第13話 楽しみだったのに

 右手に綿菓子。左手にりんご飴。肘に提げた鞄には、たこ焼きのパックやフライドポテトが詰められている。全身で祭りの余韻に浸りながら、陽奈は夜道を歩いていた。


 帰りは甲斐が送ると言って聞かなかったが、彼の家はおもいきり逆方向だ。門限が厳しいんじゃなかったの、と訊ねると一瞬詰まったので、ひとりで帰ると押し切った。彼はクールぶっているが、反応はいちいちわかりやすくて、扱いやすい。


 家への夜道くらい、ひとりで歩くのには慣れている。夜中に小腹が空いたとき、冷蔵庫が空だと近くのコンビニまで歩かなければならないからだ。それに今は機嫌がいい。とても、いい。


 綿菓子を唇で食むと、ふんわりした塊がほどけて、しっとりした甘さがじわりと広がる。唇についたそれをひと舐めすると幸せがこみ上げる。甘い物はいい。お祭りに、こんなにもたくさんの甘味が溢れているとは知らなかった。すべてを制覇することはできなかったので、次こそは回りきりたい。


 ――ああ、次なんて、なかった。


 その事実に気がつき、ひとり笑う。ひりついた微妙な笑みだった。街灯につやつやと光るりんご飴を見下ろし、ああこれは最後の一本なのかと、しんみりした気持ちになる。


 この味を教えてくれたのは甲斐だ。彼がいなかったら、お祭りを知らずに死ぬところだった。

 混み合う人のざわめきや、遠くで低く轟く太鼓の音、ひしめく屋台の客寄せの声――すべてが未だ鮮やかに耳に甦る。今日は、いい日だった。あまりに良すぎて、怖くなるくらいに。


 ――そういえば、あれは誰だったのだろう。


 最後、海辺で座っているとき、頭上の道路に突然現れた人影。甲斐と親しげだった。いつも教室の外を通りかかってくれるときに連れている男子の一人だろうか。ごそごそと何やら話し込んでいる様子だったけれど、一体なにを話していたのだろう。


 まあ、きっと自分には関係ない。それに、慌てて階段を駆け上っていった甲斐の背中を思うに、きっと自分の姿を見られないようにしてくれたのだろう。この関係がばれれば計画に支障が出るのは確実だからだ。


 遊園地では幸い出会わなかったが、祭りではこうして知り合いに鉢合わせてしまった。こちらと彼らの行動範囲はだいたい被っている……特に今は夏休みだ。そのことをまったく考慮していなかったわけではないが、考えが甘かった……陽奈はすっかり小さくなった綿あめにかぶりつき、天を仰ぐ。


 次の予定は水族館だ。万一、誰かに出くわしてしまったときのために、こちらが誰かを悟られないようにしなければ。もう少しつばの広い帽子を買った方がいいだろうか。サングラスやマスクもありかもしれない。でも、甲斐には「なんだそれ」と笑われるだろうな……


 物思いにふけるうち、気づけば自宅までたどり着いていた。綿あめの棒を口に咥えてスマホを取り出す。リモート操作で鍵を開け、塀の内側のポストを何気なく覗くと、小さな用紙がひらりと一枚、無造作に入れられているのが見えた。その薄赤い色を目にした瞬間、陽奈の口から棒が落ち、足下の芝生に転がった。


 ――書留等ご不在連絡票。


 嫌というほど見知った票だった。こんなものを陽奈に宛てて送ってくるのは世界中にただ一人しかいない。震える手でポストの蓋を開き、中のものを取り出す。差出人は――上島真由子。


 そうか、とようやく気がつく。今日は八月七日、陽奈の誕生日だった。つい忘れがちになってしまうが、母親の現金書留で思い起こされる。自分が生まれてしまった最悪の日を。


 普段の生活費は陽奈用に作られた銀行口座に毎月振り込まれている。だが誕生日だけは、わざわざ現金書留で送られてくるのだ。一応プレゼントなのだから、と向こうは認識しているのだろうが、陽奈にとってはどちらも同じだった。むしろ受け取れなかった時の手続きが面倒なので、やめてほしいくらいだった。


