第7話 祖母の家

「甲斐、テストお疲れさま」


 家に帰ると早々に母が出迎える。今日は期末テストの最終日で、息子を労うつもりで腕によりをかけているのか、キッチンの方からすでに香ばしいかおりが漂っていた。


「ありがとう、母さん」

「どうだった? 甲斐のことだから、きっと楽勝だったわよね?」

「まあ、日頃からやっておけば問題ないよ」


 毎日きちんと勉強している、とさりげなくアピールすると、思惑通り、母はにっこり笑った。「そうよね、そうよ、日頃からちゃんとしておけば……」と誇らしげに言う。


「それに比べて亜樹はほんっとうに出来の悪い子。どうしてああなっちゃったのかしら……」


 亜樹の中学はまだ明日までテスト期間だ。だが母は今からすでに出来が悪いものと決めつけているらしい。確かに、亜樹の成績が当時の甲斐を上回ったことはないが、未来を決めつけられるものでもないだろうに。


「今日はね、お疲れさまということで、甲斐の好きなキムチ鍋にしようかと思って。出汁にもすごくこだわって、一からとっているのよ。おかずもいろいろ作ったの。朝からすごく頑張ったんだから」


 こちらに向けられた母の笑顔は、甲斐の喜ぶ反応を期待している。己の頑張りを認めてくれる母に感動し、感謝し、この綺麗な顔が笑みをつくるのを待っている。


 甲斐は、その期待に完ぺきに応えた。記憶の隅からあの男に似た仮面を引っ張り出して、眼を細めて口角を上げる。


「嬉しい。頑張ったかいがあったよ。ありがとう、母さん」


 母の頬が紅潮する。「先にお風呂に入っておいで」と、鼻歌を歌いながらキッチンへ戻っていった。


 一気に肩の力が抜けた。仮面は崩れ、素の顔が露わになる。母の理想を演じ続けるのは疲れるし、うんざりする。しかしやめるわけにはいかない。この家を支配する母の気まぐれが弟に向けられないように、できるだけ関心を遠ざけておきたかった。


 自室へ向かおうと階段に足をかけたとき、ふと段上に細い足がみえた。亜樹だ。階段に座ってこちらを見下ろしている。先ほどの会話を聞いていたのだろうか。


「おかえり、兄貴」


 ぞんざいな声が降ってきた。青白い頬に黒縁眼鏡。その奥の眼は凍りついたように冷たく、黒々と澱んでいた。


「今日もマザコンごくろうさま」

「……」


 甲斐は口元をぐっと引き締め、そのまま素通りしていった。


「出来の悪い弟を持って、大変だね、兄貴は」


 ぴたり。部屋に入りかけた足が止まる。だが振り払うようにして扉を押し開けた。

 扉を閉める間際、ぼそっと小さく呟くような声がした。それはほんの短い一言だったが、呪詛のように甲斐の魂を打ち抜いた。


「はやく死ねばいいのに」


 心臓が、砕け散りそうになる。

 乾ききった浅い呼吸を吐きながら、甲斐は扉に背をつける。落ち着け。落ち着け。胸を押さえてうつむく。なんでもない、なんでもないのだ……


 弟からこの言葉を向けられたのは初めてのことではない。一度目は高校に上がった直後だった。それまで漠然と死への憧れを持ち始めていた甲斐の背を、とんと押した出来事だった。


 大丈夫だ。自分はもうすぐ死ぬ。遠くないうちに、この頭も顔も、粉々になる。弟の気も晴れるだろう。目障りな兄貴がいなくなれば、母も比較対象を失って、亜樹を見てくれるようになるはずだ。亜樹も晴れて自由になる。自身を縛りつけていた忌々しい兄貴と、自分の知らない前の父親の影から、きっと……


