第11話 祭りと、花火と、宝石の海

 神社の鳥居に続く道すがら、すでに屋台がちらほらと出ていて、にぎやかな看板や光り輝く電灯が祭りの陽気な空気をかもしだしていた。


「からあげ」


 おもむろに陽奈が呟く。


「たい焼き」


「焼きそば」


「全部指差さなくてもわかるから」


 甲斐が苦笑気味に制すると、指差す手は下ろしたが、ますます眼をしばたたかせながら辺りをくまなく見回している。


「あ、チョコバナナ……」


 ふらふらと屋台の方まで行きかけるので、「おい」と慌てて声をかける。


「神社の中はもっといろいろあるし、こんなところで急いで食べなくたって」

「でも」


 ものすごく名残惜しそうな陽奈の視線に、店番の男性も気がついたらしい。「どうだい? おいしいよ!」と 笑顔で手を振られてしまった。


 仕方がない。甲斐は鞄から財布を取り出して屋台の方へ歩いていく。


「すみません、一本――」

「三本ください」


 横から白い手がずいと突き出て、男性に千円札を渡す。彼はちょっと戸惑い気味に「ま、まいどあり」と言った。


「初っぱなから飛ばしすぎじゃないか」


 歩きながら苦言を呈する。両手にチョコバナナを抱えてほくほくと頬張る陽奈の耳には、もちろん届いていない。相変わらず表情の変化は薄いのだが、その全身からは幸福感がにじみ出ている。


「それに、今日は俺がおごるんだ。じゃなきゃお詫びにならない」

「ほんはお、ほおへもひい」


 そんなの、どうでもいい――彼女の返答にため息がこぼれる。


「あの、上島さん、家での俺の話、きいてた?」

「うん」


 ごくりと呑み込み、唇についたチョコをぺろりと舐める。その眼は次なる屋台へと移ろい、せわしなく動いていた。


「きいてたなら、次からは俺に――」

「わたし、今お腹すいてるから、全部出してたらきりがない」


 と、こちらを見もせずに素っ気なく答える。


「それに、ここに来られただけで、もうじゅうぶんだから」


 それだけ言い置いて、残りのチョコバナナにかじりつく。それ以上同じ問答をする気はなさそうだった。

 確かに、甲斐のふところ事情は陽奈の分厚い財布に比べると心もとない。夏休みというだけあってただでさえ出費はかさみ、少しずつ蓄えていたお小遣いも日に日に減ってきている。だがそれでも、譲れない思いがある。


 ――次こそは、彼女よりはやくお金を出そう。


 そう心に決めていたのに、その決意は全く叶わなかった。


「つぶあんのたい焼き二つと、クリームのたい焼き一つください」


 陽奈の注文する数は毎回まばらで、小銭を用意しようにも事前の予測が成り立たない。加えて、陽奈は金額をきけば迷わずお札を渡してしまう。甲斐のように端数の小銭をいちいち計算したりしない。おかげで釣り銭がたまりにたまって、彼女の安っぽいマジックテープの財布はぱんぱんにふくれあがっていた。


「疲れてる?」


 石造りの鳥居の前で、陽奈がこちらを振り返る。甲斐は「いやべつに」と返したものの、内心では肩を落としていた。どうも思うように事が運ばない。どうしたものかと考えていると、ふいに眼前で陽奈が足を止めた。


「すごい、人」


 甲斐も一緒に立ち止まる。鳥居の向こうはさらなる灯火の群れと人だかりであふれかえっていた。学生と思しき浴衣姿のカップル、子連れの夫婦、お爺ちゃんと孫――この町に住むありとあらゆる人々がここに集まっている。夏祭りというイベントを楽しむために。


 鳥居をくぐる前から陽奈は足を竦ませている。怖がっているのだろうかと顔色を窺ったが、どうも違うようだった。初めての夏祭りの熱気に気圧されてはいるが、同時に強い好奇心が瞳の奥に揺らめいている。


