第6話 関わらないでと言ったのに

   三


「次、化学かよ。移動教室めんどくせー」


 佐藤の嘆きが廊下に響き渡る。吉田がおもしろがって「あっあそこに化学の木村が!」と叫ぶと、「えっうそ、どこどこ、やばいやばい」と慌てて甲斐の後ろに隠れた。


「木村先生、いないけど」


 甲斐が冷静に教えてやると、「嘘かよおお」と頭を抱える。その後ろから伊藤が頭を小突く。周囲がくすくす笑っていた。


 歩きながらもいちいち感じる、甲斐の方をちらちら見る視線の多いこと。未だにスマホの音が小さく鳴ることもあって、内心いらついてしまう。


 落ち着かなければ。彼女たちも自分の無残に壊れた顔を目にすれば、たちまち吐き気を催してくれるにちがいない。スマホに保存した隠し撮りを目にするたびに思い出して後悔してくれるはずだ。その日まで、せいぜい楽しませてやればいい。


「あ、D組体育かよ」


 佐藤が何気なく呟く。甲斐もつられて前方を見た。体操着の袋を持った生徒たちが次々と教室から出ていくところだった。


「いいなー、俺も体育がよかったー」


 甲斐はそっと教室内をのぞき見た。陽奈の姿はないが、まだ数人の女子生徒が窓際で喋っている。その制服を着崩した後ろ姿には見覚えがあった。


「悪い、先行っててくれ」

「なんだよ武田、どうしたんだよ」

「ちょっとトイレ。すぐ追いつく」


 三人は「りょーかい」と言って甲斐の方へ軽く手を振った。彼らの姿がなくなったころには、廊下のひと気もほとんどなくなっている。それなのに彼女たちはまだD組内から出る気配がない。


 甲斐は扉の外に身を隠しつつ、そっと中を窺った。女子生徒たちは周囲をざっと確かめるとおもむろにはさみを取り出した。そして、後方にある机の上に置かれた、薄水色の布ペンケースを持ち上げる。


「マジでだっせえな、これ。なんなんだよこのヘンなヒヨコみてえな刺繍さあ」

「あいつの持ちもん全部だせえよ。中学のとき、一回だけ私服見たけどヤバかったもん」

「えーどんなんどんなん?」

「なんか小学生みたいな短パンはいて、ヘンなTシャツ着てさ。ヒラヒラした帽子も被ってたけどマジでセンスなかった」

「何それ、絶対キモいじゃん。みてみたかったわ」

「あれはマジで爆笑だったよ。目の前で笑い転げてやったら顔真っ赤にしてさ。その帽子ババアみたいだよって言ってやったら泣きそうになってた」

「あははは! なにそれかわいそー」

「ウケるわあ」


 甲高い笑い声。間違いなく、あの日陽奈を倉庫に閉じ込めた者たちだ。彼女らは手にしたはさみの切っ先をペンケースに向けた。


「だれからやる?」

「じゃあアタシから!」

「おっけー。でもやりすぎんなよ。あたしらの場所なくなるからさ」

「わかってるって」


 一人がはさみをペンケースに近づける。切っ先が触れるか触れないかまで来た瞬間、甲斐は扉の影から中に飛び出した。


「あれ」


 わざとらしくないよう、自然な調子で声を発する。女子生徒たちははじかれたように振り返った。


「えっ」

「なんで?」

「武田くん?」


 戸惑うような声をあげながらも甲斐の視線を追い、慌ててはさみを後ろ手に隠す。こんな時でもこちらを意識して前髪をなでつけ、襟元を整えているのがなんとも滑稽だった。

 甲斐はひきつったようにならないよう、努めて自然な笑みを作る。


「ごめん、教室間違えた。慌ててたからさ」

「あ……そ、そう」

「あはは、武田くんドジじゃん」


 ぎこちない笑い声が教室内にむなしく響く。

 甲斐は彼女らの背中に隠れている机をなにげなく見やった。


「なんか、すごく楽しそうだったけど。何かしてた?」

「え、いや、別に」

「ちょっと喋ってただけだよ」

「そうそう、てかうちら、もう行かなきゃじゃん」

「だよねだよね、アタシらもう行くね」


 彼女らはばたばたと自席に戻り、体操着の手提げを手に取る。その際、さりげなくはさみを戻したようだったが、甲斐はめざとくすべてを見ていた。


 あの机は、陽奈の机だ。座っているのを見かけたことがある。倉庫に閉じ込めるだけでは飽き足らず、人の物を破壊しようとするとは。

 甲斐は「邪魔してごめん」とその場から去った。仮面を貼りつけたような作り笑いは一瞬で消え去る。この笑みも彼女らにはとても綺麗なものに見えているのだろう。


『あの人に似てきたなあ、と思っただけよ』


 ふいに甘ったるい声が甦ってきて、反射的に口元を押さえた。喉に苦いものがこみ上げそうになり、その場で立ち止まって耐える。


 ――そうか。前の父親は、きっとこんな風に笑ってたんだろうな。


 心の中で自嘲気味に呟く。


 ――に似ているところが、少しでもあればよかったのに。


 残念ながらその父の血は一滴も入っていない。弟の亜樹だけは特徴的な柔らかい風貌を受け継いでいた。そのことがずっと羨ましかった。今はその影すら見えないほどに、暗く歪んでしまっているが。




