第8話 遊園地

   五



 八月五日当日、甲斐は駅中に入り、改札前の柱に軽くもたれるようにして立っていた。白いシャツにネイビーのスキニーパンツという無難に無難を重ねたような恰好だが、これが一番動きやすい。 


 待ち合わせ時間の五分前にさしかかろうとしている。スマホを弄りながら、頭の中ではぼんやりと陽奈の服装を予想していた。きっと今日もああいうTシャツを着てくるに違いない。前回の柄は「CUTE!」だったから、今回は「HELLO!」だろうかなどと、冗談みたいなことを考える。


 スマホが震え、チャットの通知が来た。陽奈だ。


〈もう改札を超えた〉


 慌てて目を上げる。夏休み真っ盛りの駅中は人混みにあふれている。ごった返す改札の向こうに目をこらすと、ふと、小柄な少女の姿が見えた。


 あれか?


 思わず目をしばたたく。髪型と黒いショートパンツには見覚えがあるが、白い丸襟のブラウスにカーキ色のキャスケットを被っている。思いのほかまともだ。いや、じゅうぶんすぎる。あの時のあれは部屋着だったのか?


 ICカードで改札を通る。改めて陽奈を真正面から見下ろした。どこからどう見ても、ごく普通の女子高生に見えた。


「な、なに」


 あまりに見つめすぎたのか、陽奈がうろたえたような声をあげる。甲斐はいやと首を振った。


「その……家に行ったときとは、なんというか、違う雰囲気だなと思って」

「変?」


 眉間にわずかに皺が寄る。甲斐は慌てて手をひらひら振った。


「全然。正しい遊園地の恰好だと思う」


 そう、と軽く返して、陽奈はくるりと背を向けた。ホームへ続く階段に颯爽と向かおうとする。


 その瞬間、甲斐は見てしまった。


 陽奈の白いブラウスの裾から、小さく平たい何かがひらりとはみ出ている。それは、よく見ると何やらロゴが描かれているようだった。


「か、上島さん……」


 こみ上げる笑いを必死に抑えながら呼び止める。だがどうしても、口角がひくつくのを止められなかった。


「服の、後ろ……裾の、ところ……」


 え、え、と陽奈は弾かれたように手を回す。後ろ手に何かを掴んだ途端、頬にさっと血の気が走った。


「こ、これは」眼が忙しく泳ぐ。裾からはみ出るタグを必死に手の中に押し隠しながら、ゆっくりと後ずさる。


「だいじょうぶ、トイレで取ってきたら」


 と、後方にある女子トイレを指してやった。「急いでないからさ」


 陽奈は真っ赤になったままくるりと後ろを振り向き、サンダルの底を鳴らしながらトイレに駆け込んでいった。


 数分後、タグと格闘した様子の陽奈がふらふらと出てきて、甲斐の方へは眼も合わせないまま、


「急がないと、電車が……」


 などと消え入りそうな声で告げ、一人で階段を上っていってしまった。それが限界だった。こらえきれず、甲斐は思いきり吹き出した。それが彼女をむっとさせたようだ。ホームに上がり、電車に乗り込んだあとも、陽奈はむすっとした顔で口をきいてくれなかった。


 ――やっぱり、あんなブラウスは持ってなかったんだな……


 あまり口にしないが、遊園地に行く前から持ち物や服装を気にしているあたり、相当楽しみだったのだろう。タグも切らずに当日ギリギリまで綺麗に保管していたところを想像すると、なんだかほほえましかった。


 新滝濱までは電車で十五分ほどかかる。そこから『シンタキパーク』へ直通のバスが出ていて、十分ほどすれば到着するようになっていた。以前来たときは父が車を出してくれたので、こうして交通機関を使うのは初めてだった。前日に往復路をきちんと見直しておいてよかったと胸をなで下ろす。


 バスから降りると、周囲にはすでにメルヘンな雰囲気が漂っていた。歩道には『シンタキパーク』のキャラクターが掘られたタイルが敷かれており、風船や花の妖精を象ったカラフルな像が置かれ、華やかに彩られた道がパーク内へと続いている。その真ん中を陽奈は歩いていた。甲斐から少し離れた先で、唇を薄く開いたまま、タイルの模様やお菓子の形の看板などをもの珍しそうに見回している。


 まるで遊園地に初めて連れてこられた子どものようだ――いや、本当に初めてなのだ。甲斐はきょろきょろと忙しない陽奈の背中を眺めながら、ふとそんなことを思った。


 チケットブースは家族連れで混み合っており、二人は最後尾で待たなければならなかった。開園時刻を狙うとこうして混み合うのだ、と伝えると、陽奈は「そう」と、感慨深そうに人混みを眺めていた。待ち時間は特に苦にならないらしい。


