第5話 作戦会議 二
物思いに耽りかけた甲斐の耳に、「いつ行くの」という声が届く。意識が引き戻された。
「もうすぐ期末もあるし……まあ、夏休みが無難かな」
「そう。わたしはいつでも」
「俺もいつでもいいけど、ちょっといろいろあって……具体的な日付は今すぐ決められない」
理由は、全面的に母にある。
休みの間の外出についてはすべて許可を得なければならない。そのためには母の機嫌を最大限まで引き上げておく必要があるのだ。失敗すれば大げさに不安がって甲斐を引き留め、家に閉じ込めかねない。
「今日、帰って確認できたら連絡するから」
「わかった」
紅茶のポットは、いつの間にかほとんど空になっていた。お菓子の山もごっそり削れて更地になりかけている。甲斐は全く手をつけていないが。
スマホの時刻を見ると、午後四時を過ぎていた。なんとなくまだ三時頃のような気がしていたが、もうそんなに経っていたのかと驚いてしまう。
「じゃあ……とりあえず、こんなところか」
甲斐は計画書の紙を指先につまむ。
「これ、どっちが持ってようか」
言いながら、裏面に羅列したリストの施設名をちらりと見やり、机に置き直した。
「上島さんが持ってて。俺は写真撮っとくから」
陽奈は黙って紙を見下ろした。
「……あの」
スマホを構えた甲斐のほうへ、小さな声を向ける。
「うん?」
陽奈は何か言いたげに口を開けていたが、閉じた。そして目をそらす。
「学校では、わたしに関わらないで」
「なんで? ……まあ、あんまり親しげにしてると、計画に支障があるか」
「それもあるけど、あなたといると目立つから」
さも迷惑そうな顔で続ける。
「あの人たちがめんどくさい」
「……ああ」
例の女子生徒たちの姿が浮かぶ。彼女らが日頃、自分を平然と盗撮していることは知っていた。堂々と陽奈に関わるところを見せてしまったら、一層ひどく虐めるかもしれない。
自分の顔が、改めて忌々しく思えた。
*
甲斐が帰ったあと、陽奈はキッチンでティーセットをぼんやりと洗っていた。彼を見送ることはしていない。ただ門が閉まったのを確認して、スマホからすべての鍵を施錠させただけだ。
宅配ピザを頼むには、まだ時間は早い……
ため息をついてキッチンを出る。居間に戻り、ひとりでソファに座り込んだ。柔らかなクッションに埋もれながら、ふと真正面の、今は誰もいないソファを眺める。
ここに誰かを呼んだのは初めてだった。それがまさか男子になろうとは。
テーブルの上に、『プシャール』の紙袋が置かれている。駅前にある小さなパン屋で、登校前に行くといつも人でいっぱいになる。根強いファンが多いのだ。陽奈もその一人だった。
袋に手を伸ばす。折り曲げた口を開くと、もう冷めているはずなのにどこかぬくもりのある匂いがした。飽きるほど食べているのに大好きな、シュガーロール。それが三つも入っている。
甲斐は、あの日陽奈がこれを食べていたのを覚えていたのだ。そしてわざわざ買ってきた。辛党のくせに。自分が食べるでもないものを、陽奈のために。
そっと手を入れ、一つ取り出す。透明な袋を捲って、一口囓った。約束されたその味に食欲は増し、あっという間に一つ平らげてしまう。
ピザが届いてから一緒に食べようと思っていたが、陽奈は我慢できずにもう一つ袋を破いた。柔らかなパンを囓りながら、テーブルの上に残された計画書に目を落とした。
あの日甲斐に出会うまで、こうして誰かと自殺の計画を共有するなど思いもしなかった。ひとりで抱え、ひとりで死ぬものだと思っていた。――いや、今もひとりであることに変わりはない。彼は目的を共有する同志であって、友ではない。
――九月二十二日、か。
のそりとスマホを取り出してカレンダーを開く。〈屋上が開く日〉を取り消して、〈自殺予定日〉と打ち込んだ。それから何気なく今日の日付までスクロールしてみて、その長さに深々とため息がこぼれた。
今日は六月二十六日。まだこんなに、生きなくちゃならない。