 試験前なので学校は午後一時で下校となる。部活もなく、強制的に帰宅させられるのだ。甲斐は佐藤たちに捕まって、途中まで一緒に帰るはめになった。


「でさあ、姉貴がマジでヒステリーで」

「その話、前にも聞いたし」

「佐藤の姉ちゃん、すげー怖いんだろ」

「いや今度はまた別の話なんだよ。マジでやばかったの」


 佐藤のどうでもいい話を聞きながら四人で歩く。しばらくするとバス停に着き、吉田と伊藤が乗り込んだ。そこから更に歩いていけば、佐藤と別れる道に出る。


「じゃーな武田、また明日ー」


 佐藤がぶんぶん手を振る。

 甲斐はようやく肩の力を抜いた。空を仰ぎ深く息をつく。いつもひとりで帰っているので、たまに絡まれながら歩くとひどく気疲れしてしまう。

 昨年は自転車で通学していたが、カゴに女子のメモやバレンタインチョコなどを好き放題入れられるのに辟易して、やめていた。家までは少し遠いが仕方ない。


 道路を渡り、ひたすら歩道を歩いていく。この辺りは日陰がないので首筋や背中が汗ばんでくる。早くシャワーを浴びて涼しい自室で寝転がりたいが、このまま真っ直ぐ帰る気にもなれなかった。弟の中学校はまだぎりぎりテスト期間ではなかったはずだ。今帰れば、母と二人きりになる。……


 住宅地に入ってすぐ自宅が見えてきたが、なんとなく道を逸れ、さらに奥の方へ向かった。特にあてはないが、あまり遅くなってもいけない。せいぜいこの辺りをぶらつくに留めなければならない。


 どこか、ひとりになれる場所はないだろうか。


 時間帯もあってか、人通りはなかった。時折、風に乗って拙いピアノの音や無邪気な赤ん坊の声が微かに聞こえてくるくらいで、いたってのどかなものだ。


 この辺りを散歩するのは記憶に久しい。亜樹がまだ小学校に上がる前、父の買った小さな子供用自転車を押してやったことがある。一緒にキャッチボールもした。確かこの辺りに公園があって――


 はたと足を止める。目の前に、背の低い植え込みに囲まれた空き地があった。正確には空き地でなく公園なのだが、遊具が撤去されて更地のようになっていた。真ん中に申しわけ程度の四角い砂場と、植え込みのそばにベンチがぽつぽつと置いてあるだけだ。そのベンチの一つに、こちらに背を向ける形で甲斐の高校の制服が見えた。女子の制服だ。ちょうど木陰になっていて涼しげな場所である。そして、その黒いショートヘアの頭にはものすごく見覚えがあった。


 そのままそっと立ち去るべきか、判断に迷う。別に声をかける理由も、あえてかけない理由もない。迷っているうちに、気配を敏感に察した彼女がさっとこちらを振り返る。

 陽奈の、黒い瞳と目があった。


「……なんでいるの」


 相変わらずぶっきらぼうな口調だ。甲斐は困ったように頭を掻いた。


「いや、俺の家、この近くなんだけど」

「そう」

「上島さんこそなんでここに? 家、海側だろ」

「別にいてもいいでしょ」


 それならなぜこちらには言及したのだろう。一抹の理不尽さを覚えつつ、甲斐は一歩近づいた。


「眼帯、とれたんだな」


 陽奈の顔にはあの白い眼帯はなかった。両の眼がちゃんと見える。重たげな前髪に俯き加減なのでぱっと見はわかりづらいが、形のいい眼がふたつ揃うと整った顔立ちをしているのがわかる。

