届いているらしく、もはやキャンセルは礼を失することになる。

「いいだろう、楽器試合にあわせた練習メニューを組んでやる」

 ケイロンの決定に部内の空気は、一気にわいた。

――歯が立たないとはいえ、善戦さえすればいい。それが本人たちのやる気につながるなら。


 だがその期待は大きく裏切られることになった。


 勝負の会場となった石造りの円形劇場では、弧を描くようにえぐられた丘の斜面が、そのまま観客席となっていた。上から下まで、木のベンチを並べて、数千人は座ることができる。

 傾斜を降りきった一番低い場所がステージだ。ここで声を張り上げれば、観客席の最上部にまで声が届く。屋根はもちろん無い。土地柄めったに雨が降らないから、青空劇場で十分なのだ。

 そんな場所でトロイア高校との楽器試合が行われた。観客のほとんどはトロイア高校のヒマな教師と生徒だけだったが、それでもギリシア高校の軽音部員らが気後れするに十分な舞台だった。

「おま、ちょっと震えすぎだ」

「こ、これはビブラートの練習や。久しぶりに女どもを見て武者震ってんや」

「合奏でビブラートをかけてどうするよ」

 落ち着かない連中を尻目に、先攻のトロイア高校の演奏が始まる。曲目はアポロン神を讃える演奏だった。

 アポロンは、トロイア高校のPTA会長でもある。

 当時はまだ神話の時代で、人と神と精霊たちとの境界はひどく曖昧だった。互いに結婚をしたり子どもを作ったりも珍しくなかったのだ。だからこの演奏では、身内を褒めそやすというより、純粋に神に捧げる楽曲であった。

 リュラは唄うように、アポロン神を讃えはじめた。


  詩神ムーサイよ、銀の弓もつアポロンを讃え歌え

  神楯アイギスもつゼウスと、レートーの息子

  あらゆる文化を愛でる芸術神にして医師会理事

  トロイア高校の創設者にして現PTA会長

  学友会名誉顧問――


 讃歌ほめうたの基本は、詩女神ムーサに呼びかけ、神の由来や業績をたたえ、最後にその神に訴えかける順で形式化していた。

 人々は斬新なメロディよりも、耳慣れた旋律が洗練されているのを好んだのである。


 さて、トロイア高校の演奏を聴き、我らがギリシア高校の軽音部は、さらにビビリが入った。

 容易に敗北が想像されるこの勝負、まず恐怖が先にやってきた。

 はっきり言って絶望した。

 そして、彼らはひどくふざけた演奏を披露してしまったのだ。

 てんでバラバラに弦をつまびき、ニヤニヤと笑い、なんの曲を奏しているのかわからない。

――俺たちは本気を出していない。だから、これは負けたことにならない。

 そんな幼稚な態度に、観客達は怒りを覚える以前に、あきれかえった。

 十二人の審査員の評価は、一〇九対〇。史上まれに見る点差により、ギリシア高校は惨敗した。


「はは、負けたぜ」

「そりゃ本気で練習してなかったからな」

 自分たちが何をしでかしたかも分からないまま控え室に戻ろうという廊下で、ネラオは一人の少女が立っているのに気づいた。最近までつきあっていたヘレネだ。

 彼女に気づいた少年は、いそいそ笑いながら近づいていき話しかけようとしたタイミングで「最っ低」という、ひどく簡潔な言葉で叩き伏せられた。

 ネラオはヒザから崩れ落ち、目の焦点は乱れ、口からは聞き取れない小声がこぼれる。

 そういう状況下にケイロンがやってきた。彼は生徒たちを改めて眺める。やはり誰一人として指先にささくれなく、汗ひとつかいた形跡がない。

「音楽やりゃ女にモテるつったろーよ!」

 生徒たちが一斉に取り囲む。

 とりわけ、ネラオの落ち込みように動揺したガメノンは、激しくケイロンに食ってかかった。

 教師は遠慮なしに言い放つ。

「モテないはずだ。貴様らのやってることは、音楽ムシケではない。虫ケラだからな!」

 ガーン!

 生徒たちは耳元で銅鑼キュンバを鳴らされたように衝撃を受けた。

「虫……ケラ」

「貴様ら! 俺はいま猛烈に怒っている。どうしてかわかるかっ」

 ケイロンの馬体は、震えていた。

「なんや先公、震えとるで。身体を冷やしすぎちゃうか」

「俺の後ろに立つな、馬鹿もんっ」

 パッカーン。後ろ足を束ねた蹴りが炸裂し、生徒の数人が吹き飛んだ。

「う、馬野郎に、馬鹿呼ばわりされたぞ?」

「俺は、いいかげんな演奏をした貴様らの腐った心根が許せんのだ」

「おいおい、疲れてる俺らにお説教かよ」

 悪態をつく彼らは、しかしそれ以上の言葉を詰まらせた。ケイロンが滂沱と涙をあふれさせていたからだ。

「俺は……『年長者に言われたことを鵜呑みにして、人間らしく毎日を慎ましやかに生きる優等生』なんぞよりも、貴様らのように『世の中に疑問を抱き、獣のような野放図な生き方と、理性的な人間との狭間を行き来して倦むことを知らない求道的な不良ども』の方が好きだ」

