第14話 ずっと言いたかったこと
「おっ武田、来たな!」
玄関で佐藤が出迎えてくれる。甲斐は「お邪魔します」と言って一歩進み出た。
「佐藤だけか?」
「いや、吉田と伊藤も一緒だぜ」
「……ほかには?」
「え、いねえよ」
さも当然といわんばかりの口ぶりであるが、それではいつもと何も変わらない。彼もそれはわかっているようで、肩をすくめてみせた。
「ま、これは俺の思いつきだからなあ。他にも一応声かけたけど、予定があわなかったんだよな」
「そうなのか」
「うん。さ、とにかくこっち来いよ!」
言うなり、佐藤はサンダルを引っかけて玄関の外に出てしまう。甲斐は慌ててその背中を呼び止める。
「ちょっと待て、俺、おまえん家のおばさんに一言挨拶しないと……」
「そんなん、あとあと! とりあえず見てくれって、うちのすげー隠れ家!」
甲斐の連れられた先は、なんてことはない、すぐ隣にある小さな白い倉庫だ。狭い庭の中に家とくっつくようにして並び建つそれは、隠れ家というにはあまりに目立っていた。
入り口はすりガラスの嵌められた扉が取り付けられており、佐藤は意気揚々と開く。
「おーい、武田が来たぞお」
狭くて四角い、靴を脱ぐスペースの奥に、真新しい畳が敷かれていた。横長のちゃぶ台と座椅子、奥に積み重ねられた布団も見える。
「おお、久しぶり」
「マジで来たのか。今度はフられなくてよかったなあ」
吉田と伊藤はすっかりくつろいで、スマホを手にゲームをしていた。ちゃぶ台には盆に盛られたお菓子の空き袋やジュースのコップが散乱している。
「よっし、武田も来たし、おふくろの晩飯ができるまで遊ぼうぜ!」
はしゃぐ佐藤の後ろから、甲斐がたまらず「おい」と声を上げる。
「話が違うだろ。『超・勉強合宿』はどうしたんだよ」
「え? ああー」
へへへ、と頭を掻き掻き、
「晩飯食ってからやろうぜ? な、な」
「え? マジで勉強やんの?」「どうせいつもの冗談かと思ってた」
後ろの二人ののんびりした口調に、さしもの甲斐もがくりと肩から力が抜け落ちる。
「結局、そうなるのか……まともに勉強道具持ってきた俺がばかだった」
「大丈夫大丈夫、俺らも宿題持ってきてるから。あとで写させてくれよな」
「見本よろしくー」
「おまえらなあ……」
勉強合宿とはやはり名ばかりで、本命はこの改造された倉庫を見せびらかして遊びたいということだったらしい。改造したのは佐藤の父親で、大工をやっているという。
「ねーちゃんが東京行っちゃったからさ、そのときに倉庫をいろいろ漁って、ついでに整理もしたんだよ。そしたらほとんどすっからかんになっちゃってさ」
夜、佐藤家の食卓にお邪魔して鍋をつついていると、そう自慢げに語ってきた。
「結構りっぱな広さがあるのにもったいねえなあって話してたら、親父がまかせろって言って、夏休み中にやってくれたんだよ。な、親父!」
「……まあな」
佐藤の父親は表情の固い、寡黙な男だ。ごま塩頭で陽に焼けた顔には深い皺が刻まれている。対して母親は常ににこにこと目を細めていて、柔らかな優しさが全面的に表れていた。夕飯前、甲斐がせめて食事代にと、朝子から預かっているお金の封筒を渡そうとしたが、断られてしまった。息子と仲良くしてくれるだけでじゅうぶん、と言われてしまい、言葉を失う。
――そうか、〈お母さん〉って、こういう感じなのか。
なるほど、こんな家庭で育ったら、こんなふうになるわけだ。甲斐ははしゃぐ佐藤をひそかに横目に見る。屈託ない、およそ裏表などなさそうな、素直な奴。それが鬱陶しくてつい邪険にしてしまうときもあったが、それはこのあたたかな家庭で培われてきたたまものなのだ。
夕食のあとは近くの銭湯に行き、倉庫の隠れ家に帰るとしばらくだらりとして、それから甲斐がおもむろに宿題の入ったファイルを取り出した。
