四④

 それからの時間、僕たちは今までよりも一層一緒に居る時間を増やしていった。章子の神通力とも言える不思議な力は、僕から死の象徴である白黒の髑髏を遠ざけてくれる。

 そうして僕の傍には常に章子がいて、笑顔を向けてくれるのだった。僕にとって、隣で章子が微笑んでくれている毎日は、自然なことであり、当たり前の日常になっていった。




 しかし、世の中に『当たり前の日常』などというものは存在しないのである。




 その日は初春しょしゅんらしい暖かな日だった。

 僕はいつものように書斎で書き物をしている。章子はその間家事を行う。いつも通りの時間をそうして過ごしていると、この日家事を終えたのだろう章子が書斎に姿を現した。


「直哉さん!」


 そう言う章子の声は弾んでいる。僕が何事かと顔を巡らせると、


「縁側へ行きましょう! 直哉さん!」

「え?」


 疑問符を浮かべる僕の手を、章子が引っ張っていく。戸惑う僕に早く、と声をかける章子の表情は笑顔だ。

 僕が章子に連れられてやってきた縁側からは小さな庭が見え、洗い立ての洗濯物が干されている。


「一体どうしたと言うんだい? 章子」

「ほらあそこ! あそこを見てください、直哉さん!」


 そう言って章子が指を差したその先。

 そこには小さな一本の梅の木があった。その梅の木に一輪の白梅はくばいが咲いている。

 章子はそれを嬉しそうに指さしながら、僕に笑顔を向けていた。


「今日はここで休憩にしませんか? 直哉さん」


 そう言う章子に、僕は笑顔を返すとゆっくりと縁側に腰を下ろし、一輪だけ咲いている白梅を見つめる。季節は着実に進んでいて、間もなく春が訪れようとしているのだった。

 そんなことを思いながら庭を眺めていると、章子が盆に茶と茶菓子を用意して持ってきてくれる。


 僕たちは小春日和の縁側で、日なたぼっこをしながら茶をすする。そんな僕たちの間に流れるのはとても穏やかで静かな、安らぎの時間だった。

 しばらくそうしていると、


「ねぇ、直哉さん」

「何だい? 章子」


 章子が改まった調子で僕の名を呼んだ。僕は隣の章子へと顔を向ける。章子は真剣な面持ちで、


「私が居なくなっても、どうか私のことを忘れないでくださいね」

「突然、何を言っているんだい? 章子」


 僕は章子の言葉に驚いて目を見張る。そんな僕に章子はにっこりとただ微笑み返すだけだった。そして最後まで、その言葉の真意は教えてはくれなかったのだった。


 僕は飲んでいた茶を盆の上へと置くと、章子の膝の上にごろりと横になった。僕の拗ねた様子に章子は一瞬だけ驚いたようだったが、僕はそんな章子の様子に構わずに息を吸い込む。

 洗濯と日光の匂いの中、章子の甘い香りが僕の鼻腔びこうをくすぐる。

 そんな僕の髪を、章子はゆっくりとその手ですいてくれる。その感触が心地よく、僕はついついうつらうつらとしてしまう。

 そうして夢うつつの中、僕の耳に章子の声が届いたような気がした。


「どうか忘れないでください。貴方あなたには貴方にしか出来ないことがあると言うことを。どうか、忘れないでください。私がこんなにも、貴方のことを愛していると言うことを……」


 優しく髪をすかれながら響いてくる章子の言葉は快く、僕が意識を手放すまでにそんなに時間はかからなかった。




 その日を境に、章子の様子は少しずつおかしくなっていった。どうおかしいのか、言葉にすることは難しいのだが、なんだか体調が優れない様子なのだ。しかし僕が、


「章子、体調が優れないのかい?」


 そう尋ねると、決まって、


「大丈夫ですよ、直哉さん。これも運命ですから」


 そう言って笑うのだった。その笑顔は儚くて、僕の胸を締め付けるには十分すぎるのだった。


 庭の梅の花が満開になった頃、章子も書き物を始めた。しかし何を書いているのかまでは、僕には教えてくれなかった。僕もそれ以上のことを追及することはせず、お互い個々の時間を過ごしていく。


 僕はその頃になると、なるべく章子の傍に居たいと考え書斎ではなく、寝室となっている庭の見える和室にある文机で書き物をしていた。ここからだと、家事をしている章子の様子が良く見えるのだった。

 僕の文机の隣には章子の文机を用意し、僕たちは時折庭の梅の花に目を向けながらお互いに書き物をしていく。


 そうして梅の季節が終わりを迎えそうになっている頃、僕は章子のために何か出来ないかと考えていた。

 章子は日に日に目に見えて弱っているように感じたのだ。しかし章子の肩の上に死の象徴である白黒の髑髏の姿は見えず、僕はそのことに少しだけ安堵していた。それでも章子が弱っていく現実に変わりはなく。


(そうだ!)


 僕は一つの思いつきに胸を弾ませる。これならきっと章子も喜んでくれるに違いない。

 僕は庭の梅の花が終わらないうちに、早速行動へと出るのだった。


 そうして数日後。

 その日も章子はなんだか気だるそうにしていたのだが、それでも日課となっている家事を行おうとする。僕はそんな章子の手を止めた。


「章子、こちらへおいで」

「何でしょう?」


 不思議そうにこちらへと近寄ってきた章子の手を、僕はぐっと引き寄せその身体を腕の中に収める。突然の僕の行動に章子は驚いた様子で声を上げることも出来ないようだ。

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