「行こう。上島さん」


 甲斐が一歩足を踏み出し、鳥居をくぐる。陽奈も、おずおずとそれに続いた。


 奥へと続く道なりに、ずらりとひしめく屋台の看板や灯籠の眩しい光。焼き物からたちこめる白い煙と芳ばしいにおいが夜空に舞い上がり、人々の笑い声に交じって広がる。


「ほら、屋台、すごい数だろ」言いながら、甲斐が振り返る。


 陽奈の左の瞳が、色とりどりの灯りを映して照り輝いていた。薄らと赤が差し、ビー玉のように澄んだきらめきを放っている。


「うん」


 ふいに――甲斐はどきりとした。彼女の表情や声色は普段と微塵も変わりないのに、なぜだろう、今まで見たこともないほど、特別綺麗に見えたのだ。


 すっと目線を外し、正面に向き直る。錯覚にしてはあまりにも強烈な一瞬だった。心臓がとくとくと音を立てている。よくわからない――少し経てば、収まるだろうか。


「あれ食べたい」


 陽奈はこちらのことなどお構いなしに、もう歩き出している。甲斐も慌てて後を追う。


 その後は、陽奈の「あれ食べたい」に振り回されながら神社の敷地内を巡ることになった。遊園地のときとやっていることは変わらない。乗り物か、食べ物かの違いだけで。


「兄ちゃん!」


 ふいに無邪気な声が耳に飛び込んできて、思わず後ろを振り返った。――そんなはずはないとわかっているのに、無意識に息がとまりかけていた。


 今しがた通り過ぎた金魚すくいの屋台に二人の子どもが座り込んでいる。互いに浴衣の袖をめくり、白い薄紙を張ったポイを持って。


「くっそー、なんで俺のだけ破れるんだよお!」


 弟と思しき少年が悔しげな声を上げる。


「はっはっは、今年も俺が勝ったな」


 愉快そうな笑い声。兄のものだ。


 甲斐はその場にたたずみ、その光景を見つめていた。周囲のざわめきがさざなみのように遠ざかっていく。研ぎ澄まされた無音の中、眼鏡をかけた小さな少年が目の前に現れる。白い歯を覗かせて、達成感に満ちた笑みを満面に浮かべて。


『兄ちゃん、一匹もとってないじゃん!』

『ははは、甲斐がすくおうとすると、なぜかみんな逃げるんだよなあ』


 懐かしい声が胸に染みわたり、鈍い痛みが広がった。――亜樹。――父さん。手を伸ばしてそう呼びかけかけたそのとき、


「武田くん」


 澄んだ呼び声が柔らかく胸をたたく。瞬間、閉ざされていた音という音が一斉に耳に流れ込んできた。


「武田くん」


 もう一度呼ばれて、振り返る。たこ焼きのパックを抱えた陽奈が立って、こちらを見上げていた。


「こっちに来て、手伝って」


 見れば、すぐそこにあるたこ焼き屋台の青年が困惑顔で立っている。その腕には、新たなパックが二つ。


「持ちきれないから」


 どうやら甲斐は彼女の腕からあふれた食べ物を持たせるために呼ばれたらしい。思わず、ふっと息をついてしまう。

 無事に二つとも受け取ると、陽奈の手がすっと伸びて、割り箸を一膳、上に載せられた。


「それ、てきとうに食べて」


 予想外の言葉に面食らう。


「君が食べるんじゃなくて?」

「そのつもりで買ったけど、さすがに冷めると思って。でも、全部食べたら怒る」


 なんだよそれ、と笑いながら、ふと気づく。

 もしかしたら、彼女なりのささやかなお詫びなのかもしれない。遊園地を黙って抜け出たことなのか、右眼の騒動のことかはわからないが。


「じゃあありがたくいただくけど……その代わり次に何かおごらせてくれ」

「いい。めんどう」

「面倒ってなんだよ。一方的におごられる身にもなってくれ。俺、一応男なのに」


 そういえばそうだった、などと小憎らしいことを言う。だがそれさえも、彼女なりの不器用な気遣いなのかもしれない。

 たこ焼きを食べながらぶらぶらと歩いていると、ふいに陽奈が前方を指した。


「あれ、あそこ、なに」


 つられて顔を上げる。見れば前方、広場に面した石の階段に人が集まりだしていた。


「いったい、何がはじまるの」

「ああそうか、もうすぐ花火の時間だから」


 花火? と聞き返す陽奈にうなずきながら、甲斐は思い出していた。

 以前、父と亜樹と共に来たときも、あの石段に並んで花火を見たのだ。あまりの人だかりに、亜樹が驚いて涙ぐんでいた……

 再び浮かびかけたセピア色の記憶を振り払い、陽奈を見下ろした。


「見たこと、あるか?」


 訊ねると、意外にも、陽奈は首を縦に振った。


「一度だけ。家の窓から見えた」

「それからは?」

「次の年に背の高いマンションが建ったせいで、ぜんぜん見えなくなった」

「それは悲しいな」


 実際、甲斐の家の窓からも見えていたのが、正面に立ったビルに遮られてしまった。方向的には違う建物だろうが、互いに似た経験をしていたらしい。


「じゃあ、ちょうどいい。今度は近くから、ちゃんと見よう」


 ふたり一緒に石段の方へ向かう。だが、他の人びとも同じ考えだったようで、たちまち眼前が人だかりにふさがれてしまった。

 まずいな、と焦り、周囲を見渡す。花火間近になると混雑することはもちろんわかっていたが、これほどだっただろうか。気づけば四方八方が人の壁で封じられ、身動きが取れなくなっていた。


