第2話 お互いじゃまだから
上島陽奈は、入学当初から武田甲斐の存在を知っていた。
知りたくなくたって、彼の噂は耳に入ってくる。女子生徒たちが常日ごろ話題にしているし、彼が運動場を走るだけでスマホがカシャカシャ鳴りだす。迷惑なことこの上ない。
だが幸いにも、彼とはクラスが離れている。今年なんてA組とD組だ。階段を挟んでより距離が遠くなった。先週の体育祭のときはさすがに目立っていたので眼に入ったが、周囲の黄色い声援が不愉快すぎてすぐに視界から追い出した。それ以降は姿を見かけていない。
それなのにこの間、よりにもよって屋上で出会ってしまった。初めて間近に見たが、腹が立つほど背が高く、綺麗な顔をしていた。
誰が見たって順風満帆な生活をしているくせに、どうして死にたがるようなことがあるのだろう。
「かーみしーまサーン」
愉快そうな、わざと間延びした声がすぐ背後から聞こえてきた。振り返らずとも、クラスメイトたちの意地の悪いにやつき顔が目に浮かぶ。
「無視してんじゃねーよ」
がん、と椅子を蹴られて、腹に机の端がめり込みかける。
「よく学校来れるね、毎日毎日さあ。ウチら、おまえの顔見てるだけで不愉快なんだけど」
「インキャくせーもん」
「つか、キモいよね。なんつーか全体的に」
陽奈は黙ったまま顔を伏せている。決して言い返したり、何か反応を見せるようなことがあってはならない。余計に煽ってしまうからだ。
彼女たちは昨年から同じクラスで、陽奈を虐めて日頃の憂さ晴らしをしていた。そこに深い理由や事情などおそらくないだろう。面白がっている、ただそれだけだ。だから意地でも反応してやるつもりはなかった。
彼女たちもそれが不満なのか、がっと強く陽奈の腕を掴んだ。
「ちょっと来いよ」
ドスのきいた声で、陽奈の身体を無理やり椅子から引き上げる。咎める者はいない。みんな彼女たちのいいなりか、一緒になって面白がっている。
今までずっと、周囲の状況は変わっていない。
「おら、入れよ!」
廊下を引きずられ、どこに連れて行かれるのかと思ったら、特別校舎の物置だった。背中を突き飛ばされ、固い地面に転がり込んだ。砂の混じった埃を思い切り吸い込んでしまい、げほげほと咳き込む。膝に鈍い痛みが走ったと思ったら、盛大に擦りむいていた。
「あームカつく!」
硬いローファーの先が飛んできて、背中を思い切り蹴り上げられた。
「いっつもスカした顔しやがって、舐めてんのか? ああ?」
「だっせえイモ女のくせに!」
一人がやり出すと、みんな便乗して蹴り始める。陽奈はひたすら息を詰め、じっと耐えていた。その瞳にもはや生気はない。無感情な、プラスチックの塊のように地面に転がっている。
さんざん足蹴にして、ようやく彼女らも飽きがきたらしい。とりあえずのストレスを発散できたとみえて、「あーすっきりした」と、スカートをぱんぱんはたいた。
「そういや、ここ取っ手ぶっこわれてて、中から開けらんないらしいよ」
「マジ? それやばくね?」
「だいじょーぶ。あたしがテキトーな段ボール挟んどいたから」
「リカやるじゃーん!」
などと口々に言い合い、扉を開く。出て行きがてら、
「じゃーね、カミシマさーん」
と言い捨てて行ってしまった。
分厚い扉が重々しい音を立てて閉まる。薄汚れたコンクリートに囲まれた狭い空間はたちまち暗闇に包まれた。陽奈はようやく、詰めていた息を吐き出した。
ゆっくりと起き上がって、固い壁に背をつける。中は蒸し暑い。だがひとりになれて、ようやく気分が落ち着いた。しばらくこのままでいたかった。
それなのに、あの男が来てしまった。
わざとらしい咳払いがしたと思ったら、扉が開けられてしまった。武田甲斐は驚いたように立ち尽くしていた。だがこちらも、突然現れた彼の姿に相当驚かされたのだ。妙に腹立たしくなり、用がないなら帰れと強く告げた。しかし彼は動かない。
