第17話 言えない言葉

「え、武田、弁当やめたのか?」


 学校の食堂に並んでいるだけで、佐藤にめざとく見つけられてしまった。甲斐は内心でやれやれと首をふる。


 新学期が始まった。昨日は始業式で学校自体ははやく終わったのだが、タイミングが合わず陽奈とは会えなかった。彼女にはとりあえず、水族館の約束を反故にしたことを直接謝りたかったのだが。


「じゃあ俺らのテーブル来いよ! ほら、あの二列目のとこ、伊藤がいるだろ」


 彼の指差す方を見、甲斐はうなずいた。


「ああ。ありがとう」


 佐藤は少しめんくらったような顔をした。だがすぐに、へへと笑って列に入っていった。


 食堂を使うのはずいぶん久しぶりだ。ずっと朝子から弁当を持たされていたので、人気の定食は朝のうちから券売機に並ばなければ売り切れてしまうことすら忘れていたくらいだった。


「武田ー、こっちこっち!」


 カウンターで盆を受け取ると元気な声が響いてくる。振り返らずとも佐藤がぶんぶん手を振っているのが容易にわかった。テーブルに着くと、吉田と伊藤もすでにいて、「あれ、武田じゃん」と驚いた顔をしている。


「弁当やめたのか?」

「ああ、まあ、しばらくは食堂かな」

「へえ。まー毎朝作り続けるのも、かーちゃん大変だよなあ」

「たしかに。おれ、二年になってから一回も作ってもらったことねーわ」


 みんなの会話を聞きながら、甲斐は目の前のビビンバ丼に目を落とした。ほんのりと湯気の立つご飯が食べられるのは食堂ならではで、いつも冷めた弁当を持たされていた甲斐は羨ましいと思っていた。だが確かに、毎度どんなときにも作ってもらっていたのは贅沢なことだったと今更ながらに思う。


 しかし朝子は亜樹のためには作っていない。亜樹には小銭を握らせ、中学の購買パンを買わせていた。朝子が弁当を作るとき、〈母親〉ではなく、どちらかというと異性に対する乙女心に近いものが込められていたように思う。そのことを思い出すと、未だに背筋が冷たくなる。


 亜樹の自殺を止め、すべてを打ち明けあったあの夜は、朝子の用意した夕飯をふたりで先に食べた。朝子が目覚めたのはそれからで、甲斐は真っ先に、これからは三人いっしょに食卓につきたいと言った。もしそれが叶わないなら自分も別々で食べる、とも。母は絶句した。乱れた髪のまま放心したように、「そう」とだけ言ったのだった。


 亜樹の眼には、あの日以降暗い影は差していない。それどころか澱んだものがすっと抜け落ちたように澄んで、明るかった。同時に、朝子にも変化が表れていた。しかしこちらは亜樹とは少し違い、呆けたようにおとなしくなったといった方が正しいだろう。以前は何かと甲斐にかまって、年若い乙女のようなきらきらした空気をまとっていたのが、すべて剥がれ落ちたようにまっさらになった。その急激な変化があまりに不気味で、兄弟そろって戸惑っていたのだが、心配は杞憂に終わった。夏休みが終わる頃には朝子の目もしっかりしてきていて、昨日など、辛みの少ないカレーを三人分用意してくれたのだ。


 会話らしい会話もないし、魂の抜けたような状態であることには変わりないが、ようやく「家族」らしい形ができてきた。そんな感じがする。


 だが武田家が平和になればなるほど、陽奈のことが気にかかる。彼女の方は相変わらずなのだろうか。誰もいない、がらんとした広い家でひとり、苦しんではいないだろうか。……


「武田あ、いらねーならくれよ、それ」


 ふいに佐藤の声で現実に引き戻される。見れば、甲斐の定食の小皿に盛られたたくあんを箸の先で指していた。


「俺、それ好きなの。いらねーならちょうだい」

「ばか。だめだ」

「けちー」


 テーブルに笑い声があがる。平和だ。自分は今、平和を謳歌している。楽しんでいる。生きている。それがたまらなく新鮮で、同時に居心地が悪かった。苦い罪悪感が常に胸の底にあった。


