第2話 草原を彷徨う



 夜明けが来た。

 白みかけた草原のもやに隠れ、オレンジ色にぼやけた太陽がゆっくりと夜を追い払う。

 

 サトシはハッと目が覚めた。

 夜の寒さに耐えかねて、気がつくと、足を抱え込みこむように眠ってしまっていた。目の前の焚火はとっくに消えて、薄い煙が漂う灰の塊りと化している。


 欠伸をしながら立ち上がると、寒さでブルッと身震いした。うーんっと伸びをし周りを見渡した。寝ぼけ眼をこすりながら足元を見ると、何ものかの巨大な足跡が点々と残っていた。


「えぇっ! なんだよ! これ」

 ゾッとして鳥肌がたった。

 

 びっくりするほど大きい何かの足跡。しかも寝そべっていたらしく、草叢が押し倒されていた。


 どうやら眠っている間に近くまで来て立ち去ったらしい。砂地に残る並んだ足跡は草叢へと消えていた。

 


 ドキドキと激しくなった鼓動を抑え、岩塊に登った。落ち着きなく周囲を眺めると、地平線を移動していく、なにか大きな獣の姿が見えた。

 

――助かったんだな? 良かったぁ。……けど、なんで襲われなかったんだ?

 

 身体を手探りしても傷一つない。


 首を傾げながらも、急いで足で焚火に土をかけて埋めると、バックを背負った。

 今日も遠くに霞んだ、冠雪が赤く染まる山並みを目指して歩き始めるのだ。


 目指している方向は、獣が移動したと思える方へと一緒。嫌な予感から、足取りは軽くはなかった。





◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





 サトシは俯き加減にひたすら歩いた。

 ここが尋常な場所ではないことはもうわかっていた。


 小鳥の声と風の音以外聞こえないが、用心してときどき耳を澄ました。自分の足音がうるさく感じて気になるが、仕方がない。


 頻繁に、なるべく安全そうな場所で小休止し、その度に、チビチビと気をつけてペットボトルの水を飲んでいる。が、ペットボトルの一本はすでに空になった。

 

――水を探さないと。

 

 あの大きな獣はどこかに行ってしまったようだ。

 用心はしていたが、気配もなさそうなので安心した。歩いていても、動物とかに出くわすこともない。



 だんだんと咽喉の渇きがたまらなくなっていた。

 サトシは昔、アウトドア好きな友達に教えてもらったことを思い出した。

 

――生き物の騒ぎ方が違って見えると、なにかあるから注意しろっていってたっけ。なら、鳥とかいたら水場があるかもなぁ。

 

 ピィーピィーと鳴き声が盛んに聞こえる方向へと行ってみようと考えた。

 



 ときどき岩塊の上に攀じ登って、危険がないか確認した。彼の眼には風に揺れる草の波しか見えない。内心の恐れを抑えながら、必死に水場を探した。


 傾斜のある丘陵を下り大きな岩場をよじ登ると、草原が途切れ、小さな谷あいになった地形を見つけた。小高い木々が並んでいた。


――お、窪んでる。川かな?

 



 降りていくと、水の流れる音が聞こえ足を早めた。するとようやく、チョロチョロと木々の間を流れる小さな小川にぶつかった。

 

「やった! あった!」


 歓声を上げ、小川に走り寄った。流れる水は透明で、手を入れると冷たい。


 川辺には、動物の足跡もなく、糞尿で汚染された様子もないが、生水を飲むか迷った。しかし結局、岸辺にしゃがみ込み、両手で掬ってゴクゴクと飲んでしまった。

 美味しい。

 満足するまで飲んで、ほとんど空になっていたペットボトルに補給する。


『汗かいたしなあ。いいか』



 ついでに身体を洗おう。


 バックからスポーツタオルを取り出し、辺りを見回す。


「えっと、誰もいないっと」


 すばやく、上着とジーンズ、パンツまで脱いだ。

 小川の水に入り、冷たさに震えながら全身を洗い、髪も洗った。小川からから上がった彼は、気持ち良くなり上機嫌だ。鼻歌混じりでゴシゴシとタオルで身体を拭いた。


 高くなった太陽で濡れた身体を乾かそうと、草叢に寝転んだ。


――太陽があったかくて気持ちいいな。


 空腹でありながらも、ついウトウトと微睡んでしまった。





◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





――マジでヤバイって、これ。早く誰か見つけないと……。


 サトシは人心地ついて服を着ると、また、歩き始めた。


 あれやこれやと、取り止めもなく考えながら、太陽に照らされ大草原を歩いていると、草叢がなくなり開けた場所に出た。





「あっ!」

 びっくりして思わず声を上げた。

 目の前に髪を乱した女らしき人が倒れていたのだ。



 慌てて駆け寄ると、あの時、同じように交差点近くにいて信号待ちしていた女性らしい。二人の女の子も一緒に倒れている。


 女性は薄い黄色いのシャツと紺のリネンスカート姿。二人の子供たちはお揃いの制服でランドセルを背負っていた。


 見たところ怪我をしている様子はなく、単に気を失っているだけのようだ。サトシは、バスケの練習で気を失う選手に接して知っているが、無闇に揺さぶると危険な場合もある。


 彼女たちが意識を取り戻すのをじっと待つことにした。

 