 だが、結局今まで、やめてとは一度も言えていない。

 不在連絡票を乱暴に握りしめ、とぼとぼと家に向かう。玄関を開けるとたちまち煌々と灯りがついた。目に痛いほど白く明るい家。これほど広いのに、自分以外、なんの物音もしない家。お祭りの最中はあれほど音という音に溢れていたのに、あたたかい光にあふれていたのに……

 居間に向かい、ソファにどかりと腰を下ろす。鞄の中身を取り出すこともしないで、横に無造作に置いた。そしてそのまま、目を閉じる。


 だいじょうぶ。いつも通りの日常じゃないか。何をそんなに思うことがあるのだろう。


 もう少ししたら持ち帰ったたこ焼きやポテトを食べよう。それから風呂に入って、今日はもう寝てしまおう。ああ、そういえばこのラグ、汚してしまったんだっけ……買い換えるのはめんどうだ……


   *


 祭りから帰ると、朝子の笑顔に迎えられた。


「おかえりなさい、甲斐」


 妙に甘ったるい笑顔だ。少し寒気を覚えつつ、「ただいま」と返す。


「お祭り、どうだった?」

「楽しかったよ」

「そう。お友だちとは、うまくいっているみたいね。私、一緒に行けなくて残念だわ」


 靴をそろえながら、甲斐はひっそりと顔をしかめる。友だちと祭りに行くと言ったとき、甲斐とふたりで行きたかったのに、などと言い出したので必死に断ったのだが、まだそれをひきずっているらしい。しつこいな、と言いたくなるのをぐっとこらえる。


「ちょっと待って、甲斐」


 そのまま自室へ上がろうとすると、背後から朝子にとめられる。振り返ると、こぼれるような笑顔がそこにあった。


「あのね、ちょっと急なんだけど、お盆休み、どこかに泊まらない? せっかく夏休みなんだし、私もお休みが取れそうなの」


 途端に、背筋がぞっとした。この誘いに亜樹は含まれているのだろうか。いや、この母のことだ、おそらく二人旅かもしれない……身構えていると朝子はリビングにひっこみ、すぐに戻ってきた。見れば旅行のガイドブックを手にしている。


「今からじゃ予約も取りにくいかもしれないけど、頑張って見つけるから。大丈夫よ、私に任せてくれたら……」


 旅行にはしゃぐ乙女のような目つきに、甲斐は一歩、無意識のうちに後ずさっていた。ふと頭上、階段上の方にこちらをじっと見下ろす気配を感じる。視界に入れずともわかった。弟が壁際にひそみ、この会話を聞いているのだ。


「三人で旅行なんて、ひさしぶりだね」


 さりげなく確認してみると、朝子は首を傾げる。


「何を言ってるの。あの子はお留守番よ。これはこの一学期を頑張った甲斐へのご褒美なんだから」


 当然のような返答に、今更ながら唖然としていしまう。わかりきってはいたが……本当に二人旅とは。


「母さんごめん、盆休みなんだけど、実は予定があって」


 ああ、面倒くさい。本当に面倒くさい。どうしても回避したいが、そのためにわざわざ、こんな手を使わなければならないなんて。


「予定……? 私、聞いてたかしら?」

「ああ、結構前に言ってたと思うけど、具体的な日付までは決まってなかったからさ」


 嘘の上手な、男の顔。同じ顔で、同じ人を騙さなければならないとは、なんと皮肉なことだろう。


「友だちと夏は勉強合宿しようって決めてたんだ。ちょうど再来週に。ほら、俺はT大受けるって決めてるし、来年にはもう受験生だから、遊んでばかりもいられないって」

「まあ、勉強合宿?」


 ほんの少し翳っていた笑顔が再び花開く。朝子は「素敵じゃない、素敵じゃない」と繰り返して喜んだ。


「さすがは私の甲斐ね! そう、そうよ、来年は受験生……学生の本分は勉強よね。ごめんなさい私ったら、夏休みだからってつい浮かれてしまって。あなたがそこまで考えているなんて思っていなかったの」