 これはこれで褒めているつもりらしい。

「だがなっ。今日の貴様らは最低だ。音楽を馬鹿にしてる。音楽というものは、神に愛され、人々に愛され、死者すら慰めるものだ。それを貴様らは汚した!」

 ケイロンの魂を振り絞るかのような説教は、これもまた、人々を感化させる朗読や音楽のひとつなのだ。

 悔しさが伝わった生徒は、だんだんと自分たちの行為の恥ずかしさに気づいていった。

「不死なのは神だけだ。死すべき俺たちが、今この時に全力を為さず、短い人生でいったい何事を成し遂げられるというんだっ」

 もちろん生徒たちは、古代神の血をひくケイロンが不死であることを知らなかった。当のケイロンも、激高と嘆きのあまり、そのことはすっかり忘れていた。

「同じ高校生を相手に、一〇九対〇だと? おまえらはゼロか。ゼロの人間か!」

 高度な学問を発展させたギリシャ人は、しかし、ついぞ数学でゼロの概念は取り入れなかった。

 なぜか。

 ゼロとは「無」であり、「無価値」であり、語るに価しない虚しい理論だったからだ。

 つまりケイロンが人をゼロ呼ばわりしたのは、現代人が思っているよりもはるかに手ひどい罵倒だったのだ。

 ところが――

「ゼロ……ってなんかカッコイイ」

 そう呟いたのは、力馬鹿のアイアースだった。厨二病的な直感が閃いたのか、あるいは趣味の筋トレ中によく降りてくるダイモンが、今回も都合良く彼に囁いたのかもしれない。

「俺たちはゼロだ。ゼロなんだよ!」

「無からは何も得られないぞ! あんなもの、宇宙の美しい比率を穢すゴミのような理論で……」

 そうケイロンがたしなめるのを、アイアースは真っ向から否定する。

「ケイオス神だって無から生まれたんだ! 無は新しい価値を生み出すんだよ!」

「そうだそうだ、ゼロで悪いかっ」

 他の者も同調し始めた。

「ゼーロ! ゼーロ!」

――こいつらッ。

 価値があるとは、すなわち「ゼロではない」ことだ。それは「有意義」ということでもある。

 これこそが教養のある理性的な生活を送るための大原則だったはず。

 しかし、それを拒否する彼らは、いまある全ての価値観を捨て去り、獣と変わらない無秩序な生活を望むとでもいうのか。

――それはそれで、おもしろい。

 逆に彼らに感化されたのか、そうケイロンは思ってしまった。

 だが、今はまだ彼らを増長させてはいけない。

「そうか、なら貴様らは、このままトロイア高校に負け続けろ。一生ゼロのままで、やつらが一〇九人の恋人と楽しんでいるところで、貴様らは指をくわえていろ。やつらが一〇九杯の葡萄酒を飲んでいても、貴様らは水で我慢しろ」

 ゼロのままとは、そういうことなのだ。

「それでいいのか?」

 見栄っ張りで欲深い彼らが、それで満足するはずがない。

「おまえらそれでも男か。悔しくないのか! ええ、ネラオ!」

「くっ、くやしいよっ。ヘレネに嫌われた!」

「ガメノン!」

「弟と心は同じだ」

「アイアース!」

「もとを言えばばば、これは俺の責任だだっ」

「アキレスはどうだ!」

「僕はマジメに弾いてただろう!」

 ただし、壊滅的に下手だった。

「くやしいか? キサマら」

 ケイロンが問う。

「くやしいです!」

「死にてぇ~っっ」

 胸を叩き、床を殴って、遅れてやってきた敗戦の意識に慟哭する。

――こいつらは理屈云々でわかるほど利口じゃあない。だが確かに熱いものを持っている。泣いて喚いて。五感でわかりあう熱い男たちなのだ。

「いいだろう、ゼロからの出発だ。だが、奴らと同じ一〇九の音楽ではダメだ。新たな一〇九を創造してみろ」

「渋谷にビルを建てるとか」

 それは東急の109だ。時代と場所をわきまえろ。

「いいか、貴様らに教える音楽は決まった。秘儀中の秘儀、徹底的に身体を鍛えなければ、演奏のかなわぬ芸術の極致だ。だが乗り越えて見せろ。理屈も技術も超越した貴様らの魂の叫びを、他の誰にもかなわぬ貴様らの音曲を、みごと奏でさせてやる。高級な豚毛のヘラで描く美麗な壁絵ではないぞ。貴様ら一人一人の指紋のまじった、その血潮の流れる素手で塗りたくった、貴様たちだけの情熱のほとばしりだ」

 ケイロンは一気にまくし立てた。

「その道にあるのは苛烈な修行しかない。だが、それでも勝ちたいかっ」

「ったりめぇだ先公っ」

「あいつらに勝ちてぇ!」

 ケイロンはまさにその言葉が聞きたかった。やはりこいつらはノリがいい。

「俺が必ず勝たせてやる。ガサツで意地汚い底辺住まいの貴様らに、お上品なリュートなど向かぬことは十分にわかった。貴様らに合った得物を用意してやろう」

 本当の戦いはこれからだ。

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