 しばらくして、彼女たちは次々と唸り声を漏らしながら、目を覚ました。





◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





「じゃあ、あたし達、何処にいるか分からないんですね?」


「そうだね。少なくとも東京とかじゃないね」


 ようやく意識を取り戻した女性と女の子たちは、サトシが説明した話しに呆然とした。

 石黒ハルと名乗った女性は、顔立ちの似た女の子を抱き寄せ、少し硬い表情のまま、サトシに質問している。


 肩まで伸びた茶色くカラーリングした髪にほっそりとしたやや長身。眉はきりっとして眼はちょっと垂れ気味。可愛い細面。自己紹介では大学三年生。

 抱きついている女の子、ミカの姉ということだ。


 ミカは小学六年生。あどけないが綺麗な顔立ちに伸びた髪をピンクのヘアゴムで束ねた女の子。


 その隣、ぎゅっとランドセルの肩バンドを掴んで、じっとサトシを見ている女の子は仲良しのユウちゃん。彼女は見ず知らずの不審なサトシを警戒しているようだった。可愛らしい顔に思いっきり疑いを浮かべ、いつでも逃げ出せるようだった。

 


 サトシは不安そうな三人を怯えさせないよう説得した。


「とりあえず、ここにいても仕方ないから、あの山の方向に歩こうと思うんだ。何にも目標のない方に歩いても仕方ないし、もしかしたら人がいるかも。どうかな?」


 サトシは、白い雪を戴いた山脈を指差した。



「え? あんな遠くまで……」


 ユウがショックを受けたようで呟いた。サトシは少し焦りつつも宥めるようにいった。

「いやまあ、ゆっくり休み休み行くから……」


 ハルはしばらく目を細め、彼方の山脈を睨んでいたが、サトシに向き直った。


「分かりました。あの山を目指しましょう。いいわね、ミカ、ユウちゃん」

「うん、お姉ちゃん」


 ミカが返事すると、ユウもコクンと頷いた。





◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 




 限りなく広がる草の海を四人はひたすら歩いた。


 サトシは足弱な連れに気遣い、一人の時より頻繁に小休止した。そんな時じっと黙っているわけにもいかず、お互いの身の上を話した。

 

 サトシはバスケの練習に顔を出しに行く途中だったこと。気がついたらこの草原に倒れていたこと。

 ハルはミカとユウを学校へ迎えに行って、それから遊びに行く途中だったと話す。

 ミカとユウも、サトシへの疑いを解いてくれたらしく、小さな声ながらも、おしゃべりするようになった。

 



 小休止して元気を取り戻した彼らは、再び歩き出す。


 彼は、女子三人の先頭に立って歩き、時々振り返っては、遅れていないか様子を見ていた。今のところ、頑張ってちゃんとついてきていて安心した。


 ハルは意識を取り戻した時、傍らに転がっていた自分のトートバッグを肩から下げ、しっかりした足取りだった。

 ミカとユウも、並んで囁き合いながらも、頑張って遅れずついてきていた。




「あのぉ」

 ハルが遠慮がちに呼びかけると、サトシはチラッと振り返った。


「サトシでいいよ、石黒さん」


「……じゃ、サトシさん。あたしもハルでいいです。あたし達が事故?にあったいきさつは分かったけど、どうして、なんにもないこんな草っ原に放り出されたのかな?」


 サトシは、周りに注意を払いながら静かに言った。

「うーん、ぜんぜん分からないな」

 

 後ろから、ミカが大声で叫んだ。

「はいはーい、あたしは、なんか神様チックな存在に呼ばれちゃったって思うしー!」


「はぁ」


 ユウがまた始まったとばかりに、肩を竦め手を開いた。

 ミカはニコニコとしながら、ランドセルを背負いなおす。


「そうだよ。それで、これからね、だいたいの異世界ストーリーだと金髪でナイスバディな女神とか出てきて、とってもチートなスキルくれたりするんだよね」

 ミカが、なぜかテンション上げながら片手を突き上げる。


「"チートなスキル"?」

 ハルが聞き返す。

 

 サトシは笑いながら、水の入ったペットボトル取り出し、ミカへと手渡した。

「ミカちゃん、喉渇いたろ。飲みなよ」


「ありがと、お兄ちゃん。……プハッ! それでね、"チートなスキル"ってのは、なんか人より優れた能力っていうか、あり得ないくらいの技術が身につくっていう設定なんだよね――」