 授業が終わると甲斐は真っ先に教室を飛び出し、階段を駆け下りていった。校門まで最短ルートを走る。今日こそ見失わないように。彼女を見つけるために。

 果たして、校門の陰で待ち構えていると、すたすたと歩いてくる陽奈の姿があった。


「上島さん」


 急に躍り出ては驚かせてしまうと思い、何気ない風を装って目の前に表れる。それでも陽奈はぎょっとしたような眼をした。だがすぐに、いつも通りの薄い表情に戻る。


「なに」


 陽奈はまだ眼帯をしていた。しかし、位置が変わっている。今度は左眼だった。彼女の眼帯の正体を知っている甲斐は、その意味を悟り愕然と目を見開く。


「また――傷つけたのか」


 反射的に嫌そうな顔をされたが、訊かずにいられなかった。よく見れば制服のブラウスの袖から絆創膏の端が見える。見えないところにもたくさん、傷ができているのかもしれない。

「あなたには関係ない」と言われるかと身構えていたが、ちがった。陽奈の唇が微かな笑いを作る。


「うん」


 あっさりと肯定し、小さく首を傾げた。


「ここでわたしを待ってたの」

「ああ……その、謝りたくて。ちゃんと、直接」


 甲斐は改めてまっすぐ陽奈に向き直った。


「ごめん。水族館の約束まで、反故にして。楽しみにしてくれてたのに、俺のせいで……」

「いい。あの日はひとりで、死ぬ準備をしたから」


 そう言うと陽奈は歩き出した。細く白い足で、かろやかに。


「準備?」

「うん。血糊、あなたのぶんも作っておいた」

「……ああ」

「遺書も書いた。あなたは自分の分、できてる? 予定日はもうすぐだけど」


 今日は九月二日。予定日まで、あと二十日だ。突然、その日が一気に身近に押し寄せてきた感じがした。


「一度家に来て、血糊を見てほしい。ちょっと細工もして、肉片っぽいのも入れたから、かなり完成度が高いと思う。見た人には、絶対に忘れられない光景になるはず……」


 めずらしくよく話す。上機嫌なときの声色をしている。だが、なぜだろう、背筋が寒くなるような感覚がするのは。


「ほんとうに、楽しみ。もうじき死ねる……それだけで、残りの日も生きていける。あなたもそうでしょ」


 ふいに訊かれて、甲斐はひどく戸惑ってしまった。どう返したものか迷った挙げ句、


「そうだ、これから学校が終わったらさ、家まで送らせてほしいんだ」と話題を変えた。

「家まで? ……毎日?」

「ああ」

「どうして」

「それは……まあ、そんなに死ぬのを楽しみにされたらさ、俺の見てないところで早々に死んでしまいそうで」


 半分本気で、半分冗談だ。この冷えた空気を打ち払いたいという気持ちもあった。それを知ってか知らずか、陽奈はふふ、と笑う。


「だいじょうぶ。あなたと一緒に、死ぬから」


 ――あなたと一緒に。


 思わず、甲斐は陽奈の眼を見た。深い、覗き込めば奈落に落ちそうになるような黒い瞳。澱んだ影をまとった暗い瞳……これには見覚えがあった。母に愛されず兄を呪い続けていた、亜樹の瞳とよく似ていた。


「どうしたの」


 陽奈がこちらをのぞき込んでくる。その眼を見ていると深淵を覗いたような心地になり、甲斐はすっと目をそらした。


「いや……」


 改めて、その場で膝をつきたくなるほど打ちのめされる。あの日、無理をして母に逆らってでも約束を果たすべきだったのではないかと、後悔の念に苛まれる。佐藤の家に行き、その後亜樹と和解をしなければ、この感情は生まれなかったとわかっていても……彼女の心はもう、すくえぬほど深く落ちてしまったのだ。今更、どんな顔で「やっぱり生きよう」などと言えようか。


 ふたりで道路脇の道を歩き、駅前の大通りに出て駅中を通っていった。途中でコンビニを見つけ、甲斐はふらりと立ち寄る。陽奈も一緒に入ってきた。今日の夕飯を買わなければならないらしい。


「上島さん」


 遅れてコンビニを出てきた陽奈の方へ、買ったばかりのアイスの箱を見せる。個装された飴玉サイズのアイスがいくつも詰められたアソートパックだ。


「よかったら、いっしょに」

「うん」


 歩きながら、互いに箱の中身を分け合って食べた。九月に入ったといえど、まだまだ暑さは続いている。熱気の立ち上るアスファルトの上でひとくち放り込むと、冷たいアイスが舌先からすっと溶けて、心地よかった。


「甘い。おいしい」


 陽奈は一度にふたつ口に入れて、ゆっくり味わいながら眼を細めている。頬が薄らと紅潮していて、実に幸せそうだった。そんな彼女の様子を見守りながら、その笑顔をもうすぐ失うことになるのだと考えると途端に胸がひりつくように痛んだ。