 陽奈は微妙な表情で眼をそらした。


「……うん」

「怪我でもしてたのか?」

「そう」

「そうか。治ってよかったな」


 再び、沈黙。空の雲がのんびりと動いて、切れ間から陽が強く照りだした。少し迷ったが、スマホの時間を確認して、甲斐はまた一歩踏み出した。


「俺もそっち行っていい?」


 たちまち陽奈の眉間に皺が寄る。ものすごく迷惑そうな顔つきであるが、しぶしぶ、ベンチの横を空けてくれた。


「ごめん。ちょっと、まっすぐ帰る気になれなくてさ」


 そう言うと、何かを察してくれたのか、眉間の皺が少し緩んだ。

 木陰は思いのほか涼しかった。見たところ、陽奈はスマホも本も手にしていない。両手をだらりとさせたまま、膝頭のあたりをぼうっと眺めている。


「今日、D組に来たでしょ」


 おもむろに陽奈が発した言葉に、ぎくりとした。


「あの人たちが喋ってるの、聞こえたから」


 あの人たちとは、おそらくあの女子生徒たちのことだろう。


「ああ、うん、移動教室なのに忘れ物してさ、慌ててたせいで入るとこ間違えたんだよ」

「へたな嘘。A組は一番遠い突き当たりなのに、間違えるはずないから」


 痛いところをつかれてしまい、甲斐は口ごもった。だが、あの時見た光景を知らせるわけにいかない。彼女をいたずらに傷つけるのだけは避けたかった。


「当てようか」


 まごついている甲斐の眼を、陽奈の瞳がまっすぐに射貫く。


「あの人たちが、わたしの机に何かしてた。違う?」


 まるで心の内を見透かされているようで、甲斐はつい目をそらしてしまった。否定も肯定もできなかった。


「べつに隠さなくていい。もう何回もやられてるし、慣れてるから」

「そんなにか」

「うん」


 思わず、陽奈の瞳を真正面から見つめてしまう。

 わずかに吊り気味の、大きくはっきりとした眼。光に当たると赤色が交じるその瞳は、今は人形のように光がなく、ただ静かに、黒かった。


「もう知ってると思うけど、お金ならあるから。捨てられようが壊されようが、どうでもいい」

「そういう問題じゃないだろ」


 咄嗟に口調が強くなって、甲斐は慌てて声を落とした。「お金があるから、じゃなくてさ。自分のものをそんな風にされたら嫌だろ」

「でも、それで丸く収まるなら……」


 いつも抑揚のない陽奈の声が、ほんの少し、揺れている。隠しきれない感情がその奥にあるのだと、わずかな揺らぎが甲斐に教えてくれる。


「だから、もう、学校では関わらないで。下手に関わられるとかえって面倒だから」

「でも……」


 どうしても、納得がいかなかった。愉快そうに陽奈を蔑み、持ち物を壊し、大声で貶めて嗤う彼女らが。甲斐の姿を見た途端に慌てて隠し、媚びを売るような上目遣いになったのも虫唾が走る。


 ――そういうところが、母にそっくりだ。大抵の女はみんな母親と被って見える。


「わかった。今度からもっとうまくやろう」

「返事になってないんだけど」

「上島さんに迷惑はかけない。ただ俺が嫌だと思ったことには、俺自身で対処させてもらうだけだ」


 そうきっぱり言い切ると、陽奈は黙り込んだ。目を伏せて、再び自分の膝頭に視線を投げる。


「そう」


 いつも通りの、素っ気ない声が返ってきた。それだけで、なぜかほっとした。


 結局、陽奈がなぜこの公園にいたのかはわからずじまいだった。そろそろ母親に不審がられる、とベンチから立ち上がっても、陽奈は動かなかった。何時までいるつもりなのかも、わからない。


   *


 朝、制服を着崩した女子生徒たちが笑い声をあげながら入ってくる。自分の机までわざと遠回りして、陽奈の机や椅子を蹴っていく。だがそれくらいだ。最近、目立った嫌がらせは減った。少なくとも、目の前で持ち物を壊されたり、人目につかないところに連行して乱暴するといったことは、久しくされていない。されていないというより、できないのだ。


 今も、廊下を行く他クラスの男子たちの姿が見える。その中に甲斐がいて、気さくそうに笑っていた。甲斐が通りかかると彼女たちは何もしなくなる。甲斐とよく一緒にいる取り巻きが通るときもおとなしい。彼らが目にしたことを逐一甲斐に報告するとでも思っているのだろうか。意外に小心者だなと、少し愉快な気持ちになる。


 甲斐は自分との約束があるから、迂闊に助けに入れないのに。堂々とやればいいのに。見た目のいい男子に決まり悪いところを見られたくなくて必死なのだ。なんてつまらないひとたちなんだろう。


 関わるなと甲斐には言ったが、内心気が楽になっているのも事実だった。それにしても通り過ぎるだけで女子の視線をかっさらうなんて、影響が絶大すぎる。


 ――あ。


 思わずあげそうになった声を、陽奈はかろうじて呑み込んだ。


『ただ俺が嫌だと思ったことには、俺自身で対処させてもらうだけだ』


 この間耳にした言葉。もしかして、これも、彼の……


 陽奈に迷惑はかけないと、うまくやると、彼は言った。まさか警備のようなつもりで、こうして時々通り過ぎてくれているのだろうか。周囲の男子たちと仲良くして、一緒にトイレに行ったり他教室を覗いたりして――


 まさか。まさかだ。そこまでする義理は彼にはない。いくら自分が不愉快だからって、人のいじめのために、そこまでは。


 今も、彼女らが髪を手櫛でなでつけたり、眼をぱちぱちさせたりしている。彼が少しでもこちらを見た瞬間に色目を使う気なのだろう。ばかばかしくて笑いがこみ上げそうになる。


 考えてみれば、こんな風に常日頃からいちいち色目を使われては、彼もさぞ居心地悪いだろうなと思う。自分が彼の立場なら鬱陶しいことこの上ない。見た目がいいというのも考えものだ。


 彼と関われば関わるほど、順風満帆に見えていた彼の私生活にも少しずつほころびが見えてくる。同志にならなければきっと気づけないくらいの小さな、根の深いひび割れ。まだ全容はわからないが確かに存在しているのだ。改めて、彼の死にたい事情を軽んじていた過去の自分を恥じた。

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