第9話 遊園地 二

「そろそろ、昼飯にしないか」


 さんざん連れ回され、へとへとになった甲斐が訴える。時刻は昼の十一時を回っていた。陽奈はくるりと振り返り、そっと自分の腹に手をやる。


「……たしかに、そうしたほうがいいかも」


 地図を開く。


「食べられる場所は、どこ」

「いくつかあるけど、レストランは人でいっぱいかもしれないな。フードコートなら、買ってからどこか空いた場所に座って食べられる」

「フードコートって何があるの?」


 そこからか。甲斐は額に手を当てた。


「よくあるのはラーメンとか、唐揚げとか、ポテトフライとか焼きおにぎりとか……」

「じゃあレストランがいい。そういうのは、普段の夕食で食べ飽きてる」


 陽奈はさっそく方向を変えて歩き出した。その後ろを着いて歩きながら、甲斐は「あのさ」と声をかけた。


「俺はレストランに入れない。上島さんだけで行ってくれ」

「どうして」

「……」


 甲斐は黙ったまま、肩から提げていた紺色の鞄を開いた。中から赤いギンガムチェックの包みを取り出してみせる。


「弁当、持たされてて」


 それから慌てて小さく、弟の分を作りすぎだから、もったいないから、と苦しい弁解を付け足す。実際は、遊びに行くという甲斐のために張り切った母親が、早朝から鼻歌交じりに作っていた弁当だ。用意してくれること自体、感謝すべきではあるのだが……


「そう。それなら」


 あっさりと、陽奈は方向を変えた。フードコートのある方向だ。


「え、いや、俺に合わせる必要は」

「合わせてない。ただ店に一人で入りたくないだけ」


 いつもより早口で述べてから、すたすたと歩き出した。自分ではわからなかったが、このときの甲斐はずいぶんと呆けた顔をしていた。


 フードコートも盛況で、どこを見ても人で溢れかえっていた。だがさすがに広大なスペースというだけあって、探せばちらほらと小さなテーブルが空いている。なるべく端の方のテーブルを確保してから、陽奈はさっそく、ひとりでカウンターへ急いだ。


 甲斐は弁当をテーブルに置いて、ギンガムチェックの包みをほどく。保冷ケースに入った四角い箱の蓋をそっと開き、こわごわと中を覗き込んだ。――たちまち、顔に険しい影が落ちる。色とりどりのおかずの段には猫やウサギや仔犬を象ったピックが刺さり、ハート型にくり抜かれたチーズがこれでもかとトッピングされている。おかずの段の下には、ハートと星形の海苔に彩られたケチャップライスがぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。


 青ざめた顔で一度蓋を閉じる。見えるところに陽奈はいないし、幸い近くのテーブルの家族連れもこちらに背を向ける格好になっている。周囲の念入りな確認がすむと蓋に取り付けられた箸を手に取り、もう一度蓋を開けた。それから目にも止まらぬ速さで星やハートのトッピングを口に放り込んでいった。カラフルなピックもすべて抜き取れば、彩豊かな美しい弁当がそこにある。


 ようやく安堵の息をつき、甲斐は顔をあげて辺りを見渡した。あれから時間が経っているが、陽奈が戻ってくる気配がない。何を食べようか迷っているのだろうか。彼女の食い意地を知っているので、容易に想像できてしまう。


 スマホを弄りながらさらに待っていると、ぶぶぶぶ、と画面が震えた。陽奈だ。


〈手伝って〉


 何事か、と立ち上がる。フードコートに立ち並ぶ店先に目を凝らすと、陽奈の姿はすぐに見つかった。ハンバーガーショップの前に立っている。


「どうしたんだ、いったい――」


 訝しみながらもそこに向かい、到着した瞬間、絶句した。


「そのお盆、二つとも持って」


 目の前に並ぶプラスチックの盆。その上に載せられた大量の唐揚げと、フライドポテトと、プリンや杏仁豆腐やアイスクリームの山。


「これ、全部、か……?」

「うん。席までお願い」


 と言って、自分は財布を取り出す。あのマジックテープの財布だ。そのチャックを開けたところが目に入って、甲斐はまたもぎょっとした。


 安っぽい財布には不釣り合いな厚み。その中には漫画で見るような札束がぎっしりと詰め込まれていた。陽奈は一番手前の一万円札を取り出して店員に手渡す。そして返ってくる数枚の千円札たち……


 陽奈はお釣りのお札をぱんぱんの財布に詰め込むのに四苦八苦していた。甲斐は直視せず、盆を手にその場を去った。見てはいけないものを見た気がする。


 まもなくやってきた陽奈は、席に着くやいなやさっそくアイスクリームを食べ始めた。ひとなめくらいの速さで呑み込んでしまうと、次は唐揚げにとりかかる。ぽいぽい口に放り込んでいく様は大型の掃除機のようだ。


