第19話 生きて

 二度目の自殺を阻まれてから、幾日かが過ぎた。

 遊具のない、閑散とした公園のベンチにひとり座って、陽奈は空を見上げていた。学校が終わり、残りの一日がただ過ぎ去っていくだけの空。あの日から空は、嘘のような晴れ間を見せている。まるで何事もなかったみたいにのどかで穏やかで、白いちぎれ雲がぽつぽつと浮かんでいるだけだ。


 ふと気配を感じて、陽奈は振り返る。公園の入り口に甲斐が立っていた。家にも帰らず、制服のまま、そこにいる。


「どうしてここがわかったの」


 努めて平静に声をかけたつもりだったが、変に押し殺したような声が出てしまった。甲斐は一瞬、足下に視線を落とす。


「ここにいる気がして」


 さわ、と風が吹き抜けていく。真夏を抜け出したばかりの、軽やかで清涼とした風。


「たぶん、よくここに来てたんじゃないか。俺は一度しか見てないだけで」

「……」


 陽奈はうつむく。膝の上の手を、ぎゅっと握りしめた。


「家に帰りたく、なかったから」


 この公園は家とは反対方向にあり、下校時間は特にひと気がない。ひとりで過ごすにはうってつけだった。甲斐と知り合うずっと前から。

 家に帰ると猛烈に死にたくなる。母のトラウマが呼び起こされ、暴れ回りたい気持ちに襲われることもある。だから、なるべくまっすぐ帰りたくなかったのだ。

 じり、と砂地に靴底がこすれる音がした。甲斐が一歩近づく。


「そっち、行ってもいいか」

「いやだと言ったら」

「それは――それは、仕方ないけど」


 明らかに落ち込んだような声だった。彼は本当にわかりやすい。クールぶっているくせに、感情の揺れがよくわかる。

 陽奈は黙ってベンチの上を右にずれた。鞄も膝の上に置く。その意図を汲んでくれたのか、やがてぎこちなげな足音がして甲斐が隣に座った。

 この感覚は久しぶりだった。彼が隣にいる。だがなぜだろう、これまで何度も同じ場面はあったのに、今はどこか、遠い気がする。


 ――そうか、彼にはもう、死ぬ理由がないんだっけ。


「あなたは救われたの」


 顔も上げずに陽奈が問う。甲斐は少し考えるようなそぶりを見せる。


「そう、かな」

「どうやって」

「……いろいろ、あった」

「それは、水族館の日?」


 一瞬、黙り込む。


「……ああ」

「ふうん。最低」

「ごめん。それは本当に、ごめん」


 顔を上げる。うつむけられた甲斐の横顔は、張り詰めたような色を帯びていた。


「勝手だった。勝手すぎた。でも……それがなかったら俺は、君を止めようとは思わなかった」


 今度は陽奈が黙り込む番だった。木陰に落ちた緑の葉が風に押されて転がるのを、じっと見つめる。


「どうして止めたの」

「死んでほしくなかったから」

「どうしてそう思ったの」

「なんでだろう」甲斐は困ったように笑う。「あの時はただ、失うのが怖かった」


 ――君がいないなんて、考えるだけで怖かった。


 さらりと紡がれた言葉は、口調に反してとても重い言葉だった。陽奈の胸に深く深く落ちて、じわじわと染みわたっていく。その感覚が妙に恐ろしく思えて、陽奈は振り払うように首を振った。


「意味がわからない。だって、あなたとわたしは、ただの……」

「ただの、同志だ。俺も初めはそうだった。でも、夏休みに君とすごした記憶が、日に日に俺の中で大きくなっていって……いつの間にか、特別になっていったんだ」


 言葉の出ない陽奈をまっすぐに見据えて、「それに」と続ける。


「俺は君に救われた」


 夜の海辺でこの背を何度もさすってくれた。その優しい手の感触に幾度となく救われた。佐藤や亜樹の言葉でそれをようやく自覚したのだ。


「だからといって、実際に一緒にいてくれと頼むつもりはない。俺のしたことは君にとってはひどい裏切りだ。勝手で、都合がよくて、最低だった……だからもうこれきり、近づくこともしない」