「せっかく開けたんだからさ、もう、出たら」
などと、いかにも親切そうな声音でこちらを促してくる。来たタイミングから察するに、ここで行われていたことを見るか聞いたか、したくせに。
それでも無視していると、しまいには「こんなとこに閉じ込められていたら、絶対死ぬ」とまで言ってきた。呆れてものも言えない。ついこの間、自殺日が被ったばかりだというのに。こちらが死にたいのを承知しているはずなのに。
だが、本当は陽奈もわかっていた。こんな部屋で蒸し焼きになるわけにはいかないことを。どうしても学校の屋上から飛び降りて、盛大に、派手に、死にたいのだから。そこを武田甲斐に救われたのだ、礼の一つも、言うべきだったかもしれない。
陽奈は結局、何も言わないまま足早にその場を去ってしまった。彼はきっと、今度こそこちらに不信感を抱いただろう。だがそれがなんだというのだ。自分は元々、全世界から嫌われている……
そんな風に考えながら歩いていると、前方で「あら」と声がした。目を上げれば、年配の養護教諭が立っている。優しげに細めた眼でこちらの膝頭を見下ろして、もう一度「あらあら」と言った。
「こけちゃったのかしら? 傷は洗ったの?」
そこでようやく、周囲の景色のピントが合う。無意識のうちに、なぜだか保健室の前まで来てしまっていたらしい。
「いえ、あの――」
「そこの水道で洗うといいわ」
と、すぐそばの手洗い場を示される。養護教諭は陽奈が洗うのを見届けるつもりらしく、その場に立ち止まっている。仕方なく、蛇口を捻って膝を洗った。
「その右眼、ものもらい?」
保健室の中で、陽奈の膝の傷口に消毒液を染みこませながら養護教諭が訊ねる。
「はい……」
ぎこちなくうなずいた。
「そう。病院は行ったの?」
「まあ……」
傷口の上から、白く清潔なガーゼが貼られる。
「じゃあ、目薬なんかもちゃんともらってるのね?」
「はい……」
「ちょっと見せてくれる?」
突然そう言われて、陽奈は咄嗟に眼帯を抑えた。
「まあ、恥ずかしがることないのよ。どんな具合か、ちょっと確かめておきたいだけだから」
うふふ、と養護教諭は脳天気に笑っている。だが陽奈は必死に首を横に振った。
「い、いいです。あの、本当に、すごく腫れていて、誰にも見せたくないので」
そう言い置いて、慌てて椅子から立ち上がる。二の句を告げられる前に、足早に保健室を飛び出した。
この眼帯の下は、見せるわけにはいかない。学校の教職員などに知られたら大事になってしまう。それだけは避けたかった。
蒸し暑い廊下に予鈴が鳴り響く。焦る陽奈をさらに追い立てるように、大げさな音を立てて響き渡っていた。
*
「武田、明日の昼、暇? モール行こうぜ」
教室に戻るや否や、クラスメイトの佐藤が声をかけてきた。
「な、いいだろ、吉田も伊藤も来るしさ」
「あー……」
甲斐は軽く頭を掻いた。明日は土曜日だ。直近のカレンダーを瞬時に思い出し、首を横に振る。
「来月に入ったらすぐ、期末だろ。さすがにパスかな」
「えー、マジかよお」
佐藤の嘆きが聞こえたらしく、窓辺で話していた吉田と伊藤もやってきた。
「なになに? おまえまたフラれちゃった?」
「ちげーし、悪いのはテストだし!」
「あ、そういや期末あるんだっけ」
「武田は真面目だからなあ」
佐藤悠人は甲斐と同じ中学出身で、そこそこ話したことがあった。記憶に薄いが修学旅行の班も同じだったはずだ。今年はクラスメイトになれたのもあり、こうして気軽に突撃してくるのだ。それが甲斐にとってありがた迷惑であることは、残念ながら気づいていないようである。
「そりゃ毎回トップ十位以内に入りますって。なあ?」
「そーそ。武田はオレらとは違う人間なんだよ」
吉田と伊藤に両方から慰められながら、佐藤は席に戻る。甲斐はようやく息をついた。
