俺と彼女の自殺予定日。
シュリ
第1話 ここで死なれたら困る
六月の半ばを迎えると本格的に暑くなってくる。今日は風が強い。高校の屋上までくるとより強さを増して、武田甲斐はおもむろに両腕を広げて目を閉じた。そして再び目を開けたとき、その瞳は屋上を囲う鉄柵の一点を見つめていた。
この真下、校舎の一階には職員室の窓があり、昼休みにサッカーをしている生徒たちもあまり近づかない。そして何より、どの校舎の教室からも見える絶妙な位置にある。武田甲斐はまさに今、ここから飛び降りるつもりだった。
最期の空気を吸うつもりで深呼吸する。息が整った。もう、いいだろう。
鉄柵に手をかける。甲斐の体躯は、よじ登るのに容易かった。そのままぐっと身体を持ち上げる。
その時だった。
「ちょっと、待って」
後ろでか細い声がした。
ぎょっとして振り返ると、女子生徒が一人、少し離れた位置に立っていた。肩の辺りで切りそろえられた艶やかな黒髪が風にあおられ、前髪の下の、白い眼帯が陽に照らされる。
「お願い、今そこで死なないで。わたしの死が、埋もれるから」
何を言っているのかわからない。
呆然としているうちに、女子生徒はつかつかと歩み寄ってくる。その足取りには何の迷いもなく、甲斐から少し左に逸れたところで柵に手をかけた。
「ちょっと待てよ」
慌てて声をかける。混乱と戸惑いに声が上ずってしまった。
「君も、死にに来たのか?」
女子生徒がこちらに顔を向ける。
よく見れば制服のリボンタイに、甲斐と同じ青い縞模様が見える。彼女も二年生なのだ。遠いクラスなのだろうか、その顔に見覚えはない。
彼女は迷惑そうに眉を寄せた。
「そうだけど」
「そう……奇遇だな。俺もだよ。でも、さっきの言葉……あれはどういう意味?」
「そのままの意味だけど」
そんなこともわからないの、とでも言いたげな目つきだ。
「わたしは今からここで派手に死んで、みんなに見せつけてやりたい。なのに、その前後であなたに死なれたらインパクトが薄れる」
「インパクト……」
「わたしはどうしてもこの昼休みにここで死ぬ必要がある。あなたが死にたいのを止める気はないけど、死ぬならよそに行ってほしい」
抑揚のない淡々とした声色だが、その根底には強い何かが秘められている感じがした。しかし、こちらも負けていられない。
「インパクトというなら、俺もなんだけど」
「え?」
「俺も、今ここで死ぬことに意味がある。見せつけてやりたいのも同じだ。だから譲れないな」
「ただインパクトというだけなら、電車に飛び込むのも手じゃないの」
「それも考えた。でも俺が見せつけたいのは世間の皆さんじゃなくて、この学校にいる連中と、親だから」
「……ふうん」
女子生徒の、眼帯のないほうの左眼が、甲斐の頭からつま先まで遠慮なくじろじろと見つめる。
「見たところ、虐められているようにも、家庭に困窮しているようにも見えないけど」
「虐めは、さすがに受けていないな。家も別に。そういうんじゃないよ」
「そう」
「君はどうなの?」
反射的につい訊ねてしまったが、すぐに後悔した。
女子生徒の顔に激しい険が降りて、左の瞳がこちらを強く睨みつける。小柄でやせ気味の身体だが、その全身から重々しい気迫を放っていた。
「あなたには、関係ない」
身も凍るような冷たい声音だった。
「はやくここから去って。そして人知れず死んで」
「俺も軽率な発言だったけど、その言い方はないだろ、さすがに」
甲斐の長い脚は、たった一歩で女子生徒の傍までたどり着く。柵にかけられた細い手首を掴んだ。
「お互い、命を捨てようっていうんだ。俺も君も、それなりに強い思いがあってのことだろ。人知れず死ねなんて、言っていいことじゃないぞ」
彼女が顔をうつむける。
言葉に詰まったようにしばらく足下を見つめていたが、ゆっくりと顔を上げた。
「ごめんなさい」
小さく、囁くような声だった。
その言葉の余韻を打ち消すように、予鈴のチャイムが鳴り響く。運動場にいた生徒たちがばらばらと校舎に帰っていく。