気が遠くなりそうだった。予定日までに何かの拍子で屋上が開いていることがあったら、迷わず飛び下りてしまいかねないほどに。だがそうすると甲斐が困るのだ。彼の自殺の目的に支障が出てしまう。
不思議だった。以前ならそんなことどうでもよかったのに。他人の事情なんて無視すればいいと思えたのに。菓子パン一つでほだされてしまったのだとしたら、自分の単純さが腹立たしい。
そういえば、彼はなぜ、死にたいのだろう。
甲斐は学校で男女問わず人気がある。腹の立つくらい長い脚と整った容貌のためだと思っていたが、おそらくあのお人好しげな性格もあるのかもしれない。顔つきは精悍で、ともすれば冷たささえ感じるくらいきりりとしているのに、目つきは優しいのだ。
自然と、倉庫の扉を開けてくれた甲斐の顔が思い浮かんだ。おそらく派手に騒いでいたクラスメイトたちの声を聞きつけ、状況を察して助けてくれたのだろう。中に誰がいるかなど関係なく。
『それ、保健室で見せた方がいい』
こちらを真っ直ぐに見つめる黒い瞳。そこには侮蔑も嫌悪も、吐き気のするような憐れみも感じられなかった。今まであんな目を誰かに向けられた記憶は一度もなかった。
武田甲斐。不思議なひとだ、と思う。いや、真剣に自殺を企てているくらいだから当然か。少なくとも普通の人間の思考にはなれないのだろう。
袋に手を突っ込み、はっと手を引っ込めた。こわごわと中を覗き込む。シュガーロールは最後の一つになっていた。――しまった。夢中で考え事をしていたせいでつい食べすぎてしまったのだ。
こうなったら開き直るしかない。一個だけ残しても仕方ないので潔く食べてしまおう。最後のパンを取り出して目を閉じる。袋を剥き、大事に、丁寧に、かぶりつく。舌に広がる心地よい甘さを噛み締めながら、陽奈の思考はまた、甲斐に傾いた。
彼の口からは時折家族の存在を思わせる言葉が出てくる。自分の無残な死に様に絶望させたいのは母だとも言っていた。陽奈と同じで、学校の環境は自殺の大きな理由ではないのかもしれない。その家族の存在こそが、死にたい原因の根幹であるとしたら――
そこまで考えて、陽奈は首を振った。勝手な想像だ。
……でも、もし本当なら。少しだけ、羨ましいかもしれない。
少なくとも、家に帰れば誰かがいるというだけで、陽奈とは住む世界が違うのだから。
夕飯も入浴も済ませて自室のベッドに寝転がっていると、ふいにスマホが鳴った。陽奈はのそりと手を伸ばす。このスマホに連絡してくる人間などひとりしかいない。
〈夏休みの予定がわかった。
ごめん、確認してみたら、家の用事とか田舎に帰るのもあって、三つとも全部夏休み中には行けそうにない。空いてるのは、
・8/5(木)
・8/20(金)
どっちの日にどこに行くか、選んでくれないか〉
案の定甲斐からだった。ずいぶん限定的だ。年中予定のない陽奈からすれば多忙で大変だなと思う。
〈べつに、どっちでもいい〉
〈まあそう言うと思ったけど。でも、どれも上島さんのやり残したことだから。できれば君に決めてほしい〉
陽奈は深々とため息をついた。誰かと出かけるというだけでも初めてのことなのに、予定を自ら決めるなんて困惑する一方だった。
〈どうしても?〉
〈どうしても〉
陽奈は再びため息を吐きながら、のそりと起き上がった。勉強机の上に手を伸ばして、自殺の計画書を手に取る。裏面に書かれた施設の名前をじっと見つめ、スマホに返事を打ち込んだ。
〈遊園地、水族館、のじゅんで〉
遊園地や水族館は予測変換が素早く正確に出るので打ちやすい。返事はすぐに来た。
〈了解。五日に遊園地、二十日に水族館だな。時間はどうする?〉
今度は時間か。陽奈は悩ましげに眉を寄せる。
〈どうしたらいい〉
次の返事が来るまで少し待たなければならなかった。やがて送られてきた文は、その待ち時間を反映するかのように丁寧で、長かった。
〈たとえばだけど。上島さんは初めての遊園地だから、いろいろ乗りたいものもあるだろうし、地図を見ながら悩む時間も必要だと思う。だったら開園時間の十時に着くようにすれば、いろいろ安心かとは思うけど〉
