第16話 死にたい願い
少しの間、口をつぐむ。だれも、ぴくりとも動かなった。
いつからだろうか、静まりかえった家の外で、しとしとと細い雨音が響いている。
「――なんで」
張り詰めた空気を打ち破ったのは、亜樹の細い声だった。
「そんなこと、今まで……」
「ごめんな、おまえにだけは、先に言ってやればよかったな。その方がおまえも安心できただろうに」
「そういうことじゃなくて」
亜樹は両腕で兄の身体を押し返し、わずかに後ずさった。そうして真正面から甲斐の顔を見上げる。だが、その一点の曇りもない、不気味なほど静かな甲斐の瞳に気圧され、すぐに目線を下げた。
「だって、今まで、あのひとにばかみたいにしっぽ振って、媚び売って……そんな、そんなこと考えてたなんて、じゃあ、僕が今までしてきたことは、なんだったんだよ」
ぎり、と爪で床を掻く。
「兄ちゃんを呪い続けてきた意味って、なんだったんだよ!」
「意味はある。俺はここにいちゃいけない人間なんだって気づくことができたから。でも、せめて死に場所だけは選ばせてくれ。ちゃんと決めてあるんだ。死ぬ日も。だから俺がいなくなるまで、もう少しだけ辛抱してくれないか。もう少しで、おまえの生活は楽になるはずだから」
「なんだよ、それ。さっきから、言ってる意味がわかんないよ」
青白い頬にかっと血の気が走る。亜樹はますます爪の先をぎりぎりと床に押しつけ、見開いた眼で兄を見上げた。
「そんなことして……だれが救われるっていうんだよ!」
甲斐は押し黙り、眼をしばたたかせた。それから、困ったように首をわずかにかしげる。
「亜樹は、俺を呪ってたんだろ? 死ねばいいって」
「呪った。呪ったよ。あんたに届くように……僕の声が届くように、毎日毎日呪った。でもそれで本当に死なれたって、僕の望みは……」
いつからか、兄は漫画を読まなくなった。
自分が描いた力作をいつも真っ先に読んでくれていたのに、母親のわがままに従順になり、漫画どころかゲームも一緒にしてくれない。父がいたころはたくさん遊んだのに。楽しいことも、嬉しかったことも、悔しかったことも、いろんな出来事をいつも部屋できいてくれたのに。
気づけば兄は、こちらに目もくれなくなった。
「ただ、昔みたいに……昔の兄ちゃんにもどってほしかっただけなんだ」
長い間、どうしても言葉にできなかった想いをようやく声に出した途端、目の奥がぎゅっと熱くなった。ぽろ、と水滴がこぼれ落ちる。一度出はじめたら、もう止まらなかった。次から次から、ぐちゃぐちゃの感情が押し寄せては流れ落ちていく。
「今の兄ちゃんは、兄ちゃんじゃないんだって……僕の兄ちゃんを、返してくれって……出てってくれって……」
「――亜樹」
いつも何かを押し込めるように翳りを帯びていた弟の顔が、激しく歪んで震えている。全力で、精いっぱいに、本音をぶつけてくれている。
それだけでたまらず、甲斐は弟の名を呼んだ。
「亜樹。亜樹……ごめん、ごめんな」
膝をつき、泣きじゃくる弟の方へ身を乗り出す。
「おまえのこと、何もみえていなかった……俺はばかだ。おまえの本心も知らないで、勝手に救える気でいたなんて」
まただ。こんなところでも、自分は、身近なひとの心を知ろうともしないで、勝手に決めつけていた。
――人は見てくれだけで心を動かす生き物。己自身も、含めて。
「ありがとう、亜樹」
床に食い込み真っ白になった弟の指先に、そっと手を被せる。ゆっくりと、爪の先を離してやる。
「全部、教えてくれて。つらい思いをさせて、ごめんな」