「ごめんな」


 扉の向こうに聞こえるはずもない声をこぼす。


「もうすぐ、消えるから」


 今まで苦しめていて、ごめん。

 もう少しなんだ。もう少し辛抱していてくれないか。きっとすべて良くなるから。





   四



 田舎の太陽は、アスファルトとビルでできた町に比べていくらか優しい。沈んだあとに残す熱も穏やかで、心地よい風まで吹くからだ。こうして畳の布団に寝そべっていると、将来は田舎で過ごしたいなあとすら思う。将来なんてないとわかっていても。


 灯りを消した部屋の真ん中で、甲斐は寝転がったままスマホを弄っていた。なんとなく寝つけないのもあるが、チャットアプリの通知が鬱陶しいのだ。


〈なあ見て、すげーかわいくない?〉


 佐藤が画像を送ってくる。白くもふもふとした子猫の写真だ。すぐさま、グループチャット内にいる吉田と伊藤が反応する。


〈マジだ、かわいい〉

〈おまえ猫かってたっけ?〉

〈いや、ばあちゃんちの猫! 保護して飼ってた子猫がさ、帰ってみたら母ちゃんになってて、子猫がめっちゃ増えてたんだよ〉

〈マジかよいいなあ、俺もさわりてえ〉

〈猫いいよなー〉

〈おまえらさあ、猫にすげー反応してるけど、普段の俺にもそれくらい反応しろよ!〉


 チャット画面では互いの顔は見えないが、佐藤のぶうたれた顔が容易に思い浮かんだ。


〈そういや、武田もばあちゃんちだよな?〉


 ふと吉田が水を向けてきたので、仕方なく返事を打つ。


〈うん。もう二日目になるけど〉

〈マジかよ言えよ! 昨日ふつーにおまえんち行ったわ。んでいなくてだるかったわ〉

〈ごめんな。まあ、夏休み入る前に一応言ったはずだけど〉

〈出かけるときも言えよお〉これは佐藤だ。〈俺なんかちゃんと当日の朝と昼飯のサービスエリアと今も律儀に連絡してんのに!〉

〈それはやりすぎだって〉


 打ってから、小さくため息が漏れる。佐藤のテンションは文字だけになっても色濃く伝わってくる。正直、暑苦しい。


〈悪いけど、俺はもう寝るよ。明日、朝からばあちゃんの手伝いしなきゃだから〉

〈まじめか! おまえ田舎に帰ってもまじめかよ!〉

〈おやすー、武田〉

〈またどっかで宿題写させてくれよ〉


 それぞれの挨拶を一応見届けてから、甲斐は通知を切り、スマホの画面を閉じた。

 本格的に眠る前に、トイレに行っておこうかと思い立ち、起き上がる。


 甲斐の母親、朝子の母である祖母の家は、古びた広い平屋だった。亡くなった祖父と共に切り盛りしていたという布団屋は、今でこそ閑古鳥が鳴いているが、昔はお金持ちの得意先がいてそこそこ繁盛していたらしい。おかげで、甲斐と亜樹はそれぞれ別の畳の客間を贅沢に与えられている。それでも部屋は余っているらしい。


 母はかつて自分が使っていたという離れで眠っているはずだ。今から向かうトイレとは距離があるのでそうそう出会うこともないだろう。甲斐は立ち上がり、襖を静かに滑らせた。


 廊下は真っ暗闇で、スマホのライトがなければ見えない。足を木床に乗せるたびに軋んだ音をたてるので、すり足気味に歩く。亜樹の部屋の前を通り過ぎるとき、襖越しに薄明かりが見えた。まだ起きているようだ。


 廊下の角を曲がった瞬間、甲斐は咄嗟にスマホの灯りを消した。前方左手の障子が中の灯りを通して、廊下に白い光を映しだしていた。あそこは居間だ。薄らと話し声が聞こえる。祖母がまだテレビでも見ているのだろうか。


