第18話 うらぎりもの
悩むうちに、日々はいたずらに過ぎていく。それから毎日、学校から陽奈を家まで送り、日曜は彼女の家に呼ばれた。
「見て、ほら」
案内されたのはいつもの居間ではない。キッチンだった。入ってすぐ左手の壁際に青いプラスチックのバケツが置かれている。中をのぞき込んで、甲斐は顔をしかめた。
「うわ」
「本物そっくりでしょ」
どす黒い、とさえ形容できそうなほど、黒々した赤い液体がなみなみと入っていた。しかも、何やらぶよぶよした白いものが浮いている。
「これは……」
「内臓とか肉片、に見えると思って」
青ざめる甲斐とは対照的に、陽奈はけろりと言ってみせる。
「前にわたしが死のうとしたときも、これを袋に小分けにして、制服に仕込んでいたから」
「言ってたな、そんなこと。あの時は全然、見てもわからなかったけど」
「スカートの中につけてたから」さも当然のように言う。「あなたの分もあるから。あなたの場合は……ブレザーがあれば内側に仕込めるけど、まだ夏服だし、両手に抱えて飛び降りてもらうしかないか」
しゃがみこんだまま、陽奈がこちらを見上げる。固く、ひきつるような笑いを口元に浮かべて。
壁時計にカレンダーが表示されている。予定日まであと十日を切っていた。
「来週の今頃、わたしたちは死んでる」
気づけば陽奈も時計を眺めていた。
「ようやく、楽になれる……」
甲斐は拳を握りしめる。唇を開いて、上島さん、と呼びかける――ただそれだけのことなのに、できなかった。かすれたような空気音が喉から出ただけだった。
死を口にするとき、彼女の表情は穏やかだったが、どこか虚ろに見えた。底のない深淵を映し出したような瞳が、救いの手をさしのべても届きさえしないような奈落に見えて、甲斐は絶望した。
どうすれば。どうすればいい。
どうしたら彼女に、生きてもらえるのだろう。
時間の流れが甲斐の心をちりちりと焼き焦がす。止まれとどれほど願っても、無情に押し流されていく。気づけばもう、その日は目前に迫っていた。
*
「なあなあ、おまえら武田、見なかった?」
昼休み、佐藤は教室をきょろきょろと見回していた。伊藤も吉田も顔を見合わせ、「そういや見ねえなあ」とつぶやき合う。
「どこいったんだろ。今日の食堂の日替わり、新メニューのロコモコ丼なんだぜ。あいつ今日も弁当もってきてなかったっぽいけど、食券ちゃんと買ってんのかな……」
「先行ってんじゃね?」
「おれらも食堂行くわ。とりあえずテーブルとっといてやるから、探して来れば」
「マジ? 助かる」
「ついでに食券も預かっといてやるよ。あれだったら注文しといてやるし」
あれとは何なのかよくわからないが、佐藤はふたりに向かって両手をぱしりと合わせ、「よろしく!」と言い置いて教室を出て行った。
出て行き際、視界にさりげなく教室の黒板の隅に書かれた文字が見えていた。今日は九月二十二日、日直はクラスの女子と、武田だ。
そういえばここ最近、甲斐の様子が妙だったなと思い出す。夏休みに泊まって以来、みんなで遊んでいるときは態度も雰囲気も少し和らいでいるように思えていたのに。なぜかまた、ぎこちなげな感じが出ていた。
上島陽奈と、喧嘩でもしたとか?