『死ね』――あの日弟に言われた出来事は、甲斐の中でトラウマとしていつまでも心の底に澱み、くすぶっていた。漠然と憧れていた死へ、背中を押したのだ。だがその光景は、もはや霧散している。今はただ、目の前の弟に、自分のために泣く彼に、償いをしたかった。
やけに静かだと思ったら、朝子は廊下で足を投げ出したまま気を失っていた。悪夢を目の当たりにしたような壮絶な表情をしている。
甲斐は亜樹を促し、母親の身体を引きずるようにしてリビングのソファへ寝かせた。一応、タオルをかけておく。
「どうしようもないひとだけど、まあ、俺たちの母さんだから」
放置するわけにもいかないだろ、と言うと、亜樹もまた、複雑な表情ながらもうなずいた。
「兄ちゃん」
亜樹がおずおずとこちらを見上げる。
「その、さっきの話」
「うん」
「死ぬ、って、ほんとうに? ……今も?」
甲斐は迷うように母親を見下ろし、弟を見、悩ましげにため息をついた。
「場所を変えようか」
甲斐は亜樹を連れて自室へ上がった。久しぶりの兄の部屋を、亜樹はきょきょろと落ちつかなげに見回している。
亜樹をベッドに座らせ、自分は勉強机の椅子に腰掛ける。そうして、ふと息を吐いた。
「さっきの質問だけど、死ぬつもりでは、いたよ。死にたい一番の理由はおまえのためだった。だけど今はもう、正直、わからない」
「一番の理由……てことは、まだ他にあるの」
「ああ」澱みがすっかり抜けきった、澄んだ弟の瞳を見つめて、甲斐はうなずく。
「俺は、自分のこの顔を、つぶしてやりたいんだ」
眼鏡の奥で、亜樹の眼がぱちくりと瞬いた。
「どういうこと」
「さっきも母さんにも言ったけど、この顔のせいでずいぶん苦しんできた。亜樹は見たことないから知らないだろうけど、俺は前の父さんにそっくりなんだ。あいつのことが忘れられない母さんは俺の顔にあいつの面影を重ねている。だからあれほどまでに歪んでしまった。――母さんだけじゃない。学校にいる奴らもみんな、俺の見た目だけを頼りに寄ってくる。女子は甘ったるい媚びをなすりつけてくるし、男子はそんな俺を利用しようとする。俺自身を求める奴なんて、誰もいないんだ」
自分の膝頭に目線を落とし、自嘲気味に笑う。
「人間なんて、所詮は外見だけで心を動かす生き物なんだ。上っ面だけの薄っぺらい世の中でこれから生きなきゃいけないと思うと吐きそうになった……この先何年も、俺は俺自身を見てもらえないまま生きていくのかって」
「そんなこと」
「いや、そうなんだよ。現に俺も、同じだから」
佐藤の屈託のない笑みが浮かぶ。弟の血を吐くような心の叫びが思い出される。考えてみれば、陽奈にさえ、自分は何も知らないくせに、同志と思って心のよりどころにしてしまっていた。
「兄ちゃん、それは……それは、合ってるけど、違うんじゃない」
思わず目を上げる。亜樹は難しそうな顔で、必死に考えを頭の中でまとめているようだった。
「なんていうか、その……うまく言えないんだけど。確かに、兄ちゃんが言うような世の中だとは思う。僕も、背が小さくて細いってだけで男らしくないとか散々言われるし……女子にモテるのはいつも兄ちゃんの方だし。兄ちゃん自身もそうだっていうのは、わかる。僕もたぶん、同じだ。だけど兄ちゃんは、そういう自分に気づいて、これじゃダメだって思えたじゃない。それだけで全然、違うと思うんだけど……」
それに、と付け足す。甲斐は固唾を呑んで弟の言葉に聞き入る。
「本当にそういう人だけなの? 兄ちゃんの周り、たくさん人、いるじゃない。それだけいたら、誰か一人や二人くらい、兄ちゃんの中身を見ようとしてるひと、いると思うんだけど」