「あのさ、さっき、ちらっと見てしまったんだけど」


 甲斐はおそるおそる、遠慮がちに口にした。


「お金、持ってきすぎじゃないか? あんなの持ち歩いてるなんて心臓に悪いだろ」 


 ごくんと呑み込んで、陽奈は首を傾げる。


「だって、園内の食べ物は高いって、あなたが言った」

「いやまあ、言ったけど。限度があるだろ、限度が」


 コンビニより一回り高いくらいだよ、と説明してやると、「そうなんだ」と呟いて、またものすごい勢いで食べ始める。理解してもらえたのか不安である。


 あんなお金、いったいどこから出ているのだろう。甲斐は上島家の豪邸を思い出した。あの財布の中身が親からのお小遣いだとしたら、日頃から世間とはかなりずれた生活をしていることになる。陽奈の少し変わった性格も致し方ないのかもしれないが、あんな束で持ってくることもないだろうにと思う。


 ジャンクフードやスイーツの山はあっという間に崩れ去り、盆は綺麗さっぱり空っぽになってしまった。陽奈は満足そうにお腹をなでている。あれだけの量をひとりで食べ切ったというのに、恐ろしいほど真っ平らのままだ。いったい、この細い体のどこへ消えたというのだろう。


「杏仁豆腐、おいしかった」


 ぽつりとこぼす。


「よかったな」

「すごくおいしかった。ああいうの、近所に売っててほしい」


 売っていたら彼女のおかげで毎日完売だろうな、とぼんやり考えていると、陽奈がすっと立ち上がる。


「じゃあ次に行こう」


 と、手早く盆や食器を重ねていく。


「もう、行くのか」

「うん。次はあれ」


 陽奈が指したのは、園内でも古参のアトラクション――頭上に広がる晴天へ向かってすかっと突き出たフリーフォール。正気か、と甲斐は頭をかかえたくなった。


「あれは……今はやめとこう。食べたものが口から出る。確実に」

「そうなの?」

「ああいうのにしよう、な」


 代わりに甲斐が指したのは、その隣にあるサイクルモノレールだった。


「足でこいで進むから、食後のいい運動に……」

「あれも結構高さがあるね。いいかも」


 無事に次のお目当てを変えられた。どうやら彼女の面白さの基準は、スピードと高さにあるようだ。あれは高さがあるので許してくれたのだろう。


 だが休憩のつもりで提案したサイクルモノレールも、陽奈の手にかかれば暴走レーシングと成りはてた。最初こそ景色をゆったり眺めていたものの、こげばこぐほど速く進むことに気がつき、猛烈に足を回しだす。おかげで優雅に乗っていた前方のカップルがぎょっとして振り向き、彼らも逃げるようにペースを上げた。せっかくのデートの雰囲気が台無しである。


「だめだろ、あんなことしたら」

「なにが? ああいう乗り物じゃないの」


 降りてから陽奈をたしなめるも、彼女はまったく悪びれていないどころか「またやりたい」と無邪気な声をあげている。なんでも暴走させればいいってもんじゃないだろと、一から説明する気力も失せてしまった。


 その後も陽奈の「あれに乗りたい」に振り回されながら順調にアトラクションを制覇していった。心臓が口から飛び出そうになったり、はらはらしたり気絶しかけたりと散々な目に遭ったが、そうしてついに、残すところあと一つだけとなった。


「これが、最後」


 陽奈が見上げる。つられて甲斐も顔を上げた。赤い観覧車がそびえ立ち、ゆっくりと回転を続けている。ようやく息がつける、と甲斐は胸をなで下ろした。

 スタッフに案内され、ゴンドラに乗り込み、なんとなく向かい合って座る。陽奈はすぐさま透明な窓に張り付き、外を眺めた。


「すごい……どんどん高くなる」


 速さこそないものの、観覧車の高さはジェットコースターの比ではない。表情の変化は薄くても、その眼は爛々と輝いていた。陽の光が照らしだし、澄んだ黒い瞳に深い赤が差す。


 甲斐は改めて、目の前の陽奈の姿を静かに見つめた。今日、彼女はよく喋る。乏しい表情もいつもの何倍も豊かに見える。アトラクションに乗り、自分の身体が地面から離れて動き出すたびに頬を紅潮させ、「すごい、すごい」と連呼する。普段の彼女からは想像もつかないような姿だった。


