第2話 謎の美少年


 その日の午後。軽音部の部室。

「うぁああん、お兄ちゃーん」

「どうした、ネラオ」

 部長のガメノンが、小柄な弟の背中をやさしくなでる。

「ヘレネがもう顔も見たくないって~」

「あの女狐め、トロイア高校のボンボンなんぞに鞍替えしおって」

「ヘレネは悪くないんだ。きっと誰かにそそかされて」

 サイコロ賭博に興じていた数人は、そんなやりとりを横目にして嘆息する。

「ガメノンのブラコンっぷりも、たいがいだな」

「スパルタ組の連中は脳ミソが動物本能に忠実すぎるんだ」

 小声のボヤキを、ガメノンの大音声が吹き飛ばす。

「われらスパルタ組は~、選ばれた戦士ィイ!」

「その名も高きぃ~ッ」

 周りのスパルタ出身者が起立して唱和する。

「「ラケダイモンっ」」

 ネラオも涙をふき、背筋を正した。

「ラケダイモンは!」

「「負けないモンっっ」」

「その通りだ!」

 厚く抱擁をかわすガメノンと弟のネラオ。

「俺、ガメノンは凄ぇと思うけど、あのノリにはついてけねぇ」

 熱気あふれるスパルタ組とその他の温度差のちょうど狭間に、物好きが一人(あるいは一匹)割って入った。言うまでもなく新任教師のケイロンである。

「悲劇の練習か? なかなか様になっているな」

「何の用だ、馬野郎っ」

「部活をやるぞ」

 ケイロンがにぃと歯をむき出して笑った。

「はぁ?」

「なんぞ?」

「部活だ。クラブ活動だ」

 もとより反発は承知だ。無視されるより、ずっといい。とにかくこの軽音部には、見込みのある若者がそろっているとケイロンは直感していた。

「ばっかじゃね」

「一匹で勝手にやってろよ」

「ふむ、ではこの部室はなんのためにある?」

 ケイロンは真面目な顔で尋ねる。

「こうして、青春を謳歌するための場所なのさ。俺たちは偉い偉い先輩のやってきたことを引き継いでる。なにしろ伝統を重んじる模範生だからな」

 口達者な情報屋がまず釣られた。好感触だ。こういう輩は落し所さえ見せれば、理解を示す。

「なら、伝統を終わらせよう。これからは貴様らの時代だからな」

 ぴくりとガメノンの眉が動いた。自尊心が強く、そしてリーダーシップを発揮する機会に飢えている。

「なにをやろうってんだ?」

「だから、音楽ムシケだ」

「音楽ぅ?」

「なにをいぶかしがる。貴様ら、軽音部だろう」

「おうよ、俺たちにかかりゃあ、楽器も女もいい声で鳴きやがるぜ」

「今朝まで、オレらの指先ビブラートでオケヒ連発やわ。強制ミュートしたら余計に興奮してんのや」

「そういうわけで、俺たちは朝チュンならぬ朝チューニングに疲れてんだ。放っておいてくれ」

 よくもここまで、口から出任せが出るものだ。

「そうか、俺の弟子どもはどいつも女にモテたから、貴様らにもと話を持ってきたんだが、間に合っているか」

 ケイロンがつぶやく。

 ピクっ。

 撒き餌に一同の食指がつられる気配があった。

「とりわけ、音楽好きの妖精ニンフどもが放っておくまいになあ」

「お、おれ、妖精みたことねえ」

「まあ、人間の女はもう喰い飽きたしな」

 部員たちが盛り上がり始める。

「部下に気前よく美味うまい思いをさせてやるのが、真の大将というものじゃないか?」

 ケイロンが部室の支配者たるガメノンに水を向ける。

「吾輩たちの退屈を見抜いたのは、褒めてやろう」

 もったいを付けたが、これは彼なりの承諾の印だとわかる。

「よし、決定だ。キサマらの楽器の経験は」

「な、ない」

「ねぇよ」

「あるわけないだろ」

「なんでそう、自信満々なんだ。じゃあ、何から練習する」

「女にモテるとなればリュラしかねえ!」

 一同が声をそろえた。

 リュラ(ライアー)は、古代ギリシャで流行はやった竪琴だ。

 有名ブランドのHERMESヘルメスが毎年新モデルを発表しては、若者が網にかかる魚のようにショップに詰めかける。その音の響きは宇宙的な深さに満ちて人の心に染みいり、決して声をさえぎらない。ゆえに詩の朗読の伴奏として好まれた。

