第4話 作戦会議
土曜日。駅から海側へ向かって徒歩十分ほどの距離に陽奈の家はあった。スマホで地図を見ながら歩いてきた甲斐は、眼前にそびえる邸宅を見上げてぽかんと口を開けてしまった。
黒とベージュのツートンカラーに洗練された、モダンなデザインの家だ。高さこそ二階建てだがとにかく横に広く、コの字型に曲がっている。邸宅を取り囲むように鮮やかな緑の芝生がぐるりと敷かれていて、周囲に建つ背の高いマンションや邸宅の中にいても負けないくらいに目立っていた。
呆気に取られながらも陽奈からもらった住所を地図アプリに打ち直して確認してみる。矢印は間違いなくここを指していた。門の横に取り付けられた銀色のプレートにも「KAMISHIMA」と印字されていて、認めるほかない。
おそるおそる、インターホンに指先を近づける。触れるか触れないかの瞬間、スピーカーからざざざと音が響いた。
『開いてる』
抑揚のない声がふつりと途切れた。訝しみながらも門扉の取っ手に手をかけ、回してみる。――するりと動いた。門扉をくぐりぬけると触れてもいないのに扉は閉まり、かちりと施錠される音がした。
おっかなびっくり、広々とした緑の芝生の間の石畳を歩き、玄関の扉の前に立つ。こわごわ引っ張ってみると、同様に鍵は開いていた。軋んだ音を立てる扉の向こうに、陽奈が立っていた。
「お邪魔、します」
初めて見るお金持ちの家にすっかり萎縮してしまいながらも、甲斐は陽奈の姿を改めて見やった。
少し膨らんだ形の黒いショートパンツにTシャツという出で立ちだった。それだけ見れば別に普通なのだが、Tシャツの真ん中にでかでかと書かれた「CUTE!」の文字が絶望的にダサい。甲斐はふと小学校時代を思い出した。クラスメイトの女子がこんな恰好をしていた気がする。
それだけに、あの右眼の眼帯が異様に目立って見えた。
陽奈が「上がって」と促す。甲斐はこわごわと周囲を見回した。玄関だけでも甲斐の家のリビングより広くて、白くつるつるした光沢のある床やくすんだベージュの石壁、吹き抜けの高い天井はまるで高級ホテルのようだ。親が資産家なのか? 社長か何かなのか? 訊ねてみたいが、あまり詮索するのもよくないだろうと、ぐっとこらえる。
「靴は、ここに置いてていいんだよな」
「うん」
当然のように返されるが、甲斐の薄汚れたスニーカーはこの美しい玄関にはまったくそぐわないどころか、置くだけで汚してしまいそうに思えて、ひどく恐縮してしまった。
案内されたのはソファとテーブルのある空間だった。ここも天井が高く吹き抜けになっており、黒いアイアンの手すりのついた優雅な階段が二階へぐるりと続いている。奥の壁にはまた別の扉と、隣に豪華な銀の鏡がある。
「座って」
いかにも高級そうな白いソファに腰を下ろすのは抵抗があったが、おとなしく言うことをきいた。ソファは甲斐が座った瞬間、ゆっくりと沈み込んだ。このまま昼寝をしてしまいたくなるような心地よさだ。
陽奈は何も言わずにどこかへ行ってしまった。まもなくして、ふと何やら甘いような、香ばしいような薫りが鼻をつき、甲斐は目を上げる。陽奈が盆を手に入ってきた。赤茶色の紅茶の入ったガラスのティーポットと、二人分のカップ。そして真ん中の白い大皿には、チョコレートやクッキーなどの菓子が山盛りに積まれている。
「ごめん。そんな、気を遣わなくていいのに」
慌てて手を振ったが、陽奈は黙ってカップに紅茶を注いでくれた。香りはより濃さを増して、部屋の中に漂う。
「ていうか、すごい量だけど……食べきれるのか?」
大皿に山をなすお菓子を見下ろして訊ねると、陽奈はじろりとこちらを睨んだ。
「別に、あなたのために持ってきたんじゃない」
