第15話 おまえに償うために
名ばかりの勉強合宿最終日は、午前中から昼にかけて男たちだけで町へ繰り出し、ゲームセンターや安いカラオケ店で遊んでいた。佐藤、吉田、伊藤――何気ない、いつも通りのメンバーで、軽口を叩いたり佐藤のテンションをいじったりしているだけなのに、甲斐はなぜか、笑っていた。忌々しい仮面に貼りつけた笑みではなく、自然と頬が緩み、彼らの会話に入り込んでいる感覚があった。今までありえないことだったのに。自分は今、笑い声をたてている――大げさな言い方だが、まるで、生き返ったような心地だった。
「武田あ、おまえへたくそすぎだろ!」
吉田がばしばし背中を叩いてくる。目の前にあるアクリル壁の向こうでクレーンゲームのアームが菓子箱の間をすり抜け、何もない空間を掴んで引き上げられているところだった。
「うるさいな、昔からこういうの苦手なんだよ」
「貸せって、次おれ。見とけよ見とけよ」
吉田が甲斐の場所を奪い、コインを投入する。舌をちょっと突き出し、真剣な顔でアームの位置を調節した。アームは菓子箱の上にまっすぐ降りて、掴みにかかる。
「いいぞ! いけ! ほらいけ!」
だが次の瞬間、菓子箱はアームの隙間からあっけなく滑り落ちた。
「だあああ! くっそ、ぜってえ改造されてる、わざと弱くしてあんだよ」
「ドンマイ、俺と同じだな」
「うっせえ、おまえよりはマシだし!」
吉田は「くそっ」とやけくそでコインを追加している。その平和なやりとりに佐藤がこっそり安堵していることなど、その場の誰も、知るよしもなかった。
「そういや吉田、夏祭りのときもイキって金魚すくいやろうとして――」
「うるせえな、あれはあの白いやつが改造されてたんだよ! 俺のだけ破れやすかったんだって、ぜってえそうだって」
「そんなわけねえだろ。なあ武田、おまえも下手そうだよな、そういうの」
伊藤から急に振られて、甲斐は目線をわずかに下げた。
「まあ、得意ではないな」
それどころか、弟に勝てたためしがない。一つのことに集中する才能は亜樹の方が頭一つ秀でていた。何にしてもそうだ。
亜樹――賑やかな笑い声に囲まれていると、ふいに思い出して、胸に鈍い痛みが走る。
生きることの息苦しさは昨夜の佐藤の言葉で少し和らいだように感じる。だが弟のことを思えば、やはり自分はこの世から消えなければならないと思う。
――消えたら、こいつらともお別れなんだな。
ふとそんなことを考えて、甲斐は無意識にため息をこぼしていた。ほんの昨夜までどうでもよかった関係なのに……いや、本当にどうでもいいと思っていたのだろうか。知らず知らずのうちに、心のどこかで彼らが寄ってきてくれるのを待っている自分がいなかったか……
周囲にどれほど笑い声が満ちていても、甲斐の心が完全に晴れることなどなかった。考えれば考えるほど気が重たくなって、出口のない暗闇に迷い込みそうになる。そのたびに、彼らに絡まれすくい上げられるのだった。
*
みんなと別れ、佐藤家を出たのは夕方頃だった。町から帰るともう一度倉庫に戻って綺麗に掃除をした。佐藤の母は「気を遣わないで」と言ってくれたが、甲斐が押し切ったのだ。この素敵な家庭に触れさせてもらった、せめてものお礼として。吉田も伊藤も「マジかよ」と小声で呟いていたが、真面目に畳を拭く甲斐を見ると彼らも仕方なくやり出して、いつの間にか全員が精を出し、倉庫の隠れ家はぴかぴかになった。佐藤の母親はとても喜び、「絶対、また遊びにきてね」と言ってくれた。ええ、ぜひ――そう返したが、またの日は、来ないのだ。
重たげな足を引きずり、自宅を目指す。夕方になってもまだ辺りは明るい。だが、空には分厚い雲が広がっていた。今にも降り出しそうな、湿っぽい空気が漂っている。急いだ方がいいかもしれないが、それでも、帰りづらかった。その心が足を動かしたのだろうか、気づけば自宅の横道に逸れ、住宅街の真ん中にある公園に向かっていた。彼女がいるかもしれないと無意識に考えていたのかもしれない。――だが当然、そこに見慣れた背中はなく、遊具のない空き地がうち捨てられたようにたたずんでいるだけだった。
そういえば、彼女はなぜあの日、この公園にいたのだろう。
