第12話 フェアじゃないから

 花火の打ち上げは佳境に入っていた。ありったけの花火の玉がこれでもかと空に放たれ、夜の闇が眩しい光に覆われている。その光の影を頬に受けながら、陽奈がおもむろに口を開いた。


「そういえば、よかったの」


 何が、と問い返すと、彼女は花火を見上げたまま続けた。


「お祭り、いろんなひとから誘われてたんでしょ、どうせ」


 ああ、と甲斐が声を漏らす。実際その通りで、クラスのチャットアプリで「夏祭り行く人募集!」のグループに勝手に入れられたり、佐藤や吉田、伊藤のグループでも「甲斐を連れてだれかナンパしに行こうぜ」などと品のない誘いを受けていた。


「まあ、そうだけど。断ってるから」


 陽奈がわずかに眉をひそめる。


「前から思ってたけど……あなた、友達いないでしょ」


 思わず隣に目をやった。陽奈はまだ上空を見上げている。


「学校で常に誰かが連れそっているし、人気もあるからあちこち声はかかるけど、ちゃんと友達だと思ってる人はだれもいない」

「……ああ、うん」


 あっさり認めてやる。少しも相違がないからだ。


「たぶん、中学のときくらいから、友達だと思える奴はいなかった」

「ふうん」


 陽奈が投げ出した足を少し広げて、戻す。さらさらと砂の動く音がした。


「友達、いらないの」

「いらないというか……」


 ここでこんな話をしてもいいのだろうか。迷いながらもう一度眼をやると、陽奈の左の瞳と目が合った。――なぜか、すぐに目をそらしてしまった。


「たぶんだれも……これまでもこれからも、俺自身を見る奴は、いないと思うから」

「あなた自身?」

「そう。中身」


 スニーカーの先をぼんやり眺める。


「こんなこと自分じゃ言いたくないけど、俺は誰からも好かれる。好かれるというか、周りの連中が勝手に惹かれて、寄ってくる。……何にとは、言いにくいけどさ」

「……うん」


 改めて、陽奈の視線を頬に感じる。

 甲斐自身、よくわかっている。この顔は人目を引く。端正でほれぼれするような造形をしている。だがそれは、憎々しい一人の男の血から生まれた産物だ。望んで手に入れたものではない。むしろ、要らなかった。それは甲斐に、ただ世界の現実を無慈悲に突きつけるものだったからだ。


 人は見てくれだけで単純に心を動かしてしまう生き物なのだという、悲しい現実を。


「上島さんも見たと思うけど、遊園地のあのひとは、二人目の父さんだ」


 ぽつりと呟いた声は、ひどく乾いていた。


「五年前に離婚して、今はもう新しい家庭があるけど。その前にもう一人、父親がいた」

「それがあなたの、本当の父親」

「そう」


 皮肉めいた笑みが口元に浮かぶ。どんなに記憶から消したくても忘れられない顔。いつも作りもののような笑みをたたえていた、冷たい男の横顔。


「母さんは、そいつと同じ会社で事務をしていた。で、その見た目に惹かれて、言われるがままの都合のいい女になって、いつの間にか結婚していた」


『おまえを選んだのは、貞淑な女がベストだと思っていたからだ。それが間違いだった。もう正直、飽きた』


 その言葉を聞いたのは、甲斐がまだ小学校に上がる前だった。夜中、リビングの口論の声で目を覚まし、強い不安に突き動かされて自室を出た。そのとき、冷徹な声が耳に飛び込んできたのだ。言葉の意味はまったくわからなかったが、その嫌な響きは胸に深く刻み込まれ、いつまでも、どうしても消えなかった。

 おかげで、成長した今ならわかる。


「母さんは、自分に飽きて不倫して出て行った男を――最低な、クズ野郎のことを――今でも、好きなままでいる。馬鹿だ。本当に馬鹿だ。その面影を今でも追いかけて……どんどん心がこじれていって……父さんを……弟を……そして俺、を……」