 ただ。

――この粗暴な彼らに、そんな優雅な楽器がふさわしいかは疑問だな。

 しかし口には出さない。

「わかった、リュラなら学内にいくらでもあるはずだ。用務員に確認しておく」

 ケイロンの約束に、部員たちは飛び跳ねて喜んだものである。


 さて、単純にはいかないのがアキレスだ。

 スキューロス中学出身のイケメン。

 引き締まった体躯。

 オデュッセウス校長のお気に入り。

 この生徒だけが、音楽に関心を示さなかった。

「こいつは女みたいなヤツだからな。男にモテることしか興味ねぇんだろ」

「なにをっ」

 アキレスは顔を紅潮させた。

「ずいぶんオデュッセウス校長には素直なそうじゃねえか」

「ホレてんだろ、ひゅーひゅー」

「ギリシャ随一の弓の名手だぞ。敬意を払って当然だ!」

 アキレスが反論する。

「弓なら、ピロQがいるだろう。弓道部の名誉顧問だし、アルゴ船にも乗ったそうじゃねえか」

「しかもギリシャ一有名なホモだしな」

 生徒達はどっと笑う。一時期、彼とヘラクレスの仲がゴシップ紙に取りざたされたことがあるのだ。

「あいつは臭い!」

 そう吐き捨てるや、アキレスは部室を飛び出した。俊足と評判なだけに、ケイロンが振り返ったときには、早くも姿を見失いかけていた。

 あの速さから逃げ切れる生物は、世界中を探しても亀だけであろう。


「やつらと仲が悪いくせに、不思議とつるんでるんだな」

 馬脚で追いついたケイロンに、歩みを緩めはしたもののアキレスは振り向きもしない。

「やつらが暴走しないよう、校長からお目付役を仰せつかっている」

「それは驚いた」

 たぶんケイロンには説明し忘れたのだろう。

「奴らは奴らで、僕の武力を恐れている。だから独立した派閥を作って敵にまわすより、仲間に留めておこうと苦心してるのさ。ガメノンは僕が言いなりにならないのが屈辱で仕方ないから、ああして絡んでくるんだけど」

 むしろケイロンは、気になる女子をからかう子どもの振る舞いにしか見えなかったが……それはとりあえず黙っておく。

 彼がときに賢者と呼ばれるのは、この分別によるところが大きい。

「なるほど武器を持たせたら、貴様のほうが強そうだ。なにか我流でない武術をやっているようだ」

「あんたヘラクレス先輩を育てたんだってな」

 否定をしないということは、相当自信があるようだ。

「そうか、あいつもこの高校の出身だったか」

 ケイロンは懐かしむ目をした。

「あいつは俺が育てたなかでも破格の才能を持っていた。その弓を受け継いだピロQがこの学校で教員をやってるというのも数奇なものだ」

「僕は弓の名手を探している。幼い頃に、預言があった。お前はたぐいまれなる弓の使い手に見いだされ、英雄となるだろう、と。その弓の使い手を捜しているんだ」

 なるほど、世界に名だたる弓取りが幾人もこの学内に集結している。神々の密かな策謀を感じるほどだ。

「英雄になりたいのか」

 ケイロンが水を向けると、アキレスはすぐさま食いついた。

「当然だ。たとえこの命を危険にさらそうとも、生まれたからには最高の華々しい人生を送るべきだろう。僕はその戦いに導いてくれる者を探している」

「ヘラクレスは、望んで英雄になったわけではない。運命に翻弄された悲劇の若者だった」

「悲劇上等。非業の死を迎えずして、なんの英雄か」

 この血気盛んな若者がケイロンには眩しい。

 だが、その危うさに心が陰る。

「そうではない。どの英雄も、勝ちたい戦いがあり、手に入れたい宝があり、それを実現したから英雄なのだ。はじめから英雄になりたいと冒険に身を投じた者など一人もいない」

 アキレスは納得しかねるように眉根をひそめた。悲劇を味わったことのないこの若者には、まだ理解できないのだ。

「アキレス、取引といこう。貴様が練習に参加するなら、名の知れた弓使いを幾らでも紹介してやる」

「そうは言っても――」

 アキレスの反応は煮え切らない。

 たしかに古代ギリシャ人は、誇り高き兵士ばかりだ。しかし同時に利に聡い商人の資質も持っていた。どのみち校長の指示で軽音部の監視をせざるをえないアキレスにとって、このケイロンの誘いは丸得のはずだった。

「僕は、音楽なぞ知らぬ。あれは、それなりの家柄の連中だけが修める知識と教養だろう」

 アキレスの懸念にケイロンは拍子抜けをする。

 と同時に、嘆かわしくもあった。いつから音楽は、そんな高尚なものになったのだと。ケイロンは若者の誤謬を払うように、自らの尾を振った。

「そう思うなら、なおさら貴様は音楽を始めるべきだ。まさか音楽とは、理性の神アポロンが創始した崇高な芸術だと信じていまいな」

「違うのか?」

「大いに違う。人が神々によって創られる以前から、宇宙は音楽に満ちあふれていたのだ」

「神話か? 僕には全然理解できないぞ」

「かまわん。生半可な知識は目を暗ませるからな。逆に、知らぬからこそ、わかることもある。野蛮なケンタウロス族に生まれ、神々から学問を伝授された俺だからこそ、その両方をこれから教えられる」

「弁論術の教師よりもよく喋る馬だ」

 アキレスは、心底あきれた眼差しでケイロンを見上げた。

「あんたが最初に修めた学問ってのは、詭弁論理学だろう。ああ言えばこう。こう言えばああだ。いくら足の速い僕でも、あんたからは逃げられる気がしない」

「よくわかってるじゃないか」

 ケイロンは、若者の頭に手を置いて、髪の毛をゆさぶった。


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