第1話 草原に転移した



 広大な大草原の上、果てしなく続く青空。

 見渡す限り、腰ほどの高さの緑の草が地平線まで続き、風に吹かれて海のように波打っていた。なだらかに起伏する草原には、まばらな樹々と大きな岩場の塊が、処々にあった。

 遥か遠くには、陽に照らされ、白く輝く冠雪を戴いている山々が聳えていた。

 

 草叢くさむらには、名前の分からない小さな白や黄色、紫の可憐な花々が、ひっそりと咲き乱れていた。芳しい花の匂いを運ぶ、そよそよとした風は、中天近くの太陽をさえぎる薄い雲を吹き散らす。

 どこからかピィーピィーと鳥の鳴き声が聞こえ、太陽に温められた岩場の上では、小さな栗鼠りすに似た生き物がちょろちょろと動き回るの姿が見えた。


 突如、のどかな草原に、一筋のまばゆい白い光りの柱が降り注いだ。

 細かった光りの柱はだんだん太くなり、正視できないくらい明るく輝き続けた。一分ほどで、光りは弱くなって次第に細くなり、最後には音もなくに消えた。

 

 再び小鳥のさえずりが響き、平和な風景が戻った。


 あの光の柱が降り注いだ場所は、草が薙ぎ倒され丸い空き地となっていた。そして驚くことにその中心には、意識をなくした男性が横たわっていた。

 

 しばらくして気がついたらしく、男性はかすかなうめき声を漏らす。

「うぅぅ……」

 黒いパーカーにブルージーンズ。刈り上げた茶髪の頭。しきりと唸り、痛む頭を片手で押さえながら、仰向けになった。


 とうやく目を開けた顔はやや鼻が高く、ほっそりした顔立ちだった。まだ、意識がはっきりしないのか、視線の焦点があっていない。

「あぁ痛っ、なにこれ。めっちゃ頭痛いし……」

 日本語だ。


 しかめっ面で大の字に横たわったまま、青空を眺めていたが、頭痛がようやく治ってきたとみえ、上半身を起こした。ヨッコラッショと立ち上がる。

「なんだよ……。ここ何処だ?」

 彼は腰に手を当て、一面の丈高い草の広大な風景を見回した。

 

「あれ。さっきまで、コンビニの交差点にいたはずだけど……」

 ブツブツと呟き、呆然としている。

「バックがないぞ……」

 周りを見回すと、ちょっと離れたところに自分のデイバックが

落ちていた。

「良かったぁ。あった」

 中身を確かめる。

 スマホに財布、ヘビースモーカーではないが、数本のタバコ入った箱と百円ライター。開封していないノド飴。カロリーメイト数箱と菓子パンが二袋。水のペットボトルがニ本。黒いジャージの上下とスポーツタオル。

 

 スマホを取り出してサイドボタンを押してみた。見慣れたアイコンが並んだ画面が起動したが、受信は全くなかった。

 

「あー、圏外かよ……」

 スマホを差し上げて試してみたが、電波状態はまったく変わらない。諦めて電源を切り、バックへと放り込んだ。

 改めて風が吹く周りを見回し、ウンザリとした声で漏らす。

「……マジか。一体どこなんだよ……?」



 彼の名前は、サトシ。

 年齢は二十代後半で、ちょっと名の知れた会社で設計の仕事をしているエンジニアだ。小学校から大学までバスケ部一筋で、休日は頼まれて近所の小学生チームのコーチをしている。この時も、練習場所である中学の体育館に行く途中だった。

 

 両手を口に当てた。

「おおぉぉ――――い! おおぉぉ――――い! 」


 あらんかぎりの大声で叫んで、しばらく耳を澄ませても、何の返事も返ってはこない。

 オメガの腕時計(高かった……)を見て、やや顔をしかめた。太陽は中天をわずかに傾いているが、時計の針はまだ午前の九時過ぎでしかない。

 まさか、壊れた?と残念に思う。

 照りつける太陽を眩しそうに見上げ、溜め息をつきながら、とりあえず歩きだした。遠くに霞んで見える積雪を頂いた山並みに向かって。


 

 草原の起伏はそれほどきつくないが、時々大きな亀裂になって抉れていた。迂回しながら草を掻き分け、ゆっくりとした歩調で進んだ。躓ききそうな石もないので歩きやすく、足取りは速い。

 徐々に高くなる陽に照らされ、汗が出てきた。

 気温はやや暖かく、春と夏の間の季節のようだ。


 彼は気を失う前の出来事を思い出していた。

――あの時、信号変わるのを待っていたら、後ろっからすごい衝撃を受けたな……。あれって、もしかして駐車場に止まってエンジン吹かしてたトラックか? ぶつけられたのかもしれないなあ。


 それにしても、どうしてこんな場所にいるのか。原因がよく分からない。事故に巻き込まれて意識を失い、幻覚でも見ているのだろうか。だが、こうしてあてもなく草原を歩く自分が夢であるとは、到底思えない。

 

――近くにいた、あの子供たちと女の人、大丈夫だったかな。俺がダメだったんなら、あの子らも……。

 同じように犠牲になっているかもしれない人たちを思うと胸が痛む。彼も一児の父なのだ。家族のことを思うとやりきれなくなる。

――奥さんになんていったらいいんだよ。買い物して帰れって言われたのになあ。


 仕事のことも気になってしょうがない。

――しかしなぁ。このままだったら、マジで明日、会社どうしようかなぁ。S社の営業の中村さんからの問い合わせに明日連絡するっていったんだけど、こりゃ、ダメっぽいぞ……。山下さん、うまくフォローしてくれよな。