 ――案外、こちらが素なのかもしれない。


 ぼんやりと眺めながら、そんなことを考える。

 財布に詰め込まれていた札束、遊園地に行ったことがないという彼女……親のいない、がらんとした豪邸にひとり立っていた陽奈の姿を思い出し、甲斐の中でふと、何かがつながりそうになった。


「なに」


 はっと気がつくと、陽奈がじっとりした目つきをこちらに向けている。


「ああ、ごめん、考え事してて」

「考え事でこっちを見ないで。気持ちわるいから」


 つんけんした口ぶりはいつも通りだが、それでもどことなく棘が薄いように感じられる。気のせいかもしれないが、そう思えてならなかった。


 ゆっくりと動いていた観覧車も、乗ってみればあっという間に一周してしまう。ふたりが地面に降り立った頃には、空は暁に浸食されはじめていた。


「もう、こんな時間」


 陽奈がスマホを見る。時刻は午後四時になろうとしていた。


「はやすぎる……」

「まあ、全部乗ったからな」


 甲斐の言葉に、陽奈はこくりとうなずいた。


「うん。そう……全部、乗った」


 どこか感慨深げな声が、辺りの空気に染み渡る。


「もう少し何か乗ってから帰るか?」

「うん」


 歩き出した二人の向こう側から、ベビーカーを連れた夫婦が歩いてきた。彼らも観覧車に乗るのだろうか。ベビーカーを押すのは背の低いやせ気味の女性、その隣を歩くのは、少し小太りで、優しそうな丸顔の……

 ふいに立ち止まった甲斐に、陽奈は不審そうに振り返った。


「どうしたの」


 問いかけながら、甲斐の目線を追う。前からやってくるのはなんの変哲もない壮年の夫婦だ。とてもにこやかにおしゃべりしていて、仲睦まじげな様子である。


 だが、それを凝視する甲斐の目つきはどこか張り詰めたような、泣きそうな色を帯びていた。唇を真一文字に引き結んで、その場に立ち尽くしたまま、動かない。


「ねえ――」


 陽奈が声をかけかけた途端、向こうの夫婦も立ち止まった。いや、まず夫の方が甲斐に気づき、足を止めた。その優しげな顔が驚愕に揺れ、ゆっくりと口を開く。


「甲斐……?」


 甲斐は、かすれた声で、「父さん」と呟いた。




 観覧車の傍に、背の低い生け垣に囲まれた小さな休憩スペースがある。そこに妻を座らせ、ベビーカーを託すと、甲斐と父――いや、二人目の父で、今はもう他人となってしまった裕一は、観覧車から少し離れたベンチに腰を下ろした。


「一緒にいた女の子は、いいのかい?」


 心配そうな声に、甲斐はゆっくりとうなずいてみせる。


「うん、しばらく話してきていいかって言ったら、ひとりで回るって。スマホもあるし、すぐ合流できるよ」

「そうか……悪いことをしたな。甲斐の彼女だろう?」

「まさか」


 慌てて両手を振る。


「違うのかい? 仲よさそうに観覧車から降りてきた様子だったから、てっきり……」

「いや、まあ、その辺の友達とはまた違うけど……つきあってるわけじゃないから」

「じゃあ、これからか」

「いや、これからでもないよ」


 なんだそうか、と元父は寂しそうに笑った。笑うと細く垂れた目尻に小さな皺が寄る。見るからに人の良さそうなこの笑顔が、甲斐は好きだった。昔からずっと憧れていた。自分には決してできない表情だったから。


「父さ――えっと、……裕一、さん」

「ははは、やめてくれ。甲斐に名前で呼ばれると変にくすぐったくてしょうがない」

「でも」

「今まで通りでいいんだよ。確かに、戸籍上は他人になってしまったが……今でも僕は、甲斐と、亜樹の父親でいるつもりだから」


 甲斐と、亜樹。

 ふたつ並んだその言葉を聞いただけで、目頭がじわりと熱くなった。咄嗟に顔を伏せる。目元に込み上げるものを、必死にこらえる。


「何言って……子ども、いるだろ。奥さんだって……」

「もちろんふたりとも僕の大事な家族だ。それと同じくらい、甲斐と亜樹のことも、ちゃんと……僕の子どもだと思ってるんだよ」


 裕一は、照れくさそうに頭を掻いた。


「こんな生々しい話をしたくはないが、朝子に言われるまでもなく、二人が将来自立するまで、できるだけ金銭面での援助も惜しまないつもりなんだ。それくらいしか、できることがないからな」


 今の武田家の生活は、母朝子のパート代だけで賄えるものではない。当然、父が養育費を払っているのだろうとは漠然と思っていたが、こうして改めてはっきりと告げられると、その重みがひしひしと伝わってくる。胸の奥が複雑に、痛む。


