第20話 喪失



20

 その教授のつぶやきは、今まで自信に満ちた声しか聞いてこなかった俺には意外だった。

 どうやら、教授でさえまったく予期していない出来事だったのだろう。

 ワームホールの向こう側にいる女性のことを、教授はアンジェリカと呼んだ。

 年齢からすると、恋人や妻と言うにはかなり若いような……だが、どうだろう。家族なら……年の離れた妹か、姪とかだろうか。

 ってことは……このワームホールは、どこか違うところと繋がってるってことか? まるで、アニメに出てくるどこでもドアみたいに?

 さっきからデタラメな力を目の当たりにしまくってるが、いくらなんでも目茶苦茶だ。

「この紅の力……私たちが使う蒼の力とは、なにが違う? 他の天使なら暴走してしまう力を、なぜここまでコントロールできる?」

 周囲の光景など一才気に払うことなく、白衣の男はそんな言葉を漏らす。無造作に美嘉の前までやってくると、華奢なあごをつかんで美嘉の紅く輝く瞳をのぞきこむ。

「おいこら、てめぇ! 美嘉を離――」

 こっちを見もせずに、白衣の男が手をかざす。小さな蒼い魔法陣と共に、俺はなにもできず後方に吹き飛ばされてしまう。

「I know you.」

 その最中、金髪の女性……アンジェリカは、簡潔にそう告げた。教授ではなく、目の前で美嘉をつかむ白衣の男へ。その視線に宿るのは、なにか並々ならぬ決意だ。

 ワームホールの外へと手を伸ばし、アンジェリカはとうとうこちら側へと顕現する。

 そこでようやく、アンジェリカは教授へと視線を向けた。

 その視線を、なんと形容したらいいのだろう。

 親愛と慈しみだけではない。あれは……悲しさ?

 俺にわかるのは、それくらいだ。それさえ、意味がわからないけれど。

「Sorry. I can't go to you.」

「Wait...wait. Angelica!」

 なにかを察したらしい教授が、その人の名を呼ぶ。

 だが、アンジェリカはそれに答えることなく、おもむろに白衣の男の襟をつかんだ。

 白衣の男は美嘉に気をとられていたのか、その瞬間までアンジェリカに気づいていなかったようだ。

「な……?」

 状況を把握できないまま、白衣の男はアンジェリカにワームホールの向こう側へと引きずり込まれる。

 ……その手が、美嘉のあごをしっかりとつかんだままだというのに。

「え?」

 俺はただ、呆然と見つめていた。

 それしかできなかった。

 指先一つですら、動かすことができなかった。

 アンジェリカが白衣の男をつかんで、ワームホールの向こう側へと引きずり込んしまう。

 白衣の男が、美嘉をつかんだまま。

 ――だから。

 ……だから、白衣の男と一緒に、美嘉もまたワームホールの向こう側へと取り込まれてしまう。

 そして、それたけではなかった。

 アンジェリカがハッと顔を上げると、あわてて手を伸ばして新たな魔法陣と共に重力球を召喚する。

 なんだよ、と思った瞬間には、その重力球に向けて深紅の光の束が殺到した。

「ッ!」

 声すら上げられない。

 振り返れば、それはまたも高校の屋上からだった。少し前の熱線と同じなんだろう。

 それは高校の屋上で一旦上空へと向かったにもかかわらず、それから弧を描いて――ワームホールの重力に引っ張られてきた、ということなのだろう――こちらにやって来ている。こっちはこっちでとんでもないことばかりだが、向こうも向こうでとんでもない事態のようだ。

「No...!」

 教授の悲鳴に、あわてて視線を戻す。

 突然のことで、すごく呆気なくて、俺はなにもできなかった。

 ただ見ていることしか。

 さっきの光の束――極太のレーザー光線みたいなそれ――のせいなのか、それともそれを防ぐためにアンジェリカが召喚した重力球のせいなのか。

 こっちとアンジェリカのいるところを繋いでいるワームホールが収縮し始めたのだ。

「Angelica!」

 そんな俺とは対照的に、教授は声をあげながらワームホールへと向かう。

 が、ワームホールはすでに容赦なく収縮を始めていて、教授が到達する前に消失してしまいそうに見えた。

「うおおおおぉぉぉぉぉぉ!」

 無謀とも思える勢いで伸ばされる右手。

 すでにそれの直径は一メートルもなく、さらに小さくなっていく。当然、教授が通り抜けられるサイズではない。それでも、教授が勢いを殺すことはなかった。

 そして、消失しようとするワームホールに手を突っ込んで――。

 ――カキュッ。

 そんな、奇妙な音と共に教授は右腕を失った。

 それが右腕を断ち切られた音なのだとはわからなかった。なにもなくなってしまった空間を前に、教授が呆然と右腕の断面を見下ろしているのを、俺はなにも考えられないままただ見ていた。

 教授の右腕の断面からは血が出ていない。そこから覗くのは血と肉ではなく、金属と電子部品だった。

 義手なのか。それだけにしては、やけに精巧だが――なんて、どうでもいいことばかりが頭のなかを巡る。

 たった今、俺の目の前からいなくなってしまった最愛の人のことが、どうしても考えられない。

「Angelica...」

 教授ががっくりと膝をつく。

 ワームホールが消失し、周囲を旋回し続けていた瓦礫や砂塵も、浮遊する力を失って地面に落ちる。

 俺は、斎藤美嘉のいなくなったその場所をただ呆然と眺めていた。

 ……教授のように膝をつくことも、涙を流すこともできないまま。


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