「ごめん、俺も久しぶりだから、ここまでになると思ってなかった――」


 と弁解しかけたが、ふと見ると隣に陽奈の姿がない。


「上島さん?」


 胸底が冷えるような焦燥に包まれる。慌てて周囲を見渡した。幸い、甲斐ほどの身長の者はそれほどいない。だが陽奈は。


 冷や汗を滲ませながら人混みをかきわけていると、その隙間からかろうじて覗く白い手首を見つけた。

 特徴的なアクセサリーをつけているわけでもない。派手な浴衣の袖があるわけでもない。ただつるりと白い、細い手首に向かって、必死に手を伸ばす。人の流れに逆らいながらその手先を掴み、ぐいと引き寄せた。


「上島さん!」


 人の肩や背の間に小さく挟まれた陽奈の顔が、必死にこちらを見上げていた。改めて、掴んだ手先から手首にしっかりと持ちなおす。


「こっち。がんばってついてきて」


 陽奈はわけもわからないまま、甲斐の導くままに人の波のなかを泳いだ。途中、何度も引き離されそうになって、もう一方の手で甲斐の手首を掴む。自分よりもいくぶん陽に焼けて、硬く頑丈な手首を。

 やがて大きな圧に押し出されるようにして、ふたりは人混みの壁から勢いよく抜け出した。その拍子に、細い陽奈の身体が数歩、よろめく。


「大丈夫か?」


 気遣うような甲斐の声に、陽奈はやっとの思いで彼を見上げた。


「……うん」


 うなずきながら、はっと気がつき、慌てて甲斐の手首から右手を離す。甲斐も「ああ、ごめん」とすぐさま手を離した。


「えっと……もう少し、あっちだから」


 別に悪いことをしたわけでもないのに、なんとなくばつの悪い思いで背を向ける。


 この辺りは神社の敷地外で、ぽつりぽつりと古びた民家も建っていた。町は開発され煌々と明るく、常に新しい風が吹き抜けているが、こういう場所もまだ残っているのだ。


 民家の間の狭い路地を通り抜け、甲斐は迷わず歩いていく。確信があった。昔、亜樹が人の多さに怯えて泣き出したとき、父が連れ出してくれたのだ。


「ついた」


 甲斐が立ち止まる。陽奈も足をとめた。ざあ、と波の押し寄せる音が耳を撫でる。道路を挟んだ目の前には色の落ちた鉄柵があり、その下には暗い砂浜と夜空の色に染まった海が広がっていた。


「ちょっと歩かせて、ごめんな。この辺りならひと気もないし、見やすいかと思って」


 そのまま、道路を渡る。遠く神社の方からは人のざわめく声や、祭り囃子の音がにぎやかに鳴っているが、この辺りは暗く、静かだった。


「昔、父さんが教えてくれてさ。――ほら、上島さんも見た」


 陽奈は、ああ、と小さく声を上げる。遊園地で出会った父裕一を思い出しているのだ。


 同じ考えの者もいたようで、遠くにちらほらと人影がみえる。飲み物を片手に鉄柵にもたれかかりながら花火を待っているのだ。


「海のそばがいい」


 唐突に、陽奈が口にした。甲斐はわずかに眉を寄せる。


「下に降りるのか?」

「うん」

「壁が高くて見えにくいと思うけど……」

「それでもいい。海辺がいい」


 そう言って聞かないので、甲斐は手近な石段を探しあてた。


「暗いから、足もとに気をつけて」と、スマホで照らしてやる。陽奈はおぼつかない足取りでゆっくりと降りていった。波の音が近くなり、潮のにおいが夜の熱気に交じってじっとりと強く香る。