 息が詰まる。肺が苦しい。苦いものが喉までこみあげかけて、喘ぐように咳き込んだ。生理的な涙が目尻ににじむ。


「もう、いい」


 す、と柔らかな感触が背に触れた。陽奈の手だ。薄くもろいガラスを撫でるように、そっと優しく背を滑る。


「いいから」


 短いその声は、圧迫された胸に染み広がって、解きほぐすようだった。詰まった息を荒々しく吐き出しながら、合間に「ごめん」と繰り返す。


「だいじょうぶ」


 生温かなしずくが、顎から腕にしたたり落ちる。慌てて、「これは、咳が……」と弁解しかけたが、陽奈の「だいじょうぶだから」に呑み込まれた。


 息を整えているあいだも、陽奈の手が背中から離れることはなかった。夏なのに冷えた手……だが、彼女の触れたところは、じわりとあたたかい。


「おたがい、ひどい親をもってる」


 まだ背に触れたまま、陽奈がぼそりと言った。「あなたの母親は、前の男。こっちの母親は、夢」


 甲斐は濡れた目元をぬぐい、陽奈を見た。彼女の目はこちらを見ていない。自分の足の指先をじっと睨んでいる。


「どっちも、家とか家族とかより、目先の欲に夢中になってる。だからわたしたちは、置いてけぼり」

「……それって」


 ごくりと唾を呑む。彼女がどうして今になって、急に自分の事情を話そうとしているのか、わからない。陽奈は甲斐の方を見、その心情を察したように微かな笑みを浮かべた。


「あなただけ話したら、フェアじゃないから」


 ――『俺だけ、君の……上島さんの事情を垣間見ちゃったから、フェアじゃないと思って』


 初めて行った陽奈の家で、あの日甲斐が言った言葉。それが今の、彼女の声に重なる。


「うちは元々父親がいなくて。死んだとかじゃなくて、そもそも結婚してない。母親は仕事と、自分の夢に夢中だったから。そしてわたしは、その夢のための道具だった」

「夢のための、道具?」

「そう」


 どこか諦めたような暗い笑みが浮かぶ。夢とはなんなのか、道具ということは利用されていたのか――事情がうまく呑み込めず、疑問を口にしかけた、そのときだった。


「あれーっ?」


 間の抜けたような、すっとんきょうな声が突如上から降ってきた。ふたりは同時に顔を上げる。海岸の上の鉄柵ごしにこちらをのぞき込む人影があった。


「武田? 武田じゃね? それと、そっちは……」


 甲斐ははじかれたように立ち上がる。陽奈に「ちょっと待ってて」と告げるやいなや砂浜を蹴り、あっという間に石段を駆け上がっていった。


「おー、武田あ!」呑気に手を振るのは佐藤である。その場で頭を抱えたくなった。

「なんで、おまえがここに……」

「だってお祭りのとこ、トイレすげー混んでんだもん。で、外を探したらあるかもって聞いたから……」

「たぶん、このあたりにはなかったと思うけど」

「マジで? うわーどうしよ。食ってた焼きそばがひっくりかえってさ、シャツにおもいっきりべったりいっちゃって」


 佐藤がシャツの裾をひっぱり、「ほらほら」と見せてくる。見ようにも、この暗さではよくわからない。


「ていうかさ、え、何、つきあってんの?」


 唐突に、わざとらしく声を落とす。


「なにが」

「とぼけるなよ」佐藤が鉄柵の下をちらりと見やる。「あれ、D組の上島陽奈だろ」


 甲斐はぎくりと身じろぎした。

 ここから下までは少し距離がある上に、陽奈は今、帽子をかぶっている。それなのに誰か言い当てるとは……


「いやさあ、去年俺、おんなじクラスだったんだよ。最初はすげー地味子ちゃんだなーって思ってたんだけど、たまたま日直が一緒になったとき、俺日誌書くの忘れちゃってて、やべえってなって慌てて教室戻ったらさ、あの子がひとりで残って日誌書いてたの。でさ、そのときこう、西日っていうの? ちょっとだけ太陽が傾いててさ、夕陽ってほどじゃないけど眩しくって、あの子の顔がぱーって照らされて……」


 佐藤はそこでたっぷり間を開け、ためにためた言葉を放った。


「なんかすっっっっげえ、かわいかったんだよな。俯きがちだからわかんなかったけど、肌白いしキレイでさ、睫毛も長くてさ、日差しに当たってきらきらしてたの。まじで俺、そのとき射貫かれちゃったっていうか」

「……好きなのか?」


 自分でもわかるほど、低くかさついた声だった。佐藤の口から陽奈の話を聞くなんてこと自体驚きだが、それ以上に胸の内をちりちりと焦がすような胸騒ぎの方が強かった。

 これは一体、なんだろう。


「さあ?」


 佐藤が悪戯っぽく口角を上げる。


「つきあうとかはその時は考えなかったんだよな。でも、今にして思えば惜しいことしたなって……だって絶対、そのときはフリーだったもん。っていうか武田、ちゃんと女子とつきあうんだな。死ぬほどモテるくせに全然そういう話きかねえから、まさかそっちの趣味なんじゃないかって伊藤たちと噂してたくらいで」

「……いや別に、つきあってはない」

「は?」


 佐藤はもう一度、鉄柵の下を見やり、甲斐を見た。


「いやいやいや。夏祭り、花火、夜の海辺、ふたりっきり! これだけ揃っててつきあってないってことある?」

「実際、つきあってないんだから仕方ないだろ」

「じゃあなんでこんなとこにふたりでいるんだよ!」


 咄嗟に返す言葉が思い浮かばず、苦しまぎれに目線を逸らす。


「……たまたまだ」

「ぜっっってえ嘘じゃん!」


 佐藤は頑として信じない。どうしたものか、途方に暮れた。ともかく、このまま陽奈との関係性が暴かれるのだけは避けなければならなかった。秘密の計画が台無しになってしまう危険があるからだ。