もしそうだったら、どうにかして元気づけてやらなくちゃと、佐藤は気を新たに廊下を走る。階段を降り、食堂のある第一校舎に飛び込む。一階はすでに生徒たちでごった返していて、職員室からもコーヒーの香りが薄らと立ちこめていた。この空気を吸うだけでお腹が空きそうだ。
「もー、あいつどこ行ったんだよ……」
人混みに混じりながらふと目を上げると、向こうの通路へ入っていく背中が見えた。周囲と同じ制服だが、その背丈と髪型でわかった。甲斐だ。
「武田!」
佐藤は前後の背中を押しのけながら夢中で後を追いかけた。だが甲斐はずんずんと歩いていってしまい、通路の向こうへ消えてしまう。
「くっそ、もー! どいて、どいてくれって!」
どうにかこうにか人混みから抜け出ると、佐藤は再び走ろうとした。だがそこで、ふと足を緩める。
この先は何もない。いや、あるにはあるが、生徒には関係ない倉庫があるだけだ。それと、屋上へ続く階段も。
――いったい、この先になんの用事があるのだろう。
佐藤は訝しげに眉をひそめ、慎重に歩きだした。
*
屋上の扉の手前にはすでに陽奈がいた。左眼はまだ眼帯に覆われたままだ。彼女は甲斐の姿をみとめると立ち上がり、取っ手に手をかけた。
「鍵、ちゃんと開いてた」
と、扉を押し開ける。たちまち、びゅうと風が吹き抜けて、二人の髪をめくりあげた。
「風、強いな」
「しかも曇ってる」
陽奈の声は残念そうだった。無理もない、死ぬときくらいは晴れ渡っていてほしいものだ。
陽奈はキルト生地のかわいらしい手提げを持っていた。一見、昼の弁当でも入れているように見えるが、彼女が取り出したのは血糊の入ったビニール袋だ。袋の口にはそれぞれピンがついている。
「スカートの内側にくっつけられるようにしたの」
甲斐の視線に気づいた陽奈が、どこか得意げに言う。
「器用だな」
「一度やったから。もう慣れた」
「そうか」
ふたりで扉をくぐり、屋上へ出ていく。硬いコンクリートの上を踏みしめるのはこれで二度目だ。
「いいにおいがする」
陽奈は鉄柵のほうへ近寄り、すんすんと鼻を動かしている。
「食堂のにおい。みんな今頃、食べてるかな」
「ああ」
「はやい人は、もう食べ終わってたりして」
「そうかもしれないな」
陽奈が、くるりと振り返った。そっと、甲斐の表情を窺う。
「こわいの」
「いや。なんで?」
「元気、ないから」
「そりゃ……そうだろ」
甲斐の抑揚のない声に、陽奈は眼を瞬き、うつむいた。
「……これから死ぬって言うのに、わたし、なぜか浮かれてた」
手提げを足下に置いて、空を見上げる。頭上を覆う雲は薄墨に染められたように暗く、重たげな色をしていた。
「もう……苦しくなくなるから」
「ああ」
「……ひとりにならなくて、すむから」
ふと出た言葉に自分でも驚いたように口を噤んで、首を横に振った。
「ごめん。待たせて」
陽奈は足下の手提げから血糊の袋を取り出す。てのひらサイズに小分けにされた、赤黒い液体が五つ。それらを制服にとりつける。
「あれ……」
ひとつめをピンでつけようとしたところで、陽奈は苦戦していた。ピンは通るが、なかなか留められないようだ。
「ごめん、武田くん、手伝って」
「手伝うって……スカートの中だろ。無理だ」
「もうすぐ死ぬのに、関係ないでしょ」
「そういう問題じゃないだろ」
陽奈は大仰にため息をついた。手提げからピンのついた新しい袋を取り出し、甲斐の方へ差し向ける。
「じゃあこれ、持ってて。次につけるやつ」
甲斐が無言で歩み寄る。たった二歩で、至近距離に立った。改めて、彼の背の高さを感じる。なぜだか、心臓が小さな音を立てた。
甲斐の手が動く。陽奈の手に載せられた小さな袋をつまみ上げ――どさりと取り落とした。
「あっ」
陽奈が慌ててしゃがみこみ、袋を拾い上げる。どこも破けていないことにほっとして、それから困惑の目つきで甲斐を見上げる。
甲斐は、明らかにわざと落としたように見えた。彼は今、顔をそらしている。何かに耐えるように、肩をふるわせて。
「武田くん……」
訝しむように腰を上げたとき、絞り出すような声がした。
「ごめん。手伝えない」
「え?」
鉄柵の方へ向いていた甲斐の顔が、改めてまっすぐにこちらを向いた。息苦しそうに表情を歪めている。その様子と甲斐の言葉が頭の中で瞬時に結びつき、陽奈は狼狽えたように一歩下がった。
「……どうして」
かすれた声で問う。ここまで来て、彼が死を拒んだことが信じられなかった。
「どうして……いまさら……だって、あなたは……」
「俺にはもう、死ぬ理由がない」