「……昼休み、終わったな」
ぽつりと甲斐が呟いた途端、女子生徒が手を振りほどいた。そのまま、ぱたぱたと屋上の入り口へ駆け戻っていく。
「あっ――」
反射的に、甲斐は腕を伸ばしていた。
空を掻いた指先を呆然と見つめる甲斐の耳に、チャイムの終わりが長く長く、尾を引いた。
一
武田甲斐は女子にモテる。まず顔がいい。切れ長で形のいい目、すっと通った鼻筋、程よく陽に焼けた滑らかな頬。何より百八十センチ超えの背丈はよく目立つ。脚もモデルのように長いので、教室の席で足を組んで座っているだけで盗撮されたことがある。成績は常に十位以内をキープしていてスポーツもできるので、男子からも支持されていた。――これだけ並べれば、彼の人生は順風満帆に見えるかもしれない。
だが、甲斐は死にたかった。
「カイくん、昨日のあれ見た?」「カイくんノートみせて」
休み時間に群がる女子たち。
「武田君ほんとかっこいい……推しだわ」「いつでも目が保養されるとかラッキーだよね」
などと黄色い声でざわめく女子たち。
「武田、なんで陸上部やめたんだよ」「バスケ部入んね?」「武田、今度の土曜さあ」
ひっきりなしに誘ってくる男子たち。
どの声を聞いても、吐き気しかしない。
高校に入学して一年間はなんとか持ちこたえられたが、もう限界だった。みんな上っ面だけを見て持て囃す。彼らの声を聞くだけで気持ちが悪くてたまらない。
今も、出しっ放しのペンケースの中に小さく折りたたまれたメモ用紙が入れられているのが見える。裏から淡いピンク色が透けて見えるそれは明らかに女子のものだ。チャットアプリのIDが書かれていたり、告白文がそのまま書かれていることもあるが、どちらにしろうんざりだった。このままびりびりに破り捨ててしまいたい衝動を押し殺して、開けるだけ開けてやる。案の定、IDが書かれていた。「よかったら友達に」と一言、遠慮がちな言葉が添えられている。
――馬鹿みたいだ。この顔がぐちゃぐちゃになれば、足が走れなくなれば、頭を打ってまともに喋れなくなれば、見向きもしなくなるくせに。
後で捨てようとメモ用紙を制服のポケットにねじ込んだところで、耐えきれず立ち上がった。早足で廊下を急ぐ。目指すは突き当たりにある二年生用のトイレではなく、渡り廊下の向こうにある特別校舎のトイレである。そこに飛び込み、奥の個室に入ってすぐ、盛大に吐き戻した。
苦しい涙が目尻に浮かぶ。吐いてもすぐに苦いものがこみ上げる。それを全部出しきってから水で流し、ふらふらと個室から出る。
手洗い場で口をゆすぐ。ふと目を上げると、げっそりした自分の顔が見えた。吐いたばかりでひどい顔だが、やはり形ばかりは整っている。二つ前の父親に似た、涼やかでどこか冷たい面差し。
忌々しい、顔だ。
鏡を睨むと、睨み返してくる。腹の底から苦味が甦りそうになって、甲斐は慌てて顔を逸らした。
あの時、あの女子生徒が来なければ、今頃楽になっていたのに……
ふと思い浮かぶ、黒いショートヘアと、彼女の瞳。陽に照らされて、赤く見えるほど透き通っていた。
彼女はなぜ死にたかったのだろう。
自分の死の前後に他人の死があると自殺のインパクトが薄れる、という彼女の主張は至極もっともだった。甲斐もまた、自殺を見せつけることで周囲に衝撃を与えて憂さを晴らすつもりだったので、彼女がまたいつ屋上に向かうのか、常に警戒している。しかし、あれから一週間経とうとしているが、タイミングが合わないのか彼女の姿は見かけない。
一体何組の誰なのだろう。それさえわかれば、動向もわかりやすくなるのだが。
スマホで時間を確認する。昼休みが終わろうとしていた。そろそろ教室へ戻ろう、と扉を開けたとき、ふと、耳に微かな物音を捉えた。
音のする方へ――トイレから少し離れた位置にある上り階段の方へ目を向ける。ここは四階だ。あの階段の上は物置になっていて、行事のときに生徒会が出入りするくらいしか使われないはずだった。
この時期に、何かあっただろうか?