こうして表面上だけ取り繕って話すのは、いい加減疲れる。あの時飛び降りられていたら、と屋上での光景が脳裏をよぎる。同時に、倉庫に閉じ込められていた彼女の姿が思い浮かんだ。
――あれは絶対、いじめだよな。
下品な笑い声の中に、「カミシマさん」という呼びかけがあったのを思い出す。カミシマ、というのがあの女子生徒の名字なのか。
あれから彼女はどうしただろう。また飛び降りようとしなければいいが。
学校の屋上は常に施錠されている。あの日は学期に一度の設備点検で業者が出入りするため、朝から開錠されている貴重な日だったのだ。それ以外にもきっと何かの事情で教師が開けることもあるだろうが、計画を立てるなら確実な日を狙った方がいい。わざわざスマホのカレンダーに書き込んでまで、その日を指折り数えて待っていたというのに。
同じ考えを持つ者がまさか他にいるとは露ほども思っていなかった。こうなれば、残された手段は二つ。二学期の設備点検日を調べて待つか、常に屋上を見張り、気まぐれに開いた瞬間を狙うしかない。――気が遠くなりそうだ。
そしておそらく彼女もこのことに気づいているはずだ。きっとこれからも屋上を狙い続けるに違いない。甲斐と同じかそれ以上に、屋上に固執しているのだから。
授業が終わり、周囲が部活動に向かって動き出すなか、甲斐は帰り支度をして速やかに教室を出ていった。生徒らの波に逆行して校門に向かうのにももう慣れた。去年、陸上部を辞めたばかりのころは、練習だけでも見ていけよと顧問からしつこく言われていたが、根気よく断り続けているうちに音沙汰なくなった。
A組から校門へ直行するには、教室を出てすぐ右手にある階段を下りていけばいい。だが階段を下りかけたところで、甲斐はふと足を止めた。廊下の向こう、特別校舎の階段から下りてみよう、と思い立ったのだ。
方向を変え、再び歩き出す。B組、C組、ときて、D組の前まできたところで速度を落とし、さりげなく教室内を見渡した。
あの女子生徒の姿は見当たらない。眼帯をしているので、いたらすぐにわかるはずだ。廊下を行き交う生徒たちの中にも目をやったが、やはり見つからなかった。
――もう部活に行ったのだろうか。
そこまで考えてようやく、はたと気がつく。自分はいったい何をしているのだろう。
彼女がいじめられている現場に遭遇して、同情しているのだろうか。いや、同じく屋上を狙う者として動向が気になるだけだ。抜け駆けされたらかなわないからだ。
甲斐はその場を立ち去り、渡り廊下の向こうにある階段を下りていった。早く家に帰らなければならない。
家に帰ると、掃除機の音がした。玄関の扉を閉めると物音に気づいたのか、音はやんだ。
「おかえり、甲斐」
母の朝子がリビングから顔を覗かせる。
「学校、どうだった?」
「うん、特に変わらないよ」と、靴を脱いでそろえながら返す。
「今日はね、甲斐の好きな中華にしようと思って。『行行軒』の辛餃子、亜樹に買いに行かせたわ」
「そう、亜樹に……」
突き当たりの洗面所に向かい、洗濯機に体操着を入れる。
「……亜樹は、あの餃子が嫌いじゃなかったっけ」
「そんなの、いちいち合わせてらんないわよ」
たちまち鋭い語気が返ってきて、甲斐は反射的に首をすくめた。――やってしまった。
「ごめん、そうだね」
「そうよ。餃子は甲斐の好物なんだから、あの子が合わせるべきよ」
朝子が掃除機がけを再開する。甲斐は複雑な表情でしばらく洗濯機の蓋を見つめていた。
こんな風にさせないために、部活を辞めたのに。高校は中学より遠い位置にある上に、弟も部活に入っていない。いや、母に辞めさせられたのだ。費用が馬鹿にならないからと、学校にごねてごねて、亜樹は特例で家に直帰している。
玄関の扉が開く音がした。甲斐は開けたままの洗面所の扉からそちらを振り向く。亜樹が『行行軒』の袋を片手に、もう一方の手で靴を脱いでいるところだった。