「ごめん……」

「いや。親の都合でふたりには苦労させているし、これからもきっと……そう思うと、これだけじゃ足りないくらいだと思っているよ」

「もう、じゅうぶんだよ」


 甲斐は顔を伏せたまま、固い声を絞り出した。


「じゅうぶんだよ……父さん」

「でも」

「気持ちはありがたいけど、必要最低限だけにとどめてほしい。その分をあの奥さんと、子どもに使ってくれ……お願いだから」

「甲斐……」


 ふいに甲斐の肩を大きな手が優しく掴む。はっと見上げると、今にも泣き出しそうに歪んだ父の顔がそこにあった。


「すまない、甲斐。ほんとうに……」


 日に焼けた頑丈な手が、震えている。何かにつけて甲斐や亜樹の頭を撫で、肩に置いて元気づけてくれた懐かしい手のぬくもりが、肩から胸のなかに染み込んでくる。いつも慈愛を湛えていた澄んだ眼がうるみ、そこに映る甲斐の顔もぼやけて揺れた。


「だが、これだけは忘れないでくれ。僕は……父さんは、いつまでも、甲斐と亜樹の父だ。ふたりのことを思わない日はないんだ……ほんとうに」


 そのとき、甲斐の視界に突如セピア色に染まった遊園地の風景が浮かんで、周囲の景色と重なった。父を真ん中にして、甲斐と亜樹で手を引っ張り合い、次はどこに行くんだと揉めていた……懐かしい光景。


 ――父さん、ごめん。


 もう、あなたの息子たちは、あの頃とはすっかり変わり果ててしまったんだ。

 鼻の奥がつんと沁みて、こらえきれない感情が両の眼からあふれ出した。肩を掴む優しい手の重みが、全身に染みて、あたたかく、痛かった。




 もうしばらく父と話していたかったが、これ以上は新しい奥さんに悪いからと、甲斐は無理矢理話を切った。別れるときも見送りたい気持ちではあったが、夫婦仲に水を差すのも嫌だったので、その場でおとなしく解散することにした。


「甲斐、よかったら」


 父がスマホを取り出す。チャットアプリのIDが画面に映し出されていた。


「何か、力になれるかもしれない。相談事とか、なんでも……朝子のこととか」


 最後の言葉に、甲斐も思わずスマホを取り出しそうになった。父は母の性格の難をよく知っているのだ。だからこそ離婚に至ったし、甲斐が苦労しているであろうことも察しているのだろう。


 だが、甲斐はぐっと唇を噛み、短く首を振った。


「そんなことしたら、俺、本気で甘えてしまうかもしれない。父さんはもう、そっちの父さんなんだから、俺に構っちゃだめだ」

「でも」

「俺はだいじょうぶ。うまくやってるから。俺、器用なんだ……知ってるだろ」


 と、最後までIDの交換に応じなかった。

 これで会うのは最後だろうと思う。こんな偶然は二度とないかもしれない。だが、それでいいのだ。父には余計な苦労をかけたくない。

 甲斐は父に背を向け、観覧車のコーナーを抜け出ていった。歩きながらスマホを操作し、陽奈にメッセージを送る。


〈ごめん、もう終わった。上島さん、今どこ?〉 


 だが、待てど暮らせど既読はつかない。


 もしかしたら、今まさにお気に入りの絶叫マシーンを堪能している真っ最中なのかもしれない。甲斐は手近なバイキングやフリーフォール、ジェットコースターなどをめぐり、陽奈の姿を探したが、あのキャスケットを被った少女の姿はどこにも見当たらなかった。

 仕方なくベンチに腰を下ろし、スマホの画面を見つめた。


〈そろそろ帰らないと、ちょっとまずいんだけど〉


 母に決められた門限がある。これを破るとかなり面倒なことになるので、厳守したかった。


〈上島さん?〉


 何度か送ると、ようやく既読がついた。


〈もう、帰ってる〉


 その短い返答を、甲斐は信じられない面持ちで見下ろしていた。


〈え?〉〈なんで、どういうこと?〉


 連投しても、それきり何の音沙汰もなかった。


 あんなに遊園地を楽しんでいた彼女が、急に何の断りもなく帰ってしまった――それは、いつもの彼女らしい気まぐれなのかもしれない。だが、甲斐にはどうにも、そうは思えなかった。


 何か原因があるとすれば……思い当たるのはひとつしかない。父に会うまで、彼女の態度には何の変哲もなかったのだから。

 だが、それが彼女の心の何に触れたというのだろう。

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