「すごい。――海」


 ざざざ、と波が押し寄せる。陽奈は階段から降り立つと勇んで足を踏み出したが、その先の砂浜にたちまちスニーカーの底が呑み込まれ、びっくりしたように足を引き抜いた。


「そこから先は砂浜だから、気をつけないと」と、慌ててスマホの光を向けたが、陽奈は迷いなくその場で靴を脱ぎ出した。


「え――」


 止める間もなく靴下までぽいぽい脱ぎ捨て、裸足のまま砂浜へ踏み出す。柔らかでくすぐったいような砂の感触を確かめながら、一歩一歩、歩いていく。


 やがて砂がしっとりと冷たくなり、次いで海の水が足首に覆いかぶさった。あっと驚く間もなく、波は引いていく。


「つめたい……」

「それ以上行っちゃだめだ」


 彼女の行動の危なっかしさに躍起になって追いつくと、陽奈がくるりと振り返った。何かを言いかけるように、薄く唇を開く。


 その瞬間、遠く頭上でひゅるひゅると細く甲高い音がした。ふたりははっと顔を上向ける。白い光がいくつもの筋となって夜の闇を駆け上り、次の瞬間、盛大にはじけ飛んだ。


 胸を震わすような破裂音が響き渡る。黄色がかった閃光がちりぢりになり、星屑のように砕けて霧散していく。


「もう始まったか」


 呟く甲斐のそばで、陽奈はぽかんと口を開けていた。眼帯のない左眼を精いっぱいに見開いて、まるで、落ちてくる光の屑を受け止めようとするかのように。


 次々に花火が打ち上げられるなか、陽奈はなかなか声を発さない。しばらくしてようやく「大きい」とつぶやいた。彼女はいつも感極まると、感じたことをぽつんと端的にこぼす癖がある。


「あっ――」


 ぱんぱんと花火の破裂音が次々に鳴り響くなかで、陽奈がまたしても声を上げる。声は少し後ろからした。いつのまにか場所を動いていたらしい。甲斐もつられて振り返った。そして、目を見張った。


 陽奈は空を見ていなかった。海に向かって足を突き出し、押し寄せる波間に踏み込んでいく。一面に広がる宵の水面に、赤や白、青や緑……色とりどりの光が浮かび上がって、箱いっぱいの宝石をひっくり返してちりばめたように、きらきらと輝いていた。


「きれい……きれい」


 澱みない澄んだ声が無邪気に響く。ぱちゃぱちゃと水音を立てながら、いつの間にか膝下まで海に浸かっている。


「上島さん――」


 思わず手を伸ばしかけると、陽奈がこちらを振り返った。

 夜空に打ち上がる巨大な花火の光の影が左の瞳を照らしだし、一瞬、玉虫色に輝いた。きらめく宝石の海を背に湛えた彼女の姿に、出かけた言葉がうち消える。


「なに?」


 その声も、いつものつっけんどんな様子はなく、柔らかで、あたたかだった。血の通った声だった。


「いや……」


 情けないほど言葉が出てこない。陽奈は薄く笑みをたたえて、水の中からこちらに上がってきた。


「どうせ、それ以上行ったら危ない、とか言うんでしょ」


 と言って、乾いた砂浜に腰を下ろし、濡れた足を伸ばした。そこで甲斐はようやく、我に返った。


「ああ――そう。そうだよ。ほんとう、危ないことはやめてくれ、心臓に悪いから」

「うん……」


 わずかな小休止を挟んで、再び光が空に放たれる。その様子を眺めながら、陽奈は緩やかに口にした。


「こんなところで先に死んだら、計画が台無しだしね」


 ――計画。


 ふいに、重い現実が頭を打ちつける。

 そう。自分が陽奈をここに連れてきたのは、詫びもあるが、死ぬ前の思い出をつくるためだった。遊園地も、花火も、その先も。思いついて書き留めていることすべてが、死の計画につながっている。


 忘れたわけではもちろんなかった。片時も、自分の自殺の決意を揺るがせたことはない。だが、つい先ほど陽奈の姿を目にした時は――はたして、どうだったのだろう。いや、それ以前に、彼女と関わる時間すべてが、どこか別世界のことのように浮いてはいなかっただろうか。死に向かわせる現実から、眼をそむけさせるように……


「そう。計画があるだろ」


 自分でも驚くほど静謐な声で、囁くように言う。


「だから、こんなところで事故を起こさないでくれ。先に君に死なれたら、俺の自殺が台無しだ」

「それはわたしも」


 つい先ほどまで危なっかしいことをしていたのを忘れたように、陽奈も返してくる。はは、と乾いた笑い声をあげて、甲斐も隣に座った。砂浜の感触は思ったより温かかった。

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