とだけ言って、早速チョコレートの包みを一つはがして口に放り込む。甲斐は迷った挙げ句、肩から提げていた紺色の鞄に手を入れた。
「あのさ、これ」
中から茶色い紙袋を取り出す。筆記体で「プシャール」と印字されたその口を開けると、温かみのある匂いがふわりと薫った。
「わざわざ、家に呼んでくれたから、一応礼のつもりで……」
次の瞬間、ひったくるようにして袋を奪われる。陽奈は紙袋をのぞき込み、小さく唇を開けた。
「シュガーロール……」
「好きだよな、たぶん」
あの日、甲斐が二人の自殺を提案したとき、彼女がひたすらもぐもぐと食べていたロールパンだ。陽奈は呆気にとられたような顔をした。
「……うん」
気のせいだろうか、血色の悪い白い頬に薄らと赤みが差しているような気がする。
陽奈は丁寧に袋の口を閉じ、そっと丁重にソファの横に置いた。それから、ものすごく聞き取りづらいか細い声で「ありがとう」と囁く。
彼女の口からそんな言葉が出るとは思わず、甲斐は軽く目を瞬いた。
「いや、まあ、適当におやつにでもしてくれたら」
「これは夕飯にする」
「さすがにそれだけじゃ足りなくないか?」
「ピザを頼むから、足りる」
ピザ? 甲斐は一瞬眉をぴくりと動かしたが、それ以上追及しなかった。彼女の情報は数少ないが、この休日の真昼間に誰もいない家を見ると、少なくともいつでも親がいて夕飯が用意されているような家庭ではなさそうに見える。
気を取り直して、甲斐は鞄からルーズリーフとペンを取り出した。
「じゃあさっそく、本題に入るか。俺たちの計画」
たちまち、陽奈の表情も引き締まった。黙って盆を脇に寄せ、テーブルの真ん中を空けてくれる。
甲斐はそこに用紙を載せ、ペンを走らせた。
〈自殺計画〉
「まず、どこから決めようか……場所は屋上だな。第一校舎の」
陽奈もうなずく。甲斐はタイトルの下に〈場所・・・第一校舎屋上〉と記入する。
「となると、次は日付だな。あそこは滅多に開いてない。前回俺は、あの日に業者の設備点検があるっていうのをたまたま知ったんだ。ただあの日を逃すと、次はいつになるか――」
「次は九月二十二日、水曜日」
スマホを見ながら淡々と、陽奈が答える。甲斐は目を丸くした。
「なんで知ってるんだ?」
「用事で職員室に入ったとき、予定表があったから」
「……すごいな。ありがとう、助かった」
素直に感心するが、陽奈は何でもなさそうに紅茶を啜っている。
「じゃあ、あとは時間か。俺はあの日と同じで昼休みがいいと思う。生徒はみんな暇そうにだべってるし、食堂も近いし、先生たちもだいたい職員室にいる。見せつけるにはうってつけだと思うけど」
「うん。みんな落ち着いてるころがいい」
「じゃあ午後一時半、てとこか?」
陽奈がうなずく。「決まりだな」と甲斐はペンを走らせる。
〈日時・・・九月二十二日(水) 午後一時半〉
そこまで書き切って、改めて計画書を見直す。下の空白が寂しいが、こうして文字に起こすと何か心にくるものがあった。
「なんか、すんなり決まったな」
「まだ足りない」
陽奈が甲斐の手からペンを奪う。用紙を自分に向けて、計画の下に新たに書き足した。甲斐は訝しみながらもその手元をのぞき込む。
「演……出……?」
「できるだけ、周囲にショックを与えたいから。一生、目に焼きついて離れないくらいに。……わたしはあの日、スカートの下に血糊の入った袋をいっぱいつけてた」
「え、……血糊?」
思わず陽奈の顔を凝視する。彼女の表情は真剣そのものだった。冗談には見えない。
「わたしの身体が地面に衝突したとき、衝撃で割れて、広範囲に飛び散るようにしたの。血糊の中に細工して、肉に見えるものも混ぜて」
「そこまでいくと、もう映画の舞台演出だな」