 なんとなく前を通るのが気恥ずかしいので、来た道を引き返してトイレまで迂回しようかと考えた、そのときだった。


「あんたまさか、まだあの男に未練があるんじゃなかろうね」


 甲斐は振り返りかけた身体を硬直させた。祖母の声だ。では、話している相手は――


「あんないい人と離婚にまでなって、それでもまだ何もわかっちゃいないなんて……情けないったらありゃしない」

「お母さんには関係ないでしょう」


 うるさがるような朝子の声。普段甲斐にかけてくるような甘ったるい声とも、亜樹へ投げつける苛立ちの声とも違う。余裕のなさそうな低い声。


「関係ないわけないでしょうが。亜樹ちゃん、あの人に似て木訥とした、朗らかでいい子だったのに。会うたびに暗くなっていくようだし、あんたは甲斐にべったりだし――」

「ええそうよ、亜樹は忌々しいくらいあの人そっくりよ。不器用で頼りなくて情けなくて、いつも人のご機嫌を伺ってばっかり。あんな子に育てるつもりはなかったのに。あの人のこと、いつも反面教師にさせていたつもりだったのに。甲斐がいいお手本になるならと、二人で遊ばせる時間も多くとってあげたのに……!」

「それがそもそもの間違いだよ、ばかだね」


 祖母の声が鋭さを増した。普段は優しく穏やかな声音なのだが、我が子をたしなめるときはああいう風になるのか。

 ほどなくして、障子越しにも聞こえるほどの大きなため息が響いた。


「甲斐もかわいそうだよ。あんたのやらせてること、全部あの男の後追いじゃないか。髪型までそっくりにして……確かに外見はよく似ているけど、甲斐はひとを気遣うことのできるいい子だよ、あの男とは違う」

「正浩さんの悪口はやめて!」


 朝子が叫び声を上げた。


「正浩さんは……正浩さんは、もう一生会えないくらい素敵なひとよ。なんでもそつなくできて、仕事も、恋愛も……何もかも、完ぺきで」


「完ぺきじゃないからおまえを捨てて出て行ったんだろう! 何が恋愛だばかばかしい、子を持つ親のくせに、外に愛人を囲いまくって家庭をちっとも顧みなかったじゃないか。……それに比べて裕一さんは、あいつのことで苦しんでるあんたを支えて、励まして、再婚する前に甲斐とたくさん遊んでなんとか父親として認めてもらおうとして……私はもう、その姿を見ているだけで涙が出そうだったよ。ようやくまともな夫が現れた、これでどうにか安泰だと、本当にそう思っていたのに……」


「あの人のそういうところがイヤなのよ」


 朝子の言葉はにべもない。


「ひとの機嫌を伺って、へこへこして……男らしくないところを目にするたびに恥ずかしかった。そりゃ、傷心中のところを慰められてその気になってしまった私も悪いけれど……再婚する相手を間違えたわ。お金を持ってなかったら絶対結婚なんてしなかった。亜樹が生まれて育っていくのをこの眼に見るうちに、ますますそう思えたわ」

「あんた……」


 祖母の言葉は続かない。呆れかえっているのか、呆気にとられているのか。そのどちらもだろう。朝子の声音がますます熱を帯びる。


「とにかく、今の私の唯一の支えは甲斐なの。甲斐が正浩さんのように素敵な男性になってくれることだけが望みだわ。亜樹もそのうち、自分のだめなところと真摯に向き合って、甲斐の背中を追ってくれればいいんだけど……」


 それ以上は、聞いていられなかった。

 甲斐は踵を返し、音もなく廊下を引き返していく。スマホの灯りもつけず、トイレのことも頭から消し飛んでいた。


 ふらふらと、暗闇の中を彷徨う。いつの間にか裏口へ出ていた。つっかけに足を入れ、ぼんやりと外へ出ていく。宛てなどなかった。ただひたすらに、家から離れていたかった。


 裏手には小さな、庭とも呼べない砂利の空き地が広がっており、ひからびた古井戸の周りで名もない草花が好き勝手に伸びていた。夏真っ盛りのむっとするような空気の中をさわさわとした風が追い抜いて、甲斐の前髪を揺らしていく。