――『おまえと一緒にいたら、同じくらい人に優しくなれんのかなって思ってさ』
佐藤の声が唐突に耳の奥に甦り、甲斐は思わず目元を抑えた。反射的に溢れそうになったものをぐっと押しとどめる。だが、ふいに背中に柔らかな感触が触れた気がして、はっと息が止まった。
『だいじょうぶだから』
夜の海。頭上を輝かしく照らす花火の下。夏なのに冷えた手。だが触れられるとなぜかじわりとあたたかくなる、柔らかで優しい手。父裕一以外では、初めて涙を見せた相手だった。長い間、自分の境遇に泣くことすら忘れていたのに、思い出させてくれたのは彼女だった。
「……ああ、そうだ」懸命に目元を抑えながら、絞り出すように呟く。
「いる。……かもしれない」
「じゃあ、死ななくていいじゃん」
亜樹のまっすぐな言葉が胸を押し包む。だが、甲斐は苦しげに首を振った。
「そういうわけにはいかないんだ。そのひとも死にたがってる。一緒に死ぬって約束したんだ」
「えっ」
今度こそ、亜樹は言葉を失ったようだった。あちこち迷うように瞳をさまよわせ、懸命に思案する。そうしてようやく、おずおずと口を開いた。
「それは、女のひと?」
「ああ」
「つきあってる……とか?」
「いや」
「でも、好き、とかじゃないの」
「……わからない」
陽奈を想うとき、いつも不思議な心地がした。あたたかいような、苦しいような、よくわからない感覚が胸に沁みていく。
正直、佐藤から陽奈について問われているとき、心がひどく揺さぶられている自分に気づいていた。見ないふりを、していただけで。
甲斐は眉を寄せて首を振る。
「わからないんだ。……でも、約束はむげにはできない」
「じゃあ、兄ちゃんはそのひとが死んでもいいの?」
亜樹の声が、甲斐の心に、脳内に、響き渡る。
「僕が死ぬのは止めたのに。死にたがる僕は止められて、そのひとは止められないの?」
――僕が死ぬのは、止めたのに。
その言葉は、甲斐の脳裏に鋭いくさびを打ちつけた。
亜樹が目の前で刃を自分に向けたとき、我を忘れて阻止しようとした。亜樹が死ぬなんて考えられなかった。弟だからだ。弟とは、そういう存在だ。
では陽奈は。陽奈の存在は。
「僕は、兄ちゃんに死んでほしくない。兄ちゃんも、僕を必死に止めてくれた。それは何も間違ってない思いじゃないの。兄ちゃんがそのひとに死んでほしくないって気持ちも……」
がたん、と音を立てて甲斐は立ち上がっていた。見開いた眼で、呆然と自分の両手を見つめる。
自分の手と薄水色のカーペットが占める視界に、ぼやけた記憶の断片が重なった。初めての遊園地にはしゃぐ陽奈。両手に食べ物を抱えて眼を輝かせている陽奈。花火の下で宝石をちりばめた海辺にたたずみ、微笑を浮かべる陽奈。そのどれひとつも、この手からこぼしたくなかった。こぼれ落ちたら、消えてしまう……
「ゆるされるのか」
かすれた声を絞り出すようにして、問う。
「死にたい彼女の願いをむげにして……」
陽奈の抱えた事情は、少しばかり聞くことはできたものの、未だ詳細はわからない。ただ眼帯の下の秘密だけは知ってしまった。夢追う母親に置き去りにされ、あの広い家の中でひとり孤独に耐えながら、自分の身体を傷つけている。
自分の事情など生ぬるいと感じてしまうほどに、彼女の背負うものの重さは、苦しみは、痛みは、奈落のように深い。
亜樹は何か言いかけるそぶりを見せたが、力なく目を落とした。答えは結局、出なかった。
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