「ほら、写すなら見ろよ」
とちゃぶ台の上に並べる。吉田がまずやってきて、綴じられたプリントをぱらぱらと捲った。
「すげー、マジでやってんじゃん、全部」
「さすが武田! んじゃありがたく写させてもらいますわ」
まったく遠慮も悪びれもなく、彼らはおのおの、皺になったプリント類を取り出して、ペンを手にし始めた。やっと勉強会らしくなってきた……と甲斐は息をつく。ぶつくさ言いながら課題を睨んでいる彼らの姿を眺めながら、ふと、陽奈は今どうしているだろうかと考えた。
あれから彼女と連絡はとれていない。考えてみれば当然だ。元々、他愛もない世間話を交わすような間柄でもない。水族館に行けたならきっと服装のことや準備物について質問も来ていただろうが、それもなくなってしまった。
なくなってしまったのは、自分のせいだ。母と二人きりで旅行、と考えるだけで冷静さを失った。後先考えずただ逃げた。その結果、陽奈を悲しませてしまった。
いや、正確には悲しんだかどうかなどわからない。でも、そんな気がした。彼女の最後のチャットの文字がそう訴えているような感じがしたからだ。
〈どうせもうすぐ死ぬんだし〉
もうすぐ死ぬ――その言葉を見たとき、胸のあたりに鳥肌が立つような心地がした。死は自分たちにとって救いであるはずなのに。そうだ死ねるんだ関係ないよな、とすぐ思えなかったのはなぜだろう。
考えに耽っていると、視界の端でシャーペンが転がってきた。伊藤がペンを手放し、畳の上にごろりと背中をつけている。
「すまん、飽きた」
「マジかよ、気合いが足んねえぞ」といいながら、吉田もふわとあくびをかみ殺す。
「気合いってなんだよねーよそんなもん。もう続きは明日にしようぜ。ねみいわなんか」
「わかる。つーか食べ過ぎた。佐藤のかーちゃんすげー食べさせてくれるんだもんな」
「へへ、おふくろ、毎日つくりすぎるくらいだからさ、おまえらがすげー食うから喜んでたぜ」
褒められたわけでもないのに、佐藤は照れくさそうに鼻の下を掻いている。
もう勉強モードを打ち切った彼らに呆れつつ、甲斐は宿題や勉強道具を脇に寄せた。仕方がない。今日の分の勉強は、彼らが寝静まってからひとりでやろう。
畳に布団を敷いたものの、それからも四人でスマホゲームの対戦をしたり、佐藤の持ってきたカードゲームで遊んだりしていた。深夜になると一人、また一人と寝落ちして、いよいよ甲斐だけになる。
ほっと息をついて時計を見上げると、深夜の一時に差し掛かろうとしていた。あと一時間くらいは頑張ろうと頬を軽く叩く。
ちゃぶ台に問題集を広げて今日の分のノルマをこなす。部屋の電気は消しているが、棚に備え付けてあった球体のテーブルランプを借りていた。灯りは少々弱いが、手元が見えないわけでもない。
しばらく黙ってペンを動かしていると、ふと視線に気がつき顔を上げる。布団の上で頬杖をつき、じっとこちらを見つめている佐藤と眼が合った。
「うわ、なんだ、起きていたのか」
「まあな」
「眠れないのか?」
「そんなとこかな」
佐藤は起き上がり、「そっちいっていい?」と訊ねてくる。訊ねながらもうこちらへ来ていることには言及せず、甲斐は散らかっていた座布団を引き寄せてやった。
「武田ってさ、毎日そんな勉強してんの」
「うん」
「すげーな」
「べつに。普通だろ」
「普通じゃねえよ。やっぱあれなの、いい大学いきたいの」
「……まあ、そうかな」
正確には、朝子がそう望んでいる。将来は絶対T大に入ってあの男と同じように大企業のエリートになることを望んでいるのだ。考えるだけで反吐が出る。
だがこれは、ふりだ。実際にはT大へいくことも就職することもない。ただこうしておかなければ学校の試験で良い結果が出せず、母の機嫌を損ねてしまう。損ねた分だけ弟に被害が及ぶ。だからやるのだ。それだけだ。
「勉強好き?」