風が強く吹き付け、甲斐の前髪を持ち上げる。陽奈の黒髪も、スカートも、呼応するように大きくなびいた。
「……そう。気が変わったの」
陽奈は乾いた笑い声を上げた。
「最近様子が変だったのは、そういうことか。はやく言ってくれたらよかったのに」
言いながら、陽奈は甲斐の言葉をまだ受け入れられずにいた。いっしょに死ぬものと思っていたのに、今更、どうすればいいのかわからない。
「ひどい。ほんとうにひどい。――わたしはひとりで、死ななきゃならない」
だが、甲斐は首を横に振った。
「いや。君を死なせる気はない」
「――は」
「俺は君に、死んでほしくないんだ」
今度こそ、笑うしかできなかった。陽奈はひきつったように口角を上げる。くぐもった笑い声が喉にこみ上げた。
「なに言ってるの? 死ぬ前の軽い冗談のつもり? 全然冗談になってないけど」
「冗談じゃない。ほんとうに、君に死なれたら困るんだ」
陽奈は甲斐の眼を見た。黒くて、澄んでいて、一点の曇りもない瞳。そこには嘘の気配がなかった。彼は本気なのだ。
瞬間、陽奈は動いた。向きを変え、鉄柵に飛びつく。ふたりで作った自殺計画書には、食堂からも職員室からも、すべての教室からも見えるようにと位置まで吟味したのに、もうそんなことを考える余地はなかった。腕に力を込めて身体を持ち上げる。あとはただ体重を前にかけたらいいだけだ。だが、後ろから力強い腕が、腹に、腰に回される。強引に、陽奈の身体を引き戻そうとする。
「はな、して」
「だめだ!」
頬を紅潮させながら必死に身体をよじり、足をばたつかせる。靴が甲斐の膝や腹を何度も蹴りつける感触がした。それなのに、彼の腕はびくともしない。
「いやだ! いやだ! はなして! はなしてっ!」
「はなさない」
普段の優しい彼からは想像もつかないような力で、鉄柵から引き離される。指先が白くなるほど強く鉄柵を握りしめていたのに、とうとう掴んでいられなくなって、ふいに力が抜けたように、するりと手がはなれてしまった。
「あっ――」
地面に引きずり下ろされる。そのまま、もつれるようにして倒れ込んだ。甲斐の背がコンクリートにしたたかに打ち付けられる音がした。
「――っ」
甲斐の顔が一瞬、衝撃に歪む。陽奈はひるんだが、その隙にと立ち上がろうとした。しかしすぐに腕を引かれ、がくりと膝をつく。
背の痛みに顔をしかめつつも、彼は即座に身体を起こしていた。陽奈は信じられない面持ちで、掴まれた腕を振り解こうとする。
「どうして! あなたはもう、関係ない!」
同じ日に同じ場所で、いっしょに死ぬためだけに結ばれた絆は、彼の気が変わった時点で、もう打ち消えてしまったのだ。
「あなたはわたしを裏切った。それだけでもじゅうぶんなのに、その上わたしの邪魔までするの!」
ぽつ、と冷たい水滴が額に落ちる。頭に、肩に、くずおれた脚に。雨粒は徐々に増え、白いコンクリートに黒い染みを広げた。
「わたしはこれから、死ななくちゃならないの! ひとりで、ひとりきりで、死ななくちゃいけなのに――」
「ごめん」
あっという間に増えた雨がざあざあと降り注ぎ、甲斐の髪もシャツも容赦なく濡らしていく。
「全部、俺のわがままだ。君は苦しんでいるのに、解放されたがっているのに、こうして引き留めて……全部、俺の勝手なエゴだ。わかってる。わかってるけど……」
亜樹と和解した日、気づいてしまった。この思い自体はとっくの昔からあったのかもしれない。だが直視する勇気がなかった。この関係が壊れてしまうのが嫌だった。
「生きてほしいんだ」
声に出したら、鼻の奥がつんと沁みた。だが、こらえる。ちゃんと最後まで伝えなければならない。
「はじめは、本当に一緒に死ねたらいいと思ってた。でも、君といるようになって……その時間を失うのが怖いと、思ってしまった。一緒に死ぬから関係ないって思うかもしれないけど、そうじゃなくて……」
陽奈の手首を掴む力がぎゅっと強くなる。
「君が、君の存在が、この世からいなくなるってこと自体が、怖くなったんだ」
学校も、この町も、遊園地も、神社も、花火も、海も。陽奈がいて、陽奈が生きて、そこにいるから、意味があった。彼女が消えたその場所を想像するだけで、胸にぽかりと穴が空くような心地がした。
「なに、それ」
くぐもった声がした。陽奈の肩が震えている。顔は見えないが、静かな怒りが肌に伝わってくる。
「――最低」
ぐ、と瞬時に力がこもり、甲斐の腕をはねのけようとする。
「最低。ほんとうに、最低……!」
声がわなないている。伏せた陽奈の頬から大粒のしずくが落ち、雨に濡れた地面に混ざって消えていく。