「いや、大丈夫だよ。俺も今日まではゆっくりしてたしさ」


 よかった。母の機嫌を損ねずに予定をねじ曲げられた。大成功だ。勝ち誇りたいのをぐっとこらえて、甲斐は鞄を肩にかけ直す。


「そういうわけだから、ごめん、母さん」

「いいのよいいのよ。応援してるわ。そうそう、そのお友だちは誰なの? ご挨拶しなくっちゃ」

「ああ。……佐藤っていうんだ。クラスメイトで――」

「わかったわ、連絡網を見てみるわね」


 母がポケットからいそいそとスマホを取り出す。保護者向けにつくられた専用のサイトにアクセスしているのだ。それから朝子は甲斐の目の前で佐藤家に電話をかけた。出たのはどうやら母親で、『ああ、甲斐くんのことは息子から常々』と細く高い声が漏れ聞こえてくる。


「ご迷惑をおかけいたしますが、何卒よろしくお願いいたします」


 母親同士の会話を耳にしながら、階段へ向かう。そこには亜樹の姿はすでになかった。上の方からかすかに扉の閉まる音がする。ついさきほどまで会話を聞いていたのだろう。改めて母の言葉を思い出し、言い様のないむかむかした気持ちに襲われる。


 二人旅だと言われて、きっとまた悲しい思いをさせてしまっただろう。本当に最悪な気分だ。家に帰るまでは祭りの余韻が残っていたのに、すべて吹き飛んでしまった。


 部屋に戻ると、スマホが震えた。陽奈か、と思ったら違った。


〈武田ああああ! 俺は来るって信じてたぞおおお!〉


 佐藤だ。吉田と伊藤も入ったグループチャットに、やたらめったら、絵文字をつけて送ってきている。うんざりするテンションの高さに返事は後回しにしようかと思ったが、次のメッセージの文字に目が釘付けになった。


〈期間はもう決めてんだよ。みんなで寝るのは親父が改造した元倉庫の部屋なんだけど、ちゃんと使えるのが十八日からなんだよな。てわけで、二泊三日、よろしくな! 武田は宿題全部もってくるのを忘れずに! 何時に来てもいいからな!〉


 十八日から、二泊三日。

 嫌な予感がして、甲斐はカレンダーを開く。八月二十日は陽奈と水族館の予定が入っていた。だめだ。甲斐は慌ててチャット欄を開けた。


 ――ごめん佐藤、やっぱり


 打ちかけた指が、ぴたりと硬直する。母の甘ったるい強烈な笑みが脳裏に浮かび、途端に胸のむかむかが喉元までせり上がってきた。


『お盆休み、どこかに泊まらない?』『これは甲斐へのご褒美なのよ』――とろけるような声が幾度となく再生され、指先が冷たくなっていく。頭が氷水に浸けられたようになり、全身が寒々しく凍りつく。


〈おっ武田も来るのか?〉

〈やりい。これで宿題しなくていいや。ゲームしよ〉

〈ひっでえな、俺は一応ちゃんとやったぞ。わけわからんとこ飛ばしてるけど〉

〈それほとんどやってねんじゃね? おまえアホじゃん 笑〉


 画面の上では吉田と伊藤も加わって、会話がどんどん流れていく。それを読むでもなく、ただ眺めながら、甲斐は唇を噛んだ。血が薄く滲むほど、噛みしめていた。


   *


 自室のソファでスマホをいじっていると、ぶぶぶ、と手の中で短く震えた。今まさに白熱しているパズル画面の上部に、送られてきたチャットの一部が見える。


〈ごめん、上島さん〉


 甲斐だ。何事か、とパズルを閉じる。チャット画面を立ち上げ、甲斐の言葉に目を通す。


 ――え。


 目が見開かれる。半開きの唇から、浅く乾いた吐息が漏れた。


〈本当にごめん。水族館、行けなくなった。理由は、うちの母親で〉


 そこで一度言葉が途切れ、相手が現在文字を打ち込んでいるのだというマークが画面下に浮き出ている。それが結構長いので、甲斐が懸命に長い事情を書き表してくれているのだろうとわかった。