「好き嫌いじゃないだろ、こういうのは」
「そっか。そうだよな」
さきほどから何が言いたいのかわからないが、甲斐は気にせず黙ってペンを走らせる。こうして軽く会話を交わしていても解けるくらいには簡単なものばかりだ。
「なあ武田、おまえさ、さっき上島陽奈のこと考えてた?」
とんでもない不意打ちに、指からペンが転がり落ちそうになった。突然何を言い出すのだろう。顔を上げると、佐藤の表情に悪戯じみた色はなく、平然としている。
「なんでだよ。……さっきっていつだ」
「さっき。みんなで宿題やってたときだよ。なんかすげー考え事してるっぽかったし」
「考え事してるってだけで、どうして上島さんが出てくるんだ」
すると佐藤は耐えかねたように吹き出した。
「武田、いつものクールさが台無しだぜ。すげー顔してる」
「何言って……」
甲斐は咄嗟に頬に触れる。すると顔の筋肉が全体的に強ばっているのを感じた。眉間に深い皺が刻まれている。
「おまえのこと、中学の時からしか知らねえけど、いっつも無表情装ってるくせに、急にすげー感情出るときあるよな」
そんなはずはない……甲斐は愕然として、内心で大きく首を振る。そんなはずはないのだ。自分の顔にはあの忌々しい男の仮面が張り付いている。母が歪んだ愛情を向けずにはいられないほどにそっくりな顔。周囲の女子が鬱陶しい声を上げるような、恐ろしく整った作り物のような顔。そのせいで自分は苦労して生きてきた。そのことがわかっているからこそ、敢えて利用してきた面もある。それが崩れるなんてことが、あるはずないのに。
「あのさ、一つ聞きたいんだけど。学校で急に愛想良くなって、俺らにつきあって便所行ったり他クラス行ったりしてたのって、やっぱり上島陽奈のため?」
「は――」
「ほら、俺、去年あの子と同じクラスだったじゃん。知ってんだよね。いじめられてるの」
佐藤は頬杖をついたまま、ぼんやりと遠くを見つめる。
「あの子さ、すげー地味だけど、そのくせキレイな顔してるし、割と自分の意思はしっかり示すっていうか、強い女子に従ったりしねえんだよな。そのせいで目、つけられてさ、教師の見えねえとこでいじめられてたんだよ」
「……黙って見てたのか」
押し殺すような低い声が喉から出た。その気迫に佐藤は一瞬たじろぐような目をしたが、すぐに首を横に振る。
「いや、そんな傍観してたわけじゃないぜ。やりすぎだろって言ったんだ。そしたらいじめがひどくなった。俺が何を言ったところで、なんにもよくならねえんだよ。わかりやすい暴力とかだったら止めに入れたけど、見えないところでいつの間にかやられてる。筆箱が消えたり、教科書がめちゃくちゃになったり、持ち物検査のときに自分らのアクセサリーとかお菓子とか入れて怒られるようにしむけたり、スカート切られてるときもあった」
佐藤は思いつめるように眼を伏せる。
「俺、おまえと違ってばかだから、結局何もできずに一年が終わっちまった。そしたら今年も、あの子をいじめてた強い女子たちが同じクラスになってる。たぶんまた、同じようにやられてると思う。もっとひどいことになってるかも……」
「……そうならないように、している」
つい言葉がこぼれ、甲斐ははっと口を噤んだ。佐藤はそんな甲斐をじっと見つめ、ほっとしたように笑みをこぼす。
「そっか。おまえ、人気あるもんな、あいつらに。それで、見回ってたんだな。俺らにつきあうふりして通りかかって……」
「……」
もはや、否定もできなかった。いつもみたいにさらりと一言、そうじゃないと言えばいいだけなのに。
「おまえほんと、なんだかんだ優しいよな。優しいってかお人好しっぽい」
「そんなことは」
「自覚はなくてもそうなんだよ。おまえが周りから好かれるのって、何もそのムカツク顔立ちだけじゃなくて、絶対、そういうところをみんなわかってるから……」