「あ、分かった! プリ**アでやってた!」

 ミカからペットボトルを受け取り、ユウも一口飲むと元気になったのか、彼女は大きな声になる。

 

「ユウちゃん、アニメ好きだね。魔法少女とか」


「いいじゃん!」

 ミカの冷やかしに、少し赤くなりながらユウが口を尖らす。

「フフフっ、ミカは韓流好きよねー」


 ハルが妹を揶揄うと、ミカは大真面目な顔で言った。

「えへっ、いいじゃん! イケメン好きでーすってか、お姉ちゃんだって、追っかけしてるじゃん」


「あ、ミカ、それ内緒!」




 女子のにぎやかトークを聞き流しながら、サトシは前方に見えてきた岩場を目指していた。

 もう陽が傾いて来ている。早めに安全な場所へ辿り着かないと危険だ。またあの大きな獣がやって来たら、今度こそ食べられてしまうかもしれない。

 




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





 運良く、岩塊がいくつも並んだ岩場に、寝ころべるくらいの隙間がある場所に行き当たった。ここなら安全そうなので今夜の寝場所とすることにした。周辺の背の低い灌木の繁みが、いい具合に目隠しになってちょうど良かった。

 

 サトシは、先に安全なことを確かめてから、ハルたちを岩場に連れて行く。


 周囲が完全な闇へと落ちる前に、全員で岩場の周りの灌木から、大急ぎで薪にする枯れ木を拾い集め、大岩の中に引き篭った。


 サトシがゴソゴソとバックを弄り、出したノートを破いてクシャっと火種をつくると、すかさずライターを取り出したのはハル。アイコスは好きじゃない派。今夜はたくさん枯れ枝を集められたので盛大に焚き火を起こした。

 

 やがて太陽は地平線に半分沈み、頭上には真っ赤からオレンジ色にまで変わった夕焼け雲の空が広がった。


 草原に伸びた影は長くなり闇に溶け込んでいく。みんなで大岩に登ってみる。

 陽が沈む反対側の空には夜の闇が追いつき、濃い暗青色色から夜に変わり始めていた。頭上には星が瞬き始める。



 みんなは、美しい黄昏を無言でじっと見つめた。

 現代の日本では絶対にない本当の暗闇が広がる草原。

 


 そんな中で明かりがあると本当に心が安らぐ。

 見上げれば、満天の煌めく星空が、地上を照らしている。サトシは昨晩、星を見上げて涙を流したことを思い出し、恥ずかしくなった。


 周囲では虫の音が湧くように鳴いているが、遠くの方で何かの獣らしい遠吠えも聞こえてきた。ミカとユウは心細くなり、ハルに身体を寄せた。




 不安を紛らわそうと話していると、夜の闇でも見えるあの雪を戴く山並みから大きな赤い月が上がってきた。たちまちその輝きで草原が一層明るくなった。


「あ! もう一個ある。けど月じゃないよ」

 ミカは、大きな月に従うように銀色に輝く円環を指さした。


「やっぱ、異世界か……」

 サトシが呟く。


 女子三人は、二重の月と煌めく星々にウットリしていた。






 持っていた数箱のカロリーメイトとパンを、ハルと子供たちに食べさせた。明日の食べ物の問題は、とりあえず食べられそうなものを探しながら歩くしかない。

 

 焚き火の番はサトシとハルが交代で努め、空腹を抱えたミカとユウは抱き合って横に眠った。サトシは自分のジャージを二人に掛けてやった。


「とにかく、集落とか村とか、人が暮らしてそうなところを見つけないと。このままじゃ、飢え死にです」


 ハルが心細そうに手を組んだ。枯れ枝で焚火をかき回しながら、サトシは小声で応えた。

「そうだなぁ。けど用心しないと、逆に酷い目にあう可能性があるよ」


 ハルは、ちょっと驚いた。

「……酷い目って?」


 サトシは、新しい薪を焚火に投げ込んだ。

「ここは異世界かも。だろ。日本とは違って治安は悪いと思うよ。つまり、捕まって酷いことされたり、最悪は殺されたりとか……」


 ハルはかなりショックを受けたようだった。

「そんな……」

 

 無理もない。平和な日本から、いきなり異世界だからなと、サトシは自分もおなじ境遇を思い苦笑する。


 ふと、サトシは夜空を見上げた。


「星座の形、全く違うなあ」

 ハルも、満天の星に輝く夜空を見上げる。

「綺麗ね……」


 遮る雲一つない無数の星が輝く夜空に、赤く眩しく光る大きな月が銀色に煌めく円環を従え、闇の大草原を明るく照らしていた。



 夜明けが来た。

 白みかけた草原のもやに隠れ、オレンジ色にぼやけた太陽がゆっくりと夜を追い払う。

 


 

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