 やがてこちらの番が回ってきたので、先だって甲斐がチケットを購入した。続いて陽奈の番が来る。


「あ、あの、高校生です」


 消え入りそうな声をつまらせながら、アクリル板の向こうへ精いっぱいに告げる。そうして取り出された財布を甲斐は二度見してしまった。マジックテープで止めるタイプの三つ折り財布だった。色は鮮やかなショッキングピンク。ばりばり、と小気味いい音がどこか懐かしい。

 陽奈がブースを超えて入ってくると、甲斐はパンフレットを取り出した。


「さて、何からいく?」


 折り畳まれた紙面を広げ、裏面を向ける。パークの全体図になっており、様々なアトラクションの場所が示されている。


「ああ心配しなくても、俺はそのうち適当に去るから」

「……」


 陽奈はじっとりした眼をこちらに向け、それから地図を見つめた。


「去らなくていい。何かあったときに困る」

「何かってなんだよ」

「それに、案内役がいないと勝手が分からない」


 ああ案内か、と納得する。確かにこの広大な敷地内にひとり放り出されても、彼女は迷ってしまうだけだろう。


「わかった。じゃあとりあえず何に乗るか決めるか。気になるの、あるか? て言っても、初めてだから何がなにかわからないと思うけど……」

「ぜんぶ乗る」

「え?」


 こちらを見上げる陽奈の顔は、どこか張り切ったようにきりりとしている。


「片っぱしから乗る。一番近いのはどれ?」


 困惑しつつも甲斐は地図に目を落とす。

 ――いや、地図など見ずとも、わかっていた。たいていの遊園地は、入り口側に置かれるものが決まっている。パークの看板ともいえる自慢の絶叫マシーンをお客に誇示するために。


「スーパーアルティメットジャンピングコースター……ていうのが一番近いみたい。そっちから行く」


 陽奈はもう目をつけてしまったようだ。彼女にとって記念すべき生まれて初めてのアトラクションは、『シンタキパーク』名物の絶叫コースターだった。


 スーパーアルティメットジャンピングコースターは、その名の通り、とにかく絶叫要素をこれでもかと詰め合わせたようなロングコースターだ。高さはもちろんのこと、上下の移動がしょっちゅうあり、横回転も縦回転も、ほぼフリーフォールに近い落下地点も取りそろえられている。ジェットコースターとしては文句なしのエリートである。 

 好きな人にとっては。


「顔色悪いけど」


 屋根のついた待機通路に並びながら、陽奈がこちらを見上げている。


「暑いから?」

「いや、全然。大丈夫」


 そう、全然だいじょうぶだ。どうということはない。


 過去に一度だけ父と一緒に乗ったことがある。母は絶叫マシーンが大の苦手ではなから諦めており、亜樹は身長制限で乗れなかった。父の朗らかな誘いを断れず、甲斐は共に並び、共に乗り込んだ。結果は――残念ながら、動き出してからしばらくの記憶がない。途中で意識が飛んだらしい。そんな恥ずかしいことは誰にも言えず、今の今まで甲斐の中だけにしまいこまれた過去だった。


 あれだけ列の長さがあったのに、運がいいのか悪いのか、順番はあっという間に回ってきてしまった。二人がけの席に並んで乗り込む。陽奈は事前に帽子を係員に預けていた。飛んでしまいますから、と言われたとき、彼女の瞳がきらりと輝いた、気がする。


 ブザーが高らかに鳴り響く。これからおまえを恐怖の渦にたたき込んでやる、という怖ろしい宣言に思えて、背筋が冷たくなった。


「すごい、高い、すごい」


 隣では陽奈が興奮気味に繰り返している。安全バーで押さえつけられた肩を精いっぱいに乗りだして、下に広がる光景に目を丸くしている。


「人が、あんなに小さい……あ、あそこにあんな建物が……次はあれに乗りたい」


 あれと言われてもわからない。それに、甲斐は今、周囲の景色など気に掛ける余裕はなかった。


 カタカタとレールを上り詰めていくごとに、腹の底が冷えていく。人生終了、の文字が徐々に頭の中に浮き上がってくる。死にゆくはずの人間がなにを、と思うが、この状況では仕方がない。生物的な本能がまさっている。