その丸まった小さな背中を見ていると、胸の奥がずきりと痛む。出るに出られず固まっていると、亜樹は靴をそろえてまっすぐリビングへ向かった。その際、眼鏡越しの黒い瞳がちらりとこちらに向けられる。
だが、何も見なかったようにすぐに眼を逸らして、弟は部屋に入っていった。
「ただいま……」
「遅いじゃない。まっすぐ帰ってこなかったの?」
険に満ちた声が浴びせられる。ここからでは見えないが、弟の萎縮した背中が目に浮かぶようだった。
「ごめんなさい。混んでいて……」
「言い訳は結構。はやくよこしなさい」
袋が奪い取られるような乱暴な音がした。ほどなくして、廊下に亜樹がふらりと姿を現す。
今度はちらりとも目が合わなかった。幽霊のような足取りで階段を上っていく。その気配が向こうに消えるまで、甲斐はその場から動けなかった。
夜、母に呼ばれて食卓につくと、目の前には餃子の並んだ皿が置かれていた。麻婆豆腐に中華スープ、ほかほかの白飯もある。においを嗅ぐだけで腹が音をたてるような、香ばしい食卓。
すると後から亜樹が入ってきて、おずおずと台所へ向かった。朝子は無言で木の盆を渡す。盆の上には、白飯と味噌汁、惣菜のコロッケとサラダが並べられている。
「いただきます……」小さく、震えるような声。
甲斐は弟の方を見なかった。彼が盆を持って自室へ去るまで、じっと卓上の方を向いていた。
「あら、私を待たなくていいのよ」
台所から朝子が声をかけてくる。「ちょっと片付けてから行くから、先に食べなさい」
甲斐は力ない微笑を浮かべた。「じゃあ、いただきます」
つるりとした皮に豆板醤が練り込まれた、肉厚の餃子。甲斐の好みに合わせて辛めに調理された、あつあつの麻婆豆腐。ご飯は毎日炊きたてだ。それなのに、味がしない。もう長いこと、食卓で味のしたことなどなかった。
やがて朝子がやってきて正面の椅子を引いた。だが席についても皿には手をつけず、頬杖をついてにこにことこちらを眺めている。
「なに?」
甲斐が訊ねると、母は笑った。
「うふふ。あの人に似てきたなあ、と思っただけよ」
――あの人、ね。
甲斐は複雑な感情を押し殺しながら「ありがとう」とだけ返す。内心では今すぐにでもトイレに駆け込んで、思い切り吐き出してしまいたかった。
――自分は決して、似たくなどないのに。
やっとの思いで食事を終え、自室に戻る。学校の課題はあるにはあるのだが、ひとまずベッドに背中から倒れ込んだ。右腕で目元を覆い、ようやく深く息を吐く。
母の甘ったるい笑みを見ているだけで本当に吐きそうだった。そして弟。強ばり丸まった小さな背中、弱々しい声、闇に沈んだ暗い眼差し……
いったいいつまでこの生活を続けなければならないのだろう。本来ならば、もうここに自分はいないはずだった。考えれば考えるほど、あのとき死ねなかったことが悔やまれる。
カミシマと呼ばれていた女子生徒の顔が瞼に浮かんだ。彼女もまた、今頃はこんな風に苦しんでいるのだろうか。自殺の日が被ってしまったせいで死ぬタイミングを失い、途方に暮れているかもしれない。
だが一体どうすればいいというのだろう。どちらも屋上から派手に飛び降りて自分の死を見せつけたいという目的があるのに。後にも先にも相手に死なれては、死の印象が分散して薄れてしまう。互いに何のメリットもない……
そこまで考えた瞬間、甲斐はがばと飛び起きた。今し方脳内にひらめいたことを、もう一度頭に思い浮かべる。
――分散してしまうなら、しないようにすればいい。
明日、彼女をつかまえて話してみなければ。甲斐はもう一度ベッドに寝転がり、どう伝えたものかと思案をめぐらせた。
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