〈いい、もういいから〉


 母親、という文字を見た瞬間、諦めはついていた。今日、海岸で散々聞いたではないか。彼が今までどれほど苦しめられてきたのかを。


〈しかたないことなんでしょ。じじょうはきかない。すきにして〉

〈でも、上島さんがせっかく楽しみに……〉


 ――上島さんが、か。


 自嘲気味な笑みが口元に浮かんだ。そう、彼はそういうひとなのだ。わかっているはずなのに。


〈わたしはべつにどうでもいい。どうせもうすぐ死ぬんだし〉


 それだけ打って、画面を閉じる。真っ暗になったスマホを膝において、陽奈は顔を俯かせた。


「べつにいい。もうすぐ、死ぬ……」


 目を上げると、机の上に一枚、紙が置かれている。あの日甲斐が置いていった自殺の計画書。その裏面がこちらに向けられている。〈遊園地〉の横に小さくチェックマークが入っていた。あとから陽奈が付け足したものだ。その下には、水族館とプラネタリウムが連なっている。


 ――もう、ふたつとも行くことはないのか。


 小学生のとき、水族館も科学館も低学年遠足の場所になっていたが、どちらも陽奈は欠席していた。そういう日に限って母親が自分の仕事場に陽奈を連れて行きたがったからだ。陽奈に芸能界への興味を持ってもらうために。


 自身は記憶にないが、陽奈は生まれてすぐに赤ちゃんモデルに登録され、テレビや雑誌に使われていたらしい。物心つくと、母は口癖のように言っていた。


『せっかくあたしに似て、美人にキレイに産んであげたんだから』


 いずれ我が子を芸能界デビューさせ、自分はその専属スタイリストとして、親子揃って全世界に羽ばたき有名になるのが夢なのだと、何度も何度も言い聞かせられてきた。


 だが陽奈は、その話にまったく関心がなかった。テレビに出るなんてとんでもない。人前に出て話したり演じたりするなんて、考えただけで目眩がするほど嫌だった。そう母に訴えても、彼女はきいてくれなかった。仕事場に連れていき、きらきらしたタレントや女優たちが自分の手で美しくメイクされ、華々しくカメラに撮られているところを見せれば、いずれ娘もテレビに出たいと言ってくれるに違いない、と考えていたのだ。


 初め陽奈は、母の仕事が遠い時に家でひとりぼっちになるのが嫌で、いやいやながらもついていっていた。ただでさえ多忙な母と少しでも一緒にいたいという一心だったのだ。だが、あまりに母の期待が強すぎて、八歳なるとき、とうとう母の願いを拒絶した。仕事場に連れて行こうとした母の手を振り払い、叫んだのだ。


 ――わたしは、テレビになんか出たくない! ただお母さんといっしょにいたいだけなのに、それじゃだめなの?


 あのときの母の失望の顔は、今もなお脳裏に、胸の奥に、魂に深く焼きつけられている。ショックや怒り、悲しみなどではなかった。娘に対するすべての感情が抜け落ちたように、すっと光の失せた冷たい眼をしていた。


 陽奈はもう、母にとって必要ない存在になってしまったのだ。


 あの時の記憶と感情が甦りそうになって、陽奈は慌てて力いっぱい首を振った。むち打ち症になりそうなほど振り続け、膝頭を拳で殴りつける。どうにかして気が逸れたところで、陽奈は浅く息をしながら、もう一度机の上を見た。用紙をこちらに引き寄せる。


 遊園地。水族館。プラネタリウム。均整のとれた生真面目な甲斐の字を眺めているだけで、目尻に何かが込み上げそうになる。


 死ぬまでに、一度巡っておきたかった場所。甲斐に訊ねられるまで、はっきりと自覚したことはなかった。ただこの世からいなくなること。派手で凄惨な娘の自殺は、きっと母の仕事にも影響を及ぼすに違いないと、そればかりを考えて生きていた。自分をいじめる奴らに消えないトラウマを植えつけるなど、おまけのようなものだった。そのおまけのおかげで、死に場所は学校の屋上になったのだが。


 もう行けないとわかって初めて、自分がどれほど楽しみにしていたのかを思い知らされる。水族館などひとりで行くことは簡単だ。ひとりで行けないなんて嘘だ。ただ、遊園地での甲斐との時間が忘れられなくて。ふたりで見た花火が、海が、あまりに綺麗で。彼がいなければ、すべて意味などないと、思ってしまったのだ。

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