甲斐の言葉に、陽奈は深くうなずく。
「……そこまでやる意味が、わたしにはあるから」
「わかった。じゃあ作ろう。俺も手伝うよ」
〈演出・・・血糊の袋、一人五個〉と陽奈が書き加える。一人五個とはずいぶん具体的な数字だ。
「それくらいか?」
「ううん。ゲストがいる」
陽奈が〈ゲスト〉と書く。
「誰か呼ぶのか?」
「わたしたちが落ちる場所の近くに、あらかじめ呼んでおきたい人たちがいる。でもそれはあなたには関係ないから、わたしが勝手に呼んでおく」
「そうか……」
誰か、とりわけ見せつけたい相手がいるのだろう。ふと、陽奈を閉じ込めて高笑いしていた女子生徒たちの姿が浮かんだ。
甲斐は苦しげに息を吐く。次に言わんとする言葉を口に出すかどうか、迷った。
「俺はさ、特に誰ってのは学校にいなくて、ただできるだけ大勢のやつらに見せつけたいだけなんだ。……一番は、親だから。俺の無残な、形すらまともに残っていない遺骸が晒されたのを知って、発狂すればいいと思ってる」
「なに、急に」
「いや……」
甲斐は気まずそうに目線を逸らした。
「俺だけ、君の……上島さんの事情を垣間見ちゃったから、フェアじゃないと思って」
「わたしの事情?」
陽奈は少し考えて、ああ、と呟いた。
「あの日の、倉庫の」
「……うん」
「あの人たちに関しては、ほんの些細なことだから。自殺の直接の理由じゃない。まあ、近くで見せつけて一生のトラウマにはしてやるつもりだけど」
陽奈は一旦口を閉じた。それ以上言いたくなさそうだったが、甲斐の「フェア」という言葉がひっかかったのだろう。小さく、付け加えた。
「わたしも、他に見せつけたい人がいる」
それが誰かまでは、ついぞ言わなかった。
それからしばらく、互いに無言だった。陽奈の手が大皿に伸び、お菓子の包みを破いては口に放り込む音だけがかさかさと響いている。見ているとどうも、彼女の胃は無尽蔵のように思える。
「上島さんて、結構甘党?」
ばりばり、また一つ包みを破きながら陽奈はうなずいた。
「うん」
「そっか。……俺はそこまでだな」
「あっそう」
さして興味もなさそうにチョコサブレを頬張っている。もごもご口を動かしてごくりと呑み込むと、「損してる」とだけ言った。
心外である。
「いや別に、君ほどじゃないってだけで普通に好きだけど。どっちかっていうと辛党かな俺は」
辛党、という言葉を耳にした途端、陽奈は信じられないものを見るような目をした。
「じゃあ、あなたは敵」
「なんでだよ」
「そんなの食べるなんて理解できない」
「もしかして、辛いの苦手?」
陽奈は答えないが、表情がすべてを物語っている。甲斐は苦笑を上らせた。
「聞いておいてよかった。実は迷ったんだよな。結局あのシュガーロールが好きそうだったから買ったけど、俺のおすすめのジョロキア煎餅も捨てがたくてさ。ほら、コンビニにある」
「そんなの持ってきたら、絶対家に入れなかった」
苦いものを噛み潰したような顔をしている。本気で苦手らしい。その様子が妙におかしくて、口元に自然と笑みが滲んだ。
「そういや昔、新滝濱駅の方にお菓子の遊園地ってところがあってさ。もう潰れたけど。でかいチョコレートの滝があったんだよな。上島さんは行ったことある?」
「……ない」
陽奈は静かに首を振る。
「そもそも、遊園地という場所自体、行ったことないから」
「遊園地に?」甲斐は思わず聞き返す。「今まで、ただの一度も?」
「うん」
相変わらず表情は薄いし、声も抑揚がないので感情を読み取りづらいが、なんとなく、どこか寂しげな空気を感じた。
「まあ、お菓子の遊園地ってのは、実際の遊園地じゃなくて、そういう名前の建物だったんだけどな。――そうか、遊園地、行ったことないのか……」