改めて考えると不思議だった。家は武田家と反対方向の海側なのに。わざわざここに寄り道する意味がわからない。
誰かと待ち合わせでもしていたのだろうか――そこまで考えて首を振った。それもないだろう。そんな相手がいるのなら、わざわざ甲斐と遊園地に行く必要はないからだ。
遊園地と言えば……改めて、心に鉛玉のような重みがのしかかる。今日は本当は、陽奈と水族館に行く予定だった。それを自分が放棄してしまったのだ。今頃彼女は、何をしているだろう。ひとり、あのがらんとした家で……
もう、夏休みが明けるまで会うことはない。なら、明けてすぐに会いに行こう。昼休みに、あのパンを持って。そして、直接ちゃんと、謝ろう。
そう決意して、甲斐はくるりと方向を変え、家に向かって歩き出した。すぐそこの角を曲がればいいだけだ。あと数メートル……いよいよ玄関の前に立ったとき、ふと、首筋にぞくりとした寒気が走った。
恐怖などではなく、何か本能的な、警告だった。扉を開けてもいないのに、なぜかそんな予感がした。嫌な感じだ……甲斐はゆっくりと鍵を差し込み、鍵穴を回した。
がちゃり。鍵が開く。嫌な感じは変わらず甲斐の背中にまとわりついている。これはなんだろう……わからぬままに、扉を引いた。
「ただい――」
声が途切れる。背中のすぐ後ろで、扉がばたんと閉じた。
そこから先へは一歩も動けなかった。
階段下の廊下で、母が尻餅をついて後ずさっている。青ざめた顔で甲斐を横目に捉えると、「か、甲斐」とかすれた声で呼びかけた。
「母さん」
いったい何が、と言いかけたところで、リビングの入り口からすっと人影が現れる。
「おかえり、兄貴」
亜樹だった。眼鏡の向こうの暗い眼差しがこちらに向けられ、に、と細くなった。
「おそかったね。待ちくたびれたよ」
「亜樹……おまえ、なんで……」
――どうして、包丁を持っているんだ。
兄の視線に気づき、「ああ」と手にした刃を持ち上げる。
「お母さんが、死ねって言うから。望みどおり、死んでやろうと思って」
「な、何をいっているの」朝子は悲鳴のような声をあげた。「そんなこと、一言も言ってないわ!」
「言ったよ。今日だけじゃない。今までずっと毎日毎日、僕はあなたに殺され続けた。『どうしてあんたみたいなのが産まれたのかしら』『あの人の子どもなんか生まなきゃよかった』――そう、しつこく言い続けてきたじゃないか!」
亜樹が包丁を振り上げ、朝子は悲鳴を上げて床を這いずった。肘がぶつかって小さな物置台が揺れ、上の花瓶が転がり落ちる。ぱりん、とあっけなく花瓶は割れ、朝子のスカートの裾にまでじわりと水が広がった。
「お母さんは、僕に死んでほしいでしょう? じゃあ、死んであげるよ」
亜樹が、一歩、また一歩と朝子に近づいていく。「もううんざりなんだ」と、怯える母の投げ出した足を跨ぐようにして立ち、恐怖に歪んだ母の顔を見下ろした。
「僕が消えたら、大好きな兄貴とふたりでずっと暮らせるよ。それがいいんでしょう? それが望みだったんでしょう? そのために、僕は邪魔だったんだ。邪魔な僕は――消えるしかないじゃないか!」
灰色のTシャツから伸びた、細くやせ気味の腕。その手に握られた包丁を逆手に持ち直し、亜樹は自分の胸の真ん中に刃を向けた。
「死んで、生まれ変わりたいんだ」
顔を伏せたまま、押し殺したような声で続けた。
「次は、僕だけの……家に」
その手が、ゆっくりと動き出す。瞬間、甲斐は動いていた。玄関の靴を跳ね飛ばして廊下に駆け上がる。
あまりに必死で、止める声すら出なかった。ただ亜樹の手に、手の中の刃に、夢中で手を伸ばしていた。それが弟の身体を貫くことが、何よりも怖かった。
「やめろおおおおおおお!」
叫ぶと同時に弟の細い手首を掴み、むりやり引き寄せる。もう一方の手で包丁をもぎ取った。
「何するんだよ!」
亜樹が絶叫する。甲斐は激昂する彼の頬を、力いっぱい張り飛ばした。
眼鏡が吹っ飛び、亜樹の身体がぐらりと傾く。そのまま真後ろに転がるように尻餅をついた。赤くなった頬に触れ、信じがたい面持ちで兄を見上げる。
甲斐は荒い息を吐きながら、その場に立ち尽くしていた。