「やめろ」
声を荒げれば、吉田や伊藤を起こしてしまう――という理性は頭の片隅にあったが、それでも口調を荒げずにはいられなかった。
そんなはずはない。それならどうして母はああなってしまったのか。自分がどれほど父裕一に憧れ、その温かさやおおらかさを必死に真似ようとしているかなどひとつも知らないで、ただ顔立ちの似た最低な男の後を追わせようとしているのか。
人間は所詮、見てくれしか興味がないのだ。その顔の皮膚の下で相手が何を考えているかなど、知ろうともしない。この世は地獄だ。生きているだけでおぼれそうに息苦しい。だから死にたいのだ。
無意識に呼吸が浅くなっている甲斐の様子を見つめたまま、佐藤は悲しげに目を細める。そのまま、下を向いた。
「俺、昔からおまえに憧れてた。知ってると思うけど。すげー友だちになりたくてさ。しつこくつきまとって……迷惑だろーなって自覚は、正直あった。あったけど……おまえと一緒にいたら、同じくらい人に優しくなれんのかなって思ってさ」
目を見張り、佐藤を見る。何を言い出すのかと思えば……。純粋でおおらかで屈託のないところ、あたたかな家庭……どれほど望んでも手に入らないようなものを彼はすでに持っているというのに。
「中三になって初めて同じクラスになったときさ。わあすげーイケメンだなー、頭いいし走るのはえーし羨ましいなーって思って、憧れて、友だちになりたくてさ。思わずこう、甲斐って呼んだら、なんか怒られたんだよな。覚えてるか?」
「いや……」
正直なところ、甲斐にはまったく覚えがなかった。だが佐藤は強烈な思い出として記憶しているらしい。確かに、なれなれしく名前で呼ばれるのも、呼ぶのも嫌いだった。甲斐は中学時代からすでに周りと距離を置いていた。
「ま、そうだよなあ。でさ、なんだよ気むずかしい奴だなーと思ってたんだけど、しばらく見てたら全然そんなことなかったんだよな。さりげないけどちゃんと……ハンカチ貸したり教科書見せたり、掃除替わったり、女子が泣いてたら黙って気いきかせて俺らを連れて外に出たりさ。そういう奴だった。気づいたら、ますますおまえと仲良くなりたくなった。だから……えっと……」
言いながら、どうにも恥ずかしさが限界に達したらしい。佐藤は照れを誤魔化すようにへへへと笑って頭を掻いた。
「その……要は、ほら、学校でさ、元気ねえし、みんなと距離を置こうとしてるの、なんとなくわかって……原因、何かわかんねえけど、俺はおまえとちゃんと友だちでいたいってことと……みんな、おまえのいいとこちゃんとわかってるってことと……まあ、そういうことを、どこかでどうにかして、言おうと思ってたんだよ、ずっと、うん」
そのとき、布団の上で吉田がもぞもぞと動き、「佐藤てめえおぼえとけよ……」と呟いた。目を閉じているので寝言であろうが、佐藤本人は「ひえっ」と肩をびくつかせる。それから、気まずそうに首をすくめた。
「まあ、うん、俺、寝るから……勉強、がんばれよ。じゃあ」
ぎこちなげに畳の上を膝で這い、「吉田ー、おまえの布団あっちだろお」と小声で講義しながらはみ出た身体を押し戻している。甲斐はその様子を呆けたように眺めていた。
人は所詮、見てくれにしか興味がない――その
佐藤は布団に入ると十秒足らずで寝息をたてはじめた。その邪気のない、のほほんとした寝顔に深く見入る。
武田武田、と鬱陶しく絡みにくる彼の中にどのような想いがあったのか――これほど近くにいたのに何も見ていなかった自分に、ただ愕然としてしまう。
甲斐はぼんやりと自分の胸に手を当てた。その奥がじんわりと温かみを帯びている。優しい父や朗らかな弟とともに過ごしていたときと、少し似た感覚だった。
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