「ここからどうなるの? ああ、あんなにレールが続いてる。あそこ全部通るの? あの回るところも? 逆さまになってるところも? すごい、ぜったいすごい」


 語彙力の崩壊した陽奈が発する声も、甲斐の耳には届かない。さようなら現世、と心中で呟いた瞬間、二人を乗せたコースターは無慈悲な速さで落下していった。




「ジェットコースター……すごかった」


 アトラクションから降り立ったあとも、興奮冷めやらぬといった感じで、陽奈は乗り場のほうを見上げていた。もう一回乗りたいと言い出しかねないので、甲斐は急いで地図を広げてみせる。


「次は、何に乗る?」


 顔色が悪い自覚はあるが、まだ耐えられる。たかが一回程度の絶叫マシーンならなんともない。


「ここから近いのは、これかな」


 陽奈が指したのは、遊園地ではおなじみのバイキング。船の形をした、つり下げ式の座席が前後に大きく揺れ動く乗り物だ。甲斐の頬がぴくりとひきつる。


「あー、上島さん。遊園地を長く楽しむなら、絶叫系とそうでない乗り物を交互にした方がいいと思うけど」

「そうなの?」

「そう。鉄則」

「鉄則……」


 胸に刻むように小さく呟いている。いたいけな存在を騙しているようで少し罪悪感を覚えた。


「ほら、あれとか」


 甲斐の視界にコーヒーカップがあった。今も仲睦まじげなカップルや親子が優雅にカップを回して笑っているのが見える。


「あれ、なに」

「くるくる回るカップに乗るんだよ。自分らで回したりできるし。結構おもしろいと思うけど」

「じゃあ乗る」


 陽奈は即座に歩き出した。コーヒーカップは絶叫系に比べてあまり並んでいない上に、回転率もいい。五分も経たないうちに順番が来て、二人は水色のカップに案内された。


 陽奈はおっかなびっくり、ぐらぐら動く座席に困惑している。目の前の皿に似たハンドルを両手でしっかりと掴んだ。合図のブザーが鳴り、カップを乗せた土台が動き始める。ゆっくりと円を描いていく。


「すごい、回ってる」


 陽奈はしばらくきょろきょろと周囲を眺めていたが、やがて近くのカップに乗った小学生がハンドルを回していることに気がつき、陽奈も真似をして回しはじめた。


「上島さん?」


 くるくる、くるくるくるくる……二人を乗せたカップは異様な速度で回り始める。周囲の景色が尾を引いて流れていくのを、甲斐は青ざめた顔で呆然と見ていた。


「回しすぎ、回しすぎだって」


 陽奈の耳には届いていない。ハンドルを回すのに全力を注いでいる。甲斐はもう、自分たちが回っているのか、周囲の景色が自分たちを置いて回り出しているのか、わからなくなっていた……


 ブザーが鳴り、コーヒーカップが静止する。陽奈はまっすぐ地面に降り立ったが、甲斐の足下はふらついていた。


「次は、絶叫系に乗る。鉄則だから」


 と地図を凝視する陽奈に、甲斐は「うそだろ」と情けない声をあげていた。


「あれは?」


 しばらく並んで歩いていると、陽奈がふと向こう側を指した。そこにそびえ立つのは、巨大な船のシルエット。だが、船はつり下げられている。太い鉄の柱に支えられるようにして、前後に揺れ動く、あの怖ろしい形状は見間違えようもない。


「あれは……あれがバイキングだな。さっき上島さんが地図で見つけてた」

「絶叫系?」

「ああ。でも――」

「じゃああれね」


 陽奈は問答無用ですたすたと歩いていく。甲斐はふたたび「うそだろ」と呟いた。今度は情けなさよりも絶望の交じった声だった。


「座席はどこがいいの?」


 船型の乗り物を見上げながら陽奈が訊ねる。彼女の「いい」とは、一番スリルの感じられる、という意味だろう。


「一番後ろかな。遠心力が大きいから」

「ふうん」

「まあ、俺は一番前に乗るから。上島さんは気にせず後ろを陣取ってくれれば」

「何言ってるの。せっかく来たのに遠慮する意味がわからない」


 と言って、陽奈は甲斐をひきずりスタッフの案内に従う。連れて行かれたのは運悪く……いや、運良く一番後ろの真ん中だった。


「ほら、後ろに乗れた」

「ああ、うん、よかったな……」


 甲斐はもうどうにでもなれと瞼を閉じる。

 その後の地獄は語るまでもないだろう。陽奈はひたすら「すごい、すごい」を連発しているし、甲斐は歯を食いしばって口から抜けかけそうな魂を必死に繋ぎ留めていた。

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