「ごめん。俺のことは、恨んでもいいから……」
雨音に混じって、甲斐の声が静かに響く。
そのとき、扉の方から騒がしい物音がした。
「あっ先生! だめっすよ、ちょっと、ああっ!」
聞き覚えのある声と共に扉が強く開かれる。見れば焦り顔の佐藤と、甲斐のクラスの担任の男が立っていた。
「な、お、おまえら、こんなところで何やってる!」
甲斐も陽奈もはじかれたように立ち上がる。改めて自分らの置かれた状況を見回し、我に帰ったように青ざめる。
どう言い逃れようか言い訳を考えていると、担任がはっとしたように目を見開き、その顔をみるみる驚愕に染めていった。
「お、おまえ、そ、それは……」
指差す先には陽奈がいる。ふたりはそろって陽奈の足下を見た。
「あ」
いつの間にか、赤黒い液体が染み広がっていた。もみあうなかで、地面に落ちた袋が破けてしまったらしい。雨と混じり液体は方々へ広がって、白い何かがてらてらとむき出しになっていた。
「な、何があったんだ……ほ、保健室、いや救急車、警察……」
「あああ先生!」
佐藤が慌てて両手をぶんぶん振り回す。
「これ、演技っす! 演技、の練習! ほら、文化祭近いじゃないっすか! あー、上島さんが声が出ないっていうもんで、俺と武田で協力して……あ、あれは小道具で、俺が用意したもので、ほら、臨場感が出るようにって……」
佐藤の必死の言い訳に、担任も徐々に落ち着きを取り戻したらしい。青ざめていた顔がみるみる赤らんでいく。
「おまえら……!」
甲斐と陽奈と佐藤は、レインコートを借りて三人で屋上の掃除をさせられた。そのあとは全員ジャージに着替えさせられ、生徒指導室に連れられた。
佐藤と甲斐は一貫して、陽奈に何も相談せず独断で彼女の練習のために動いていたと話した。その課程でつい悪ふざけをしてしまい、血糊まで用意してしまったのだと。
だが陽奈は頑なにそれを認めなかった。
「すべて、わたしがふたりにお願いしたことです。わたしがやらせました。わたしのわがままです」
A組とD組の担任はそろって頭を抱える。
「おい、正直に話さんか。これじゃいつまでも埒があかんじゃないか」
「どっちが本当なんだ?」
互いに罪をなすりつけ合っているなら、全員を罰すれば済む話だ。だが彼らは庇いあっているように見える。そのために判断に困窮し、結局校長が出てきて、三人に長々と説教する羽目になった。保護者にも連絡するという。
「まあ、雨のなか屋上の掃除をしただけでも、じゅうぶん罰ですよ」
校長が呑気にそう言っているのが、部屋を出ていく際に聞こえた。
陽奈は生徒指導室を出た瞬間に走り出した。脇目も振らずに逃げるように廊下を駆けていく。
「……」
甲斐は佐藤を見た。佐藤も同様に見返して、それから、たまっていた息を思い切り吐き出した。
「はあああああ……」
大げさに胸をなで下ろし、歩きだす。
「佐藤」
後を追いながら、甲斐は問う。
「どうして、あの時……」
「なんであそこにいたのかって? おまえを食堂に誘おうと思ってたのにどっか行ってたから、さがしたんだよ。で、食堂まで降りたら通路を歩いていくのが見えたからさ、追いかけたわけ」
「じゃあ、見てたのか」
「……まあ、うん」佐藤はばつが悪そうに頭を掻いた。「ちょっとだけ。あの子がいっしょだったからイチャつきに来たのかと思ってさ。邪魔してやろうかとタイミングを見計らってたんだ。でも急に揉めだすし、狂言か知らねえけどあの子は屋上から飛び下りようとするし、わけわかんなかったけど」
平然と答えているが、あの現場を見ていたのなら、事の顛末も見聞きしていたはずだ。彼女が本気で飛び下りようとしたことも、死なないでくれと甲斐が情けなく懇願していたことも、すべて。
「佐藤――」
「はああ、なんか疲れたぜ」
佐藤が大袈裟にからだを伸ばす。甲斐は面食らったような顔でその横顔を見た。
「ったくもう、おまえらのイチャつきには金輪際、関わらねえよ」
それから「ああー、俺のロコモコ丼がああ」と大仰な嘆きの声をあげる。実にわざとらしいが、それが佐藤なりの気遣いに見えて、甲斐は胸が詰まる思いだった。
最近、彼には助けられてばかりだ。いや、今まで気づかないうちにもっとたくさん、こういうことがあったのかもしれない。自分が今までどれほど彼の存在を見ていなかったか、思い知らされる。
「……ありがとう。ごめん、巻き込んで」
呟くように口にすると、佐藤は「今度食堂でなんかおごってくれたらおっけーおっけー」と、ひらひら手を振った。
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