 甲斐は立ち上がる。一度空を見上げてから、陽奈に向き直った。


「でももう一度だけ、許されるなら伝えておきたかったんだ。きっと君はこれからも死ぬ機会をうかがい続けるんだろうけど、俺は、君に死んでほしくないから」


 そこで口を噤む。陽奈は顔を伏せていた。何も答えない。当然だった。自分はそれほどのことをしたのだ。

 もう一度、名残惜しげに陽奈を見てから、甲斐は立ち去ろうと背を向けた。


「あれから何度も死のうとした」


 ぴたり、甲斐の動きが止まる。陽奈は彼の背に向かって悲痛な声を上げた。


「この際もう、母親に見せつけてやろうとか、仕事の邪魔をしてやろうとか、そんなのどうでもよかった。とにかく死にたかった。なのに――なのに、死ねなかった! あなたが、あんなこと言ったから」


 生きて、と彼は言った。雨に打たれながら、死にたがる陽奈の腕にすがりつくようにして、生きてほしいと訴えたのだ。あの姿が脳裏に焼きついて離れない。死のうとするたび、呪いのように陽奈の心を抱き包む。


「俺の言葉くらいじゃ、揺らがないだろ。君は」

「そうだけど……そのはずだけど……」


 迷うように瞳を動かす。その瞬間、ああそうか、と突然、腑に落ちた。すとんと胸に落ちてきたその答えを、陽奈は我知らず、口にした。


「いつの間にか……あなたと死ぬのが目的になってた」


 甲斐は陽奈と共にいるうちに、陽奈を失うのが怖くなった。陽奈もまた、最後まで甲斐と共にいることに意味を見いだしていたのだ。もはや単なる同志ではなく、その存在が心の支えになっていたのだ。


「あなたと死ななくちゃ、意味がない」


 声が震える。今まで見ないようにしていた、押さえつけていた思いが、形になって眼からあふれ出る。


「でも、あなたはもう、救われてしまった。あなたはもう死なない……死にたくない……じゃあわたしはどうすればいいの。こんなところに取り残されて、いまさら、たったひとりで……!」


 母親の薫りだけが残る、がらんとした広い家。学校でも家でも、陽奈はひとりだった。それに慣れたと思い込んでいたのに、甲斐がその孤独を思い出させてしまった。彼が来て、去ったあとの家は、凍りついたようにひややかで、殺風景だった。


 もう、ひとりはいやだった。ひとりがこんなに寂しいなんて、忘れていたかったのに。

 両手で顔を覆っていると、隣にすっと腰を下ろす甲斐の気配がした。


「じゃあ、生きよう」


 泣きじゃくる陽奈の手指が涙に濡れている。甲斐はポケットからハンカチを取り出して、その手をそっとぬぐった。


「俺と生きて」


 ゆっくりと、顔から指先が離れる。ぐちゃぐちゃに濡れた陽奈の眼が、甲斐をまっすぐに見上げた。どこか呆けたような、呆気にとられたような顔をして、ゆっくりと唇を開く。


「……あなた、と」

「そう。――こんな、情けないやつだけど。君と関わるうち、自分がいかにダサくて格好悪いやつなのか、思い知った」


 照れたような表情に苦笑を滲ませて、甲斐は続ける。


「でも、それで君の孤独が和らぐなら……少しでも役に立てるなら……今までみたいに遊びにいったり、家ですごしたり、おいしいものを分け合ったりしたい。まあ、ほとんど君が食べてしまうけど」


 手したハンカチを優しく陽奈の頬に押し当てながら、甲斐は微笑んだ。


「もう、この日までって決めなくていいんだ。生きてる間は無制限だから。俺はもう母さんに気を遣わなくていいし、予定を好きなようにいじれる。水族館もプラネタリウムも、行こう。今度こそ」


 陽奈の眼が何度もしばたたかれる。水滴のついた睫毛が陽にきらめく。何度も、何度も。


「君の事情、俺はまだ、よく知らないけど。どう解決したものかもわからないし、できるかどうかもわからないけど……ひとりにはさせない。それだけは、約束する」


 甲斐が言葉を紡ぐたび、陽奈の心は揺さぶられる。静かで優しい、南風のようにあたたかい響き。それが陽奈の心を覆っていた暗い帳をゆっくりと取り去っていく。一気に光が飛び込んできたような心地がした。息のしかたを思い出したように、陽奈は深く空気を吸いこむ。

 頬をぬぐう甲斐の手に、そっと手を重ねた。


「やくそく」


 それは計画書のように文字に起こせるものではなかった。生きている限りつづく、心の約束。それが今、交わされた。

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