読みながら、そういうものなのか、と思う。あいにく行ったことがないので、彼がそう提案するなら従うのがいいのだろう。
〈じゃあそれで〉
〈わかった。じゃあ、ちょっと待って〉
また少し経ってから、今度は画像が届いた。当日の電車の乗り継ぎと時刻を表示したスクリーンショットだった。手際の良さに感心してしまう。
〈この時間に改札前にいて。それか、俺と行くのが嫌だったら現地集合でもいいけど〉
目的地の新滝濱に行くまで、快速電車一本で行ける。だがそこから先の行き方なんて知らない。スマホの地図を頼ればいいのだが、陽奈はそういうことに関して絶望的に不慣れだった。
仕方がない。
〈現地しゅうごうがいいけど、わからないから、駅でまちあわせる〉
〈正直に言ってくれるなあ。わかった、じゃあ当日は改札前で。ついでに水族館の方も決めとこう〉
そうして、遊園地と同様に、水族館の行き方も決まった。あとは当日を何事もなく迎えるだけだ。
〈これで決まりだな。それじゃ当日よろしく、上島さん〉
〈まって〉
焦るあまり、今までにないほど素早く指を動かす。
〈いるもの、おしえて〉
〈いるもの? 当日の持ち物? 特にないけど〉
それからすぐ、慌てたようにまた文字が送られてきた。
〈嘘、あるある。学生証と、当然だけど財布。学生証を受付で見せたら遊園地は入場料半額で乗り放題になるし、水族館も学生料金だから。あと、どこかで昼食をとることになるから、その分のお金も忘れずに〉
ただ園内のレストランって高いんだよな、と文字が続く。そうなんだ、一体どれくらいするんだろう、と陽奈は考えつつ、返事を打った。
〈わかった〉
もう会話は続かないだろう。陽奈はスマホを枕元に放って、もう一度ベッドに寝転がった。
遊園地はどんなところなんだろう。なんとなく、巨大な観覧車やものすごく速いジェットコースターがあることくらいは知っている。暇つぶしにテレビを見ていた頃に目にしたことがあった。だが実際の広さや空気感は知らない。未知の世界だ。陽奈はスマホを手に取り、ブラウザを立ち上げた。〈シンタキパーク〉と打ち込みかけたところで、ふと手を止める。それから画面を閉じてスマホを手放した。
事前に調べるのは楽しみが減る。せっかく行く機会ができたのだ、当日までこのわくわくした気持ちを取っておきたかった。
――わくわく、している?
無意識に手を胸に当てる。心臓がことこと、高鳴っているのを感じた。何かに心をはやらせるなんて、楽しみに思うなんて、そんなことがあっていいのだろうか。自分にそんなことが許されていいのだろうか?
『あんたは連れて行けないわよ。あたしの邪魔ばっかりして、二度と顔も見たくない』
ふいに凍てつくような声が耳元に甦り、陽奈の心臓がどくんと跳ね上がった。渇いた喉に息が上がる。手が震え、唇が戦慄く。
――お母さん。
――お母さん。
幼い自分の声が脳内にわんわんと反響する。陽奈は耳を塞いで叫び声を上げていた。首を激しくふりかぶり、ベッドの上で身を捩る。
甦るトラウマをいくら消そうと頑張っても、記憶は陽奈を追い詰めた。消したい。今すぐ消したい。髪をかきむしり、拳で額を思い切り叩く。頬も、胸も、腹も、太股も、届く場所を手当たり次第に力いっぱい痛めつけた。強い痛みで気が削がれれば、いつか頭の中から追い出せる。
ようやく幻影を追い払えた頃には、身体のあちこちに真っ赤な痕が散っていた。じわじわと頭が冷えてくる。乱れた息を吐きながら、身の回りの荒れた惨状を見渡した。
せっかく、右目の痣が消えかけていた頃なのに。また違う痣になるかもしれない。
力なく、横たわる。部屋の明かりを消して、布団を頭から被りこんだ。
未知の楽しみに高鳴っていた胸は、静かに息を潜めている。
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