第5話
礼をいってサラは赤くなって皮が破れ血が滲む手首をさすりながら、
「あの、なにか、お望みの歌はありますか? あ、曲名ではなくて、恋愛ソングとか応援歌とかゴスペルとか」
ジャヒードは思いがけないことを聞かれてちょっと考え込んだ。
「なんでもよい」
「わかりました」
サラは時間をもらい、充分に発声練習して喉の調子を整えた。
その間、この老人を満足させるには、どんな曲がいいか選曲を必死に考えた。機嫌を損ねると殺されるかもしれない。
ようやくある曲を思い出した。
「では、Time To Say Goodbyを」
サラはごほんと咳払いすると、低い声で歌い出した。
呟く様な歌声から一転し、サラの声は高く高く歌い上げていく。
It's Time to say goodbye
歌の終盤になり、その声は戦慄するビブラートを帯び、想像を越える高さへと変化した。
|no, no, non esistono più,《もうどこにもないところ》
|con te io li rivivrò.《君とともに甦らせよ》
全霊を振り絞るかのような高音が迸り、突然切れ、歌は終わった。
静まりかえった天幕のなか。
サラはハァハァと息を切らしてはいたが、ペコリとお辞儀した。
「素晴らしい‼」
ジャヒードは興奮し、激しく拍手した。
歌が始まった途端、なにごとかと外から走り込んできたあの二人の戦士も、涙を流し拍手して止まなかった。
サラは一発勝負のオーディション舞台に立ったかのような心持だったが、内心うまく歌えてよかったと、ほっと安心していた。
この曲は彼女の尊敬するヴォーチェの代表曲。
大好きのあまり、難しいイタリア語での歌詞の言い回しを、一生懸命に練習した。だが不思議に思ったのは、彼女がいつも苦労して出す高音域がもっと、ずっと高くなって透き通り、咽喉を震わせるビブラートも自身のものと思えぬほどの余韻を醸し出していたことだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
縛めを解かれ、新しい衣装を与えられたサラ。
失禁して小便臭いブルージーンズとパンティは貸してもらった袋にいれて持った。
青い大きな刺繍入りの布を腰に巻き、白いTシャツの上に緩くゆったりとした黄色い長衣と白いベールを貸してもらった。濡れてしまった下着は替えがないので、ノーパン状態だ。
着替えが済むのを待っていたジャヒード老人に急かされ、もっと大きく豪華な天幕へとやってきた。
砂丘で彼女を捕らえ、歌に涙した男たちは、今は賓客をもてなすように恭しくつき従っていた。
ジャヒード老人は遠慮なく大天幕の帳を開けて中に入った。
「さあ、入ってくれ」
ジャヒード老人に促され、恐る恐る足を踏み入れる。
外の酷暑に反して内部はひんやりと涼しかった。大勢の甲冑姿の男たちが床に何枚も敷かれた絨毯に並んで座り、、片隅には囲炉裏が切ってある。
天幕の奥には、クッションが積んである寝台のように大きな椅子が置かれていた。その椅子に華やかな銀象眼の黒い甲冑をつけた大柄な女性が腰掛け、居並ぶ男たちになにやら指図していた。
「ファーティマ司教、素晴らしい客人を連れて参りましたぞ」
ジャヒード老人は忙しそうな彼らの様子に気にすることがない。
大柄な女性は、鋭い眼光でじろりと一瞥した。
「ジャヒード。軍配が終わるまで待てんのか」
ジャヒード老人はサラを連れ、前に進み出ると深々と一礼した。
「申し訳ございません。年を取ると短気なもので」
ファーティマという甲冑姿の女武将はハアッと溜め息をつき、部下のものたちに天幕の外に出るよう命じた。
天幕から部下たちがいなくなるとファーティマは、小テーブルに置かれていた水差しから銀のコップへ次々と水を注ぎ、ジャヒードとサラに手渡した。自身もコップからぐいっと水を飲んだ。コップをコトっとテーブルに戻すと、疲れた声で苦言を呈した。
「父上、陣中ではあまり気儘な振舞いは御止し下さい」
※作中歌 「Time To Say Goodbye」1996
byサラ・ブライトマン
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