 外の空気を吸うと少しだけ気持ちが紛れる気がする。気休めだろうが、この田舎特有の空気が今はひどくありがたかった。


 風をより感じたくて目を閉じる。だが、目を閉じれば先ほど耳にしてしまった会話が甦りそうになり、甲斐は目を見開いて髪をかきむしった。うめき声を上げながら靴底で地面を強く踏みつけ、甦る母の声を消そうとする。


 何が正浩さんだ。素敵な男性だ。――吐き気がする。 


 甲斐は昔から気づいていた。母親が自分の息子を、未だ恋い慕う前夫の依り代にしようとしていることに。髪型も与えられる服もどことなく意識されたものだし、勉強を強要するのも前父が大企業のエリートだったからに他ならない。甲斐にも同じ道をたどらせようとしているのだ。その姿を見て、前父の姿を重ねるのが母親の愉しみであり、生きがいなのだ。


 ――気持ち悪い。


 身体のなかのものを全部吐いてもおさまらないくらい気持ちが悪い。古井戸が枯れていなければ今すぐ顔を突っ込んで溺れ死んでしまえるのに。

 その場にしゃがみ込み、喉元を押さえる。


 ――亜樹。


 弟は生まれたときから二人目の父親にそっくりだった。甲斐にとってはこの世界で唯一、心から父親と呼べる存在……自分は母の気持ち悪い欲望に晒されているのに、弟は大好きな父親に似ていて、それがとても羨ましかった。それが母との確執になるなんて、当時は思いもしなかった。


『死ね』


 唐突に、声が脳裏に降ってくる。あの日、高校に上がったばかりの夜に、面と向かって言われた言葉。あのときの亜樹の目つきは未だ鮮明に覚えている。光のない黒い瞳。人一倍穏やかで恥ずかしがり屋で優しかった弟が、初めて見せた明確な憎しみと、敵意だった。


「ああ、死ぬよ。もうすぐ、死ぬから……」


 父裕一に似た優しい顔を、あれほどまでに歪めてしまったのは自分だ。自分があの男に似てさえいなければ、母はここまで固執しなかった。前夫の影に狂うこともなかった。


 赦してほしい。自分の存在を、どうか。

 この罪深い顔をめちゃくちゃにして消えるから。

 望み通り、死ぬから――


 ――ぶぶぶぶ…… 


 突如手の中のスマホが震え、心臓が飛び上がりそうになった。夜の闇のなかで、画面が眩しいほど光り輝いている。佐藤たちのグループの通知は切ったはずなのに。画面を覗くと、通知画面には「上島陽奈」の名があった。


〈五日のことだけど〉


 アイコンもカバー写真もデフォルトのままの、およそ女子高生らしさのかけらもない陽奈のアカウントから、チャットが届いている。


〈着てはいけない服とかあったらおしえてほしい〉


 五日というのは、八月五日のことだ。遊園地の件だろう。遊園地など何を着ても差し障りはないが、彼女にとっては初めてのことなのだ。


〈べつに、何を着てもいいけど〉


 そう打ち終えてから、少し考えてさらに付け加える。


〈まあ、乗り物を全力で楽しむなら、極端に高いヒールとか、めちゃくちゃ長いとか短いスカートは避けるべきだと思う〉

〈そんなものない〉


 そうだろうな、と思う。あの絶望的にダサいTシャツを思い出して、口元にふっと笑みが浮かんだ。浮かんだことに、自身でも驚いた。


〈あと、暑いだろうし、かぶり物があるといいかもしれないな。ほとんど屋外だから〉

〈それは問題ない。だいじょうぶ〉


 帽子はあるのか。なんとなく、あの日見た服装に麦わら帽子のイメージを勝手に合わせてみた。合うのか合わないのか、よくわからない。


〈じゃあ、当日よろしく〉


 そう打ち返して、少し待つ。チャットに既読がついた。いつも会話の終わりの返信がないので、既読など確かめたことはないのだが、今はなぜだか、それを確認して安堵してしまう自分がいた。


 八月五日までもう少し。祖母の家から帰ってすぐだ。その日のことを考えると、今すぐ死にたいという強い渇望は収まった。

 ちゃんと、計画の日まで生きていける気がした。

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