 アシスタントである派遣社員のかなり緩い表情を思い出し溜息をついた。


 サトシは社畜ではないが、長い間、今の部署にいるので、何件かのプロジェクトを任されていた。人がどんどん辞めていく中で、それなりに仕事のできるサトシに負荷が集まるのも仕方がないとは割り切っているものの、こんな状況になるとは。

 もし帰ったら残業休日出勤になるかもしれない。上司のキレた声を聞いて仕事に追い込まれたいとは、ちっとも思ってないんだが。


 やがて陽が傾き、引きずる影が長くなりだした。

 サトシは移動を諦め、適当な岩場を見つけて野営しようと決心した。

 

 大きな岩の陰に腰を下ろし、バックからカロリーメイトを一袋を破って甘いバーを齧る。いつまでこの状況が続くか分からないから節約だ。まだ足らない空腹を堪えつつ暮れ始めた夜空を見上げた。

 夜の闇が次第に押し寄せ、薄く暗いオレンジ色の薄暮をどんどん追いやる。思わず星が瞬き始めた地平線を注目した。

「おおっ!」

 思わず大きな声を出してしまった。

 

 地平線すぐ上に、大きく赤い月が姿を現した。そしてその表面の模様は明らかに見慣れた月の模様とは違っている。

 彼がそれ以上に驚いたのは、その脇にひきずられるかのように上がって来たものだ。

 銀色の輝きを放つ、斜めになった輪っかのような物体で決して自然にできた構造ではないことが分かった。円環からは放射状に内側へ長い棒がいくつも突き出し、あたかも車輪のように中心にある丸い球体へとつながっていた。

 大きさは赤い月と同じくらいで、よく目を凝らして観察すると、銀色の巨大な円環はゆっくりと回転しているようだった。

 

 

「なんだ、あれ」

 慌てて、暗闇に浮かぶ星々を見回すと、この季節にあるはずの見慣れた星座はどこにも存在していなかった。

「マジか、ここ、地球じゃないのかよ……」

 愕然としたサトシが呟く。

――SF? まさかの異世界?


 それに応えるかのように遠くから、正体の知れない獣の遠吠えが聞こえた。

――えっ、なんだ! ……野犬か?

 緊張して見回した。

――ちょ、ちょっと! はやく火を起さないと!


 暗闇が迫る中、薪になりそうな枯れ枝を拾い集めて積み重ね、ノートの紙を破ってライターで火をつけた。枯れ枝はパチパチと音を立てて燃え上がってくれた。次第に強くなるその炎にサトシはちょっと安心した。

――やっぱ、焚火があると安心だなぁ。


 とうとう完全に陽は沈み、焚火の明かり以外は真っ暗になってしまった。日本だったなら、山に入ってもなかなか経験することのない本当の星空だ。

 

 夜になっても雲がかからない。おかげで赤と銀の月明かりは、減衰することなく地上を照らし、月光ってこんなに明るいんだとぼんやり思う。

 思わず涙が出るが、拭く気にもならなかった。

 

――ハァ、このまま、遭難か。どうなってんの? 地球じゃないかもしれないって。なんで異世界にきてしまうんだよ!。

 胡坐で座り込んで、パチパチと爆ぜる焚火を見ていると、昼の疲れからか瞼が重い。眠り込むと危険だと思いながらも、ついにうつらうつらと眠ってしまった。



 赤い月と銀色の円環が浮かぶ星空の下、暗闇が広がる草原。

 サトシが起こした焚火は、チロチロと燃える弱い火になった。その横で彼はバックを抱え込んで身体を丸め、不覚にもぐっすりと眠っていた。

 ヒューと弱い夜風が吹く。

 虫の音が騒がしく鳴り響く中、遠くで動物の鳴き声が響き渡る。

 寝りこんだサトシにはまったく起きる気配はない。

 すると、虫の音が止んだ。


 岩塊の外の闇に、爛々と輝く二つの光る点が現れ、ハァハァという呼吸音が聞こえてきた。

 弱々しくなった焚火の光りが照らす中、ガサガサと草叢をかき分け、姿を現したのは一頭の巨大な獣だった。


 燃えるように真っ赤な体毛で、体躯の大きさは軽自動車ほどもある。大きな尻尾を振りながら足音を立てず、眠り込むサトシに近づいてきた。焚き火に照らされ、金色に輝く瞳孔をぎらつかす。鋭い牙が並んだ口から舌を出し、鼻先でサトシの匂いを嗅いだ。


 大狼ダイヤーウルフ

 草原の頂点に立つ捕食者だ。

 昼間、サトシが上げた大声を聞きつけて、やって来たらしい。縄張りに入ってきた獲物と思われたか。


 この大狼ダイヤーウルフはその巨大さ同様、並の生き物ではない。身体から溢れる霊気に格下の魔獣なら近づくことすらできないだろう。


 正体もなく眠りこけたサトシを一噛みに喰らうつもりなのか。と思いきや、案に相違してフンと鼻を鳴らすと、サトシの側にゴロっと寝そべった。前足に頭を載せると、眼を瞑って眠りだした。

 異様な獣の呼吸が静かになると、虫の音が再び鳴きだした。





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