甲斐はぶつぶつ呟いて、何気なく窓の外を見やった。真っ昼間の夏空は綺麗に晴れ渡っていて、陽気な光を惜しみなく降り注いでいる。だがこの部屋はまるで陽光を拒むかのように翳っていて、沈んだ空気に満ちていた。
それもそうだろう、この部屋に集まった目的は、決して陽の下に晒すものではないのだから。
「行きたいと、思ったことは?」
改めて訊ねると、陽奈は目をしばたたかせた。手の中の紅茶のカップに目線を落とす。
焦れったいような時間をかけて、彼女はようやく、かすかにうなずいた。
「……ある」
「今は?」
訊ねてから、ふと思い至る。
親のいなさそうな家。学校でのいじめ。ひとりぼっちでパンを囓る昼食。彼女を囲む現状がその答えだとしたら。
「もしかして、行く相手がいないとか、そういう理由?」
ぴくりと、陽奈の肩が強ばった。図星のようだ。
よほどの物好きでもない限り、遊園地などの娯楽施設にひとりで行くことはない。たいていが家族や友達、恋人などを連れている。そこへ女子高生がたったひとりで突撃するのは無理があるだろう。
甲斐はわずかに身を乗り出した。
「もし今も行きたいなら、俺で良かったら相手になるけど」
陽奈が驚いたように顔を上げたので、甲斐は慌てて付け加えた。
「別に、そういう意味の誘いじゃなくて、ただ俺を頭数にして、あとは上島さんが自由に遊べばいいかなって思っただけだから」
そう言いつつも、すぐに断られるだろうと思っていた。いつもの調子で素っ気なくあしらわれるに違いない。わかっていてなぜそう提案してしまったのか、自分でもよくわからなかったが。
陽奈は紅茶を啜り、ほっと息をついた。目を伏せたまま、小さく口を開く。
「死ぬまでに一度、行ってみたいとは、思ってた、けど」
死ぬまでに、一度――その言葉が甲斐の心をゆらす。抑揚のない彼女の、小さくか細い、ささやかな悲痛の声。
「わかった」
甲斐は計画書の紙をひっくり返した。
「九月二十二日までまだ時間はある。この際、思い残すことのないように、やりたいことをやっていこう」
再びペンを取り、さらさらと書き出す。
〈予定日までにやりたいこと〉
「遊園地がまだってことは、他にもあるんじゃないか? たとえば……」
「水族館」
食い気味に、陽奈が言った。そうか水族館もか、と甲斐は驚く。
「小学校の遠足で行かなかったのか?」
「休んだから」
「そうか……」
それは気の毒だ、と思う。水族館を書き加えた。
「あとは?」
「プラネタリウム」
「プラネタリウム? ……科学館、てことか?」
陽奈が黙ってうなずく。
「一応、訊くけど……小学校の校外学習で行ったりは」
「休んだから」
「そうか……」
小学生の頃の陽奈は、何かと運が悪かったようだ。あるいは、あえて休まなければならない事情があったのか。
「他にあるか?」
陽奈は難しい顔をして考え込み、小さく首を振った。
「今は思いつかない」
「わかった。じゃあこの三つでとりあえず考えるか」
甲斐は今しがた書き込んだ施設を見下ろす。
「近場なら、新滝濱に行けば三つとも叶えられると思う。遊園地なら『シンタキパーク』があるし、『新滝濱マリン館』もあるし、プラネタリウムは市立の科学館に行けばある」
立て続けに出てきた施設名に、陽奈は戸惑っているらしい。困ったような顔で甲斐の書き込んだ字をまじまじと見つめていた。
「なんでそんなに、詳しいの」
「別に詳しくはないけどな。小学生の頃はよく行ってたからさ。休みの日とかに」
「……そう」
――でも今は、遠い思い出になってしまった。
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