「佐藤、すまない……今日見たことは誰にも言わないでくれないか」


 佐藤はふつりと押し黙り、甲斐を見る。まるでこちらの心の内を探るような眼差しだった。


「なんで? つきあってねえなら、別にいいんじゃねえの」

「いや……俺たちは本当になんでもないんだ。ただ、そう……親同士が、ちょっと知り合いでさ。幼なじみってわけではないけど、まあ、悩みとかをなんとなく言い合うくらいの仲ではあるんだ。でも、上島さんはそういうの、周りには絶対に悟られたくないんだ。だから……」


 我ながら腹の底が寒くなるような嘘話だ。佐藤はじっと甲斐の目を見つめ、はあ、とため息をついた。


「そうガチな感じで言われるとなあ……まあ、いいか。おっけー、内緒にしといてやるよ」

「すまない、助かる」

「ただし!」


 そこで佐藤がびしっと人差し指をつきつける。


「再来週、盆休みじゃん? 実はさ、俺の家で『超・勉強合宿』をやりたいなーって思ってたとこなんだよ」

「勉強……合宿?」


 呆気にとられて聞き返してしまう。およそ、佐藤の口からは出てこないはずの言葉だった。彼の存在は勉強とはほど遠い位置にある。


「なんだよその反応、ひっでえな。俺だって自分の未来を真剣に憂いてるんだぜ」

「ああ、いや……そうか、それはいいことだ」


 急な話ではあるが、彼の心変わりは素直に喜ばしいことである。


「合宿ってことは、何人かで泊まり込むのか?」

「ああ。今んとこ吉田と伊藤は絶対で、あとは希望者がいれば、泊まれるだけ入れてやるつもり。で、武田にも来てほしいんだよね」

「俺も?」


 ぎょっとする甲斐に、佐藤は「もちろん!」と勢いよくうなずく。


「てか、武田が来ねえと始まらねえんだよ。俺はもう再来週に宿題全部やるつもりでいるからさ」

「……ちょっと、待て」


 がくりと肩が落ちそうになる。つまるところ、勉強合宿とは名ばかりで、実際は甲斐の宿題が目当てなのだ。確かに中学時代、散々せがまれて見せてやったことは何度かあるが、それが泊まり込みになり、人まで増やしてくるとは。


 おそらく彼のことだから、余った時間でゲームなり外をぶらつくなりして遊ぼうという魂胆なのだろう。思い切り夏休みを最後まで楽しもうという、その気概だけは素晴らしいが……


「……俺は遠慮しとく」

「えー、なんでだよ、来てくれよお」

「ちょっと、再来週の予定がわからないから……」


 これは本当だ。ただでさえ外出には母親の許可をとらなければならないのに、その上外泊なんて。納得してもらうためにどれほど機嫌をとらなければならないか、考えるだけでうんざりする。今日の夏祭りだって、友達と行くのだと言うだけでとても苦労したのだ。一緒に行くと言ってきかなかったのだから。


「武田って、いっつもそうだよな」


 拗ねたような口調で佐藤が呟く。


「なんか、予定が予定がって。そんなに忙しいのかよ」

「いや……」


 元々、クラスメイトたちと遊びたいと思ったことは微塵もない。だがそれ以前に厄介な母親が大きな壁であり、足枷だった。もちろん佐藤のみならず、誰にもこんな事情は話していない。後にも先にも、きっと陽奈だけだ。


「まあいいさ。来ないんなら俺、上島さんに告ろっかなあ」

「えっ」


 反射的に、上ずったような声が喉から飛び出した。

 見れば、佐藤の表情にはいつものひょうきんさが欠片も見当たらない。それがますます、不穏だった。


「なんでそこで、そういう話になるんだよ」

「別にいいだろ? おまえら、つきあってねえならさ」

「いや……それはそうだけど、なんでそこに俺の参加がかかってるんだよ。関係ないだろ」

「いや、こう言ったら、武田はどう出るかなって思ってさ」


 ぐ、と言葉に詰まる。佐藤が陽奈に想いを伝えるのは勝手だ。そこに関与するつもりはない。こちらはただ参加を断ればいいのだ。


 そもそも、陽奈はもうすぐ死ぬ。甲斐と共に。どのみち佐藤の行動は無駄に終わるのだ。そう、わかりきっていることなのに――甲斐は即答できなかった。


「なんだ。そんな顔、するんじゃん」


 はっと、甲斐は無意識に頬をさわった。自分は今、どんな表情をしていたのだろう。佐藤は鉄柵に腰をもたせかけて、目を細めていた。


「いっつもさ、無表情ってわけじゃないけど、なんていうか……本心を隠してる感じがあったからさ。でもなんか、安心したわ」


 佐藤は夜空を見上げ、うんと伸びをした。


「別に明日明後日に告るとか、そんなつもりはねえよ。ただまあ、前から気になってたのは確かだから。……てわけで、武田は『超・勉強合宿』の件、返事くれよな」

「お、おい」


 佐藤はくるりと背を向け、足早に歩いていってしまう。遠ざかりながらシャツの裾を引っ張り、「やっべえ、すっげえシミになってるう」と情けない声をあげていた。

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