などとぼんやり考えていると、がたん、と鉄扉の開く音がして、ばたばたと複数人の足音が湧いて出てきた。
「マジでウケるわ。じゃーね、カミシマさん」
「誰かに助けてもらえるといーねっ」
「誰が助けんだよ、ぜってえ誰も来ねえわ」
甲高い、下品な笑い声が響く。知らない女子生徒たちの声だ。こちらに向かっている気配がしたので、甲斐は慌ててトイレに戻った。小さな磨りガラス越しに制服の影が通り過ぎていくのを見届ける。
彼女らの気配が遠ざかったところで、甲斐はそっと外へ出た。制服を着崩した彼女らの後ろ姿には見覚えがあった。見た目も話し声も派手なので嫌でも目につくのだ。確かD組の生徒だったように思う。廊下の向こうへ消えていくのを遠目に見届けてから、甲斐は先ほどの階段へ向かった。段上に見える鉄扉の周りには、古い三角コーンや用途のなさそうな段ボール箱が無造作に置かれている。甲斐は鉄扉の前に立ち、こほんと咳払いすると、思い切って取っ手を引っ張った。
重い鉄扉が軋んだ音を立てて開く。コンクリートの壁に囲まれた小さなスペースに、膝を抱えて座り込んでいる女子生徒の姿があった。
「あっ」
思わず声を上げる。彼女もこちらを見上げ、小さく唇を開いた。さらりとしたショートへア、影のある瞳、白い眼帯……
あの時の女子生徒だ、と思うと同時に、乱れた襟元やスカートの皺が眼に入る。膝には擦りむいたような真新しい傷もある。目の前の状況と、先ほど聞こえた女生徒たちの下卑た言葉が結びつき、瞬間、甲斐は言葉を失った。
「いつまで、そこにいるつもり」
抑揚のない声が投げかけられる。彼女は地面に座り込んだままこちらを睨むように見上げていた。
「いや――」
「用がないなら帰って」
彼女の強い口調に、甲斐は眉をひそめる。不可解だった。
「せっかく開けたんだからさ、もう、出たら」
努めて平静に、扉の外を示す。先ほど見聞きした光景には直接触れないように。
「ここ、取っ手が壊れていて鍵がかからないけど、内側からは開けにくいんだよ。だから」
彼女は答えない。どうでもよさそうに目を伏せている。さすがに焦れったくなって、甲斐は少しだけ声のトーンを上げた。
「もう暑いだろ。こんなところに閉じ込められていたら、絶対死ぬ――」
言いかけたところで、はっと口ごもる。
彼女は死にたがっているのだ。
ところが、彼女はすっと立ち上がって、スカートの裾をはたいた。こちらと目も合わせないまま、扉の隙間をすれ違おうとする。
「待てよ」
咄嗟に、声が出た。
彼女が黙ってこちらを見上げる。感情の見えない、曇った瞳で。
引き留めてしまったが、言葉に詰まる。一瞬迷った挙げ句、わずかにうわずった調子で無理やり言葉をつないだ。
「それ、保健室で見せた方がいい」
甲斐につられて、彼女も自分の膝頭の擦り傷を見た。だがすぐに目線を戻し、半ば強引に扉を抜け出した。
「必要ない」
短く言い残して、階段を降りていく。
半開きの扉の中に取り残され、甲斐はひとり、立ち尽くしていた。
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