しんと静まり返った空気に、やっと正気に戻った朝子が喘ぐように呼吸を取り戻す。
「な、なんて、こと……甲斐、あなたが来てくれなかったら、亜樹はあのまま……そして私たち、きっと殺人犯に仕立て上げられるところだったわ。ああ、よかっ――」
甲斐の足が一歩踏み出される。そのまま母の前を素通りし、弟の元へたどり着くと、ゆっくりとしゃがみこんだ。包丁を傍らに置き、次の瞬間、両腕で亜樹の身体を自分の胸に抱き込んでいた。
「なっ……」
朝子が再び絶句する。だがもう、その声は耳に入らない。
甲斐は亜樹の身体を抱きしめながら、その頼りなさに愕然とした。これほど小さな身体で母の理不尽な支配に耐えていたのかと思うと、目の奥に苦しいものがこみ上げてくる。
「亜樹――」
その薄い身体を力の限りに抱きしめ、声を震わせる。
「ごめん。ごめんな。母さんから、守ってやれなくて」
亜樹の眼が、大きく見開かれる。唇を半開きにして、言葉にならない声を唸るように振り絞っていたが、やがて腕を持ち上げ、兄の背を思い切り殴りつけた。
「うるさい! なんだよ今更、ばかにしやがって!」
拳を固く握りしめ、本気の力を込める。兄の背が傷ついても構わなかった。痣になろうが骨が折れようが構わない。それほど、許せなかった。今までどれほど望んでもくれなかった言葉を、こんな時になってあっさりとくれたことが。
「ふざけるな! ふざけるなよ! 僕を裏切ったくせに。あいつの味方をして、あいつの子分になりさがって、あいつの犬になってたくせに! おまえが死ねばよかったんだ! あいつが死ねって言うたびに、兄貴が死んだらいいのにって呪っていたんだ!」
「もういい。もうそんな風に、誰かを呪わないでくれ。俺はもうじき、死ぬつもりだから」
慰めるようでも、機嫌を取るようでもない、凪いだ湖面のような、静かで淡々とした声だった。
「何を言っているの!?」
後ろで金切り声がした。
「甲斐、どうして――まさか、亜樹のせいで? 亜樹のせいでそんなことを……?」
「母さんは黙ってろ!」
母の声に被せるようにして怒鳴り返す。朝子は全身を凍りつかせ、信じられないものを見るような目で甲斐を凝視していた。
「俺は今まで、あなたの言うことをすべてきいてきた。勉強しろ、ゲームをするな、漫画を読むな……そればかりならまだ良かった。でも、母さんは父さんのことまで否定して、あんな風になるな、と言った。俺や亜樹がどれほど父さんのことが好きだったか、知ってるくせに――それだけはどうしても許せなかったけど、俺は耐えた。耐えなかったら、母さんは機嫌を悪くして、亜樹に当たるからだ」
語りながら、亜樹を抱く腕に力を込める。絶句する母の方は振り返らない。どんな顔をしているのかなど、知りたくもなかった。
「父さんがいなくなってから、母さんは亜樹への当たりをどんどんひどくしていった。亜樹の部活を辞めさせたとき、俺がいない間に必ず手をあげると思って、俺も辞めたんだ」
「うそ」朝子はかぶりをふった。「T大に行くためって……勉強したいからって……」
「ぜんぶ嘘だ。ああ言わないと母さんは納得しない。そうやって俺も早く帰ることで、亜樹に手をあげることは減った。だけど、暴言だけはどうしても防げなかった……俺がいようがいまいが、関係なかったからだ。どうすれば亜樹を守れるのか……いろいろ方法を考えたけど、たどり着くのはいつも一つだけだった」
ひとつひとつ、胸に溜まっていた汚泥を吐き出すように語る。いつの間にか、亜樹の拳も止んでいた。脱力したように腕を下ろし、呆然と兄の言葉を聞いている。
「母さんは、あいつに似た俺に執着している……俺のこの顔や、身長や、声……それがあるから母さんは亜樹を見ないんだ。亜樹も、俺なんかのせいで苦しんでいる。俺がいなければ、今頃きっと母さんの息子として普通の暮らしをしていたはずなんだ。父さんだって、ここにいたかもしれない……だから……」
どうしても声が震えて、まともに言えそうもなかった。一度言葉を切り、深く息を吸う。
「俺が死ぬべきなんだ、亜樹」
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