「あの」


 つい、声に出てしまう。陽奈が無言でこちらを見上げる。陽が差して、眼帯のない右の瞳が薄赤く染まった。


「いや――」


 甲斐はふいと目をそらした。そらしてしまった。


「ごめん、なんでもない」

「へんなの」


 陽奈は甲斐の持つ箱に手を伸ばし、アイスを摘まみ取る。最後のひとつだった。


「あ」


 小さく息をついて、包みを箱に戻す。


「食べないのか」

「あなたが買ったから」


 いつの間にか、住宅街にさしかかっていた。甲斐の家の近所とは違い、大きな庭付きの立派な家々が立ち並んでいる。普通に生きていればあまり縁のなさそうな世界。その真ん中に、陽奈はいる。取り残されたように、ひとりで。


「じゃあ」


 陽奈が立ち止まる。『KAMISHIMA』と印字された表札が陽を反射して鈍く光っていた。陽奈はスマホを取り出して、自宅の門と玄関を解錠した。


「また明日」

「ああ」


 門が開き、陽奈が中へ入っていく。芝生の間の石畳をすたすたと歩いていくのを、甲斐はじっと見つめていた。彼女の姿が消えても、しばらくその場から動かなかった。




 甲斐は知らない。陽奈は家に上がると居間へ向かい、その窓辺からカーテン越しに門の方を見ていた。門前にたたずんでいた甲斐がやがて立ち去り、その横顔が石塀の向こうに見えなくなるまで。鞄も下ろさず、制服のリボンもほどかぬまま、その眼はただ甲斐を追っていた。


 自殺予定日まで、あと二十日。甲斐は平日、毎日家まで送ってくれるという。死ぬまであとどれくらい、彼とすごせるのだろう。――数えても仕方がない。気にするだけ無駄だ。いっしょに死ねるのだから。


 陽奈は窓から目をそらし、薄日に照らされた居間を見渡した。だれもいない家。広くて、静かで、母の趣味に満ちた家。ここももうすぐさよならだ。不思議だった。今まで一度もこの家に帰りたいと思ったことはなかったのに、いざいなくなるのだと思うと、妙な名残惜しさがあった。


 ――自分が死んだら、母は悲しむだろうか。


 いやまさか。それどころか学校で派手に死ぬことで、母の仕事に少なからず影響が出るはずだ。最後まで夢を邪魔された、と母は自分を憎むだろう。そうなればこの自殺計画は成功だ。大成功だ。ざまみろ。一生憎んで、一生、考えてくれたらいい。いつまでも我が子の幻影を見つめて生きてくれたら、もう、思い残すことはない。


   *


「兄ちゃん」


 台所で夕食の片付けをしていると、亜樹が寄ってきて、泡のついた食器を手に取った。最近はこうしてふたりで母の手伝いをするようになった。特別なねらいがあったわけではないが、終わると母がやってきて労ってくれるようになった。甲斐に、ではない。相変わらず遠慮がちでぎくしゃくとしているし、目を合わせようともしないが、明らかに、ふたりともに声をかけてくれている感じがした。


「その……前に言ってたこと……もう、だいじょうぶになった?」


 声を潜めて亜樹が訊ねてくる。甲斐はスポンジでコップを洗いながら、なんと答えたものか迷った。


「兄ちゃん、やっぱり死ぬ気なの」


 不安そうに揺れる声。甲斐はぐっと唇を閉じ、ゆっくり開いた。


「いや」

「じゃあ、言えたの。その、女のひとに」

「……まだ、なにも」

「え」

「まだ日は、ある。どうにかして時を見て、話したいとは思ってる」

「そっか……」


 亜樹はそれきり、その話題に触れなかった。だが隣に立っているとひしひしと伝わってくる。兄の身を案じる亜樹の心の声が。


 時を見て、とは言ったものの、甲斐は気づいていた。時などいくらでもあるのだ。これから毎日彼女を家まで送ると宣言したのだから。だが今日、何も言えなかった。言いかけたが、陽奈の眼を見てしまうと途端に喉奥で引っかかって、出てこなくなってしまったのだ。


 彼女の決意を折る自信が甲斐にはなかった。下手に計画を破綻させて、陽奈が自分の知らないところで勝手に死ぬのが怖かった。だがそれは、ずるずると引き延ばしているだけに過ぎない。

 どうすればいいのだろう。どうすれば彼女を止められる。いっそ嫌われても恨まれても構わないから、何か手はないだろうか……


 学校の成績がどれほどよくても、頭の回転が速くとも、肝心なときに役に立たない。甲斐はひとり、歯がみした。人ひとり救えないなんて、自分はなんて情けない存在なのだろう……


 今まで周囲の人間を無意識に見下していた自分が恥ずかしく、情けないように思う。

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