三①

 それからしばらくして、僕の身体は完全に回復し、退院を果たすことが出来た。

 久々に病院の外に出た僕は、胸いっぱいに町の空気を吸う。やはり死の匂いが漂う閉塞感の強い病院からの解放は、僕の気持ちを少しだけ軽くするのだった。


 そう、軽くなったのは、少しだけだったのだ。


 何故なら町の中ですれ違う人々の、肩の上には老若男女ろうにゃくなんにょ問わず白黒の髑髏されこうべの姿が見えていたのだ。自分が予想していたよりも多いその死の象徴は、


(こんなにも、多くの死と共に僕たちは生きているのか……)


 そう僕を絶望させるには十分すぎるものだった。

 通行人の肩の上に巣くう髑髏の中には、間もなく死を迎える前兆となる、歯を打ち鳴らしているものもいる。僕はその音のする方に顔を巡らせた。




『たくさん殺して来たのだから、次はたくさん生かしてね』




 頭の中で、『前世の記憶』の中の少女の声がよみがえった。

 僕はぐっと両の手を握ると、歯を打ち鳴らす髑髏を持った貴婦人へと近寄ろうと歩を進めた。


 大きなつば広の帽子に、西洋の豪奢な洋服に身を包んだその女性は、手には傘を持ち、一目で彼女がどこぞの華族であることが予想できる。


 そんな華やかな彼女に不釣り合いな白黒の髑髏は、先程からひっきりなしにカタカタと歯を打ち鳴らし続けている。


 僕は彼女へ声をかける前に自らの格好を顧みた。

 退院したばかりの僕は手に小さな黒い鞄を持ち、着物は薄汚れている。これでは華族であろう貴婦人が僕の話を聞いてくれないかもしれない。


 声をかけることに躊躇する僕を急かすように、貴婦人の肩の上の髑髏が歯を打ち鳴らし続ける。それは彼女への死が近いことを僕に知らせていた。僕は意を決して彼女に声をかける。


「あ、あの! すみません!」


 少しうわずった僕の呼びかけに、彼女は足を止める。そしてゆっくりと僕の方を振り返ると、露骨に嫌そうな顔をする。僕は予想通りのその反応に臆することなく、彼女に声をかけ続ける。


「あなたは、身体のどこかに病を抱えてはいませぬか?」


 僕の言葉に彼女は訝しがるように僕を見る。その視線を努めて気にしないようにしながら、僕は言葉を続けた。


「もし、お身体に病をお持ちなのならば、今すぐに病院へ行かれた方が良い。死が、近づいております」


 しかし女性は僕に冷めた視線を向けると、そのまま無言でその場を歩き去ってしまうのだった。

 僕が諦めきれず手を伸ばし、再び女性へと声をかけようとした時だった。

 広い道と道とが交わる場所まで歩いた女性の肩にいる髑髏のあぎと が大きく開かれる。


(まずい……!)


 僕がそう思ったのも束の間。

 女性は道の右側から飛び出してきた暴走馬車に轢かれてしまう。


(……!)


 僕は声にならない声を上げていた。

 それは一瞬の出来事であった。女性が持っていた傘は宙を舞い、女性は道の上に糸の切れた操り人形のごとく倒れている。その表情は自身に何が起きたのか理解出来ていない。

 そして、やはり白黒の髑髏は口を大きく開けて女性の頭を丸呑みしているのだった。


 事故現場は騒然としている。

 この中の何人の人が気付いているのだろうか?

 この女性の死に。


(助けられなんだ……)


 僕は呆然とする。

 僕には無理なのだろうか、他人の死を回避することは。

 死の前兆が分かるにも関わらず、僕はその死を避けることが出来ない。そんな自分の無力さに脱力感に襲われる。


(僕は、たった一人の命さえも救えぬのか……)


 騒然としている事故現場を、とぼとぼと後にする。

 鉛がのし掛かっているように気分が重い。病院の外にも人間の死は常に近くにあり、僕はその死が分かっても救うことが出来ないのだ。




『次はたくさん生かしてね』




(僕には、無理だ……)


 僕は『前世の記憶』の中の少女へとそう返す。

 脱力感に襲われている僕はこの時、これからも見えるであろう白黒の髑髏について、見て見ぬ振りをすることに決めるのだった。




 それから僕は、細々と書き物を続けながら英語教師として再び教壇に立っていた。今回の勤め先は女学校と言うこともあるせいか、生徒たちは皆一様に良家のお嬢様ばかりであった。


「ごきげんよう」

「ごきげんよう」


 少女たちの涼やかな声が響く西洋風の二階建て校舎。その二階にある空き教室に放課後、僕はいた。


 この学校に赴任してきて、僕は一つのことに気付いた。それはこの学校の女学生と教師の中に、白黒の髑髏を持ったものが一人もいないと言うことだった。

 そのこと自体を不思議に思わない訳ではなかったが、あの死の直前に聞こえてくる歯を打ち鳴らす音が聞こえないだけで、僕の精神を安定させるには十分だった。

 そのため僕はいつしかこの職場である学校が居心地の良い場所に変わっていったのだった。放課後は空き教室を借り、そこで僕は執筆の仕事をさせて貰う。


「先生、ごきげんよう。また明日」

「あぁ、さようなら」

わたくしも先生にご挨拶を。ごきげんようですわ」

「はい、さようなら」


 僕が空き教室で書き物をしていると、何人かの女学生たちが帰り際の挨拶をしに、わざわざ教室に顔を見せてくれるようになる。少しませたすまし顔の彼女たちに、僕も筆を止めて挨拶を返す。

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