二②
『前世の記憶』の中の僕には好いた女がいた。しかしその女には許嫁がおり、僕のことなどさっぱり眼中にないのだった。僕はそのことに腹を立てる。そしてある日女の元へと向かうと、その女の首をこの手で絞め、
(どうしても自分のものにならぬと言うのなら、もう一層のこと……)
そう考えた末の僕の行動だった。
女を殺めた僕は、その足で近くの橋の上から身投げをして死ぬ。どうにか、あの世で僕は女と結ばれたいと思っていたのだ。
しかしどういう訳だろうか。
僕は死後の世界に行くことが出来なかったようだ。
僕が殺めた女はどうしているだろうか。
気にはなっても、僕は身投げをした橋の上から動くことが出来ずにいた。
女にも会えない。
自身の自由もない。
これが他を殺めた僕への罰だと言うのなら、なんと残酷すぎる罰だろうか。
そう考えた僕は、狂った。
狂って、
死してなお、僕は僕自身の罪を狂気に任せて重ねていく。もう、それが罪であるという考えすら持てないくらい、僕は壊れていた。
何組、何十組、何百組と、目についた幸せそうな男女を橋の上から長い年月をかけて突き落としていく。
そうしていつしか、その橋の上から男女の姿は消えてしまうのだった。残された僕は満たされない虚無感に襲われ、ただただ男女が橋を渡るのを一人待っているのだった。
そんなことをつらつらと思い出していたある日のことだった。
「……さん、島崎さん」
「はい?」
僕は名を呼ばれていることに気付きはっとする。僕の名を呼んでいたのは看護婦だった。
「ぼーっとしていましたが、大丈夫ですか? 島崎さん」
「あ、はい、大丈夫です」
「そうですか。島崎さんに面会人が来ています。通してもよろしいですか?」
「お願いします」
看護婦は僕の言葉を聞いて病室を出て行く。
僕に面会など、一体誰だろうか?
疑問に思いながら半身を起こして待っていると、
「島崎先生!」
看護婦に連れられて姿を見せたのは、僕に書き物の仕事を回してくれている出版社の方だった。意外な人物の登場に、僕は目を丸くする。
「島崎先生、お元気そうで何よりだ。一時は
そう言って僕の寝台へと近付く出版者の者に、僕は苦笑いを返すのだった。
今回彼が姿を見せたのは、僕への見舞いと入院中にも出来る仕事の依頼のためだった。僕はその仕事の内容を、二つ返事で引き受けるのだった。
仕事が尽きないというのは、とても有り難いことなのだ。
僕はこの日から、自分の今まで書いてきた小説とは別に、仕事としての書き物をしていくことになる。
それから僕は、日中に身体を動かしてから余った時間に執筆をしていた。筆を執っていると、『前世の記憶』のことも、白黒の髑髏のことも忘れられるのだった。
そう、あれからと言うもの。僕は度々白黒の髑髏を目撃することとなったのだ。その髑髏が取り憑いた者は、必ず数日の内に亡くなってしまう。呆気なく、突然訪れるその人間の死というものに、僕は慣れることが出来ずにいたのだった。
気が狂いそうになる僕の理性を何とか保つことが出来るのは、出版社から戴いていた仕事のお陰だと言っても過言ではなかった。
死を身近に感じる病院内に居るためか、僕の中の『前世の記憶』にも日に日に変化が現れ始めた。
男女が渡らなくなってしまった橋の上。
僕は一人、ぽっかりと胸に空いた穴を抱えて佇んでいた。もう自分が生前手にかけた女のことなど忘れ、ただただ襲ってくる虚しさに、どうしたら良いものなのか分からずにいたのだ。
そうして佇んでいたある夜。一人の少女が僕の前に現れた。白衣に緋袴のその少女は、
その後、少女は何か言葉を発することもなく、僕の前で舞を舞い始めるのだった。時折鳴らされる
僕が少女の舞に見入っている時だった。
少女は舞いながらその懐から何か紙を取り出した。そしてその紙を持ったまま舞い、僕に近づくと手を伸ばしてくる。
(……!)
僕が気付いた時。
少女の舞は終わり、その手にあった紙は僕の額へと貼り付けられていた。
紙を貼り付けられたことで、僕の心の穴は不思議と
神楽鈴が鳴り止んだ静寂の中、僕は少女を見やる。しかし今、その少女の顔には霞がかかりはっきりとは思い出せない。ただ思い出されるのは少女に言われた言葉だった。
「たくさん殺して来たのだから、次はたくさん生かしてね」
僕の『前世の記憶』はここで途切れている。これ以上のことはもう、何一つ思い出すことが出来なくなっているのだ。
しかし僕はここに来て一つのことを確信する。
それは、白黒の髑髏についてだった。
あの髑髏は間違いなく、人の魂を喰らう存在だ。それはこの入院生活の中ではっきりとしていた。
僕がこの世に送り返された理由は、きっと思い出した『前世の記憶』の中の、少女の言葉が関係しているのだろう。
(次はたくさん生かしてね、か)
僕は少女の言葉を思い返す。
この少女の言葉を実行しようにも、僕には突如訪れる人間の死を、避ける方法が見いだせずにいるのだった。
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