第16話 覚醒



16

 そんなまさか。

 言葉が出なかった。

 目の前で、斎藤美嘉の瞳が紅く輝くと同時に、衝撃波が発生する。

 コントロールが奪われ、逆に私たちに襲いかかろうとしていたワームホールは、その衝撃波とともに現れた新たな力を前に、かくもあっさりとかき消された。

 そのまま、衝撃波で私たち全員さえも吹き飛ばされてしまう。

 私と山崎、そして教授がグラウンドに投げ出され、白衣の男は一号館の瓦礫に身体を打ちつけていた。

「くっ……」

 顔をあげて、衝撃波の発生源――斎藤美嘉を見る。

 彼女からは、紅い次元光放射が出ていた。

 そう、山崎徹ではなく、斎藤美嘉から。それが驚愕の一つ目だった。

 山崎ではなかったのだ。

 教授が覚醒させようとし、私がそれを止めようとしていた天使は、そもそも山崎ではなかった。

 あのとき、一昨日、白衣の男の襲撃があったとき、確かにその場には斎藤もいた。彼女もまた天使である可能性は、山崎と同等だったはずなのだ。

 第四項対策室への指令が山崎徹への調査だったし、シュタイナー教授もまた山崎がそうだと思い込んでいた。そのせいで私も、山崎が天使なのだろうと信じきっていた。斎藤美嘉が天使である、という可能性をまったく考慮していなかった。

 今、目の前でまざまざと見せつけられるまでは。

 そして二つ目は、あの紅い次元光放射だ。

 私やシュタイナー教授の蒼い次元光放射とは決定的に違う、紅の光。

 次元光放射とは、三次元以上の空間に充満する、三次元を越えた世界の光がこの世界に現れる現象のことだ。

 天使の力を行使するときに垣間見える、蒼の世界。それを見るだけでも、脳には多大な負荷がかかる。

 この蒼と紅の違いは未だ正確にわかっているわけではないが、ただ言えることは、紅は蒼よりも負荷が大きいということだ。

 蒼の次元光放射のときでも、脳への負荷は相当のものだが、紅い次元光放射のときとなると、天使はその脳の処理能力を大きく越えてしまう。この“紅い光”が現れたとき、その天使はまず間違いなく暴走する。

 思い起こされるのは、十年前の光景に他ならない。

 紅い光。崩れ落ちる施設。バラバラになる人々。

 名前さえわからないままの、あの少年の叫び声。

 ……止めなければ。

 これ以上、被害を増やすわけにはいかない。

 ……私たちだけで十分だ。あの絶望をわざわざ味わう必要など、誰にもない。

「……彼女自身が、特異点なのか……?」

 起き上がり、教授がつぶやく。

 その言葉の意味を考えているヒマなどなかった。

 だが力を行使するにも、いつものようにはいかない。斎藤の力が強すぎるせいか、力の展開を阻害されているように感じる。

 だが、やらなければならない。

 妨げられているとはいっても、幸い不可能ではない。いつもより集中力を要するという話だ。

 ……私が、止めなければ。

 なんとか身体を起こし、立ち上がる。

 斎藤へと手をかざし、紅い次元光放射を押さえつけるように腕を掲げた。

「おい、五条!」

 足を捕まれる。振り返ると、倒れたままの山崎が必死の形相で私を見てきていた。

「なにをするつもりだ」

「……斎藤を止める」

「どうやって止めるつもりだって聞いてんだよ!」

 山崎がよろめきながらも立ち上がる。その眼には怒りがある。私の思惑がわかっているのだ。

「あの力は重要なリソースだ、みすみすなくさせはしないよ」

 急に声が響く。声にあわてて視線を戻すと、目の前には白衣の男が。

「くっ」

 山崎から男へと、即座に意識を切り替える。地面を蹴り男に肉薄すると、あごへと掌底。が、急に右へと落下したせいで空を切る。

 男の重力制御だ。重力を操る第四項の力を使いこなす相手となると、そもそもまともな戦いをさせてもらえない。

 だが、いくら水平に落ちるなんてことが常軌を逸してるとはいえ、こう何度もなすすべなくやられ続けるほど、私も愚かではない。

 第一項の力を限定解放。落下先の大気へと干渉し、元素数七の窒素を元素数六の炭素へと強引に変換する。

 炭素そのものが重要なのではない。重要なのは、常温で固体であるという点だ。

 握りこぶしほどの大きさもないそれに手をついて、横向きに――だが、重力に対しては垂直に――体勢を整えると、足元の大気も炭素へと変換。それを蹴って再度距離を詰める。

 私がそのまま落ちると思っていたのだろう。白衣の男の目には驚愕。

 今度は多少それても避けられないよう、腹部を狙った掌底。

「……驚いたな」

 当たりはした。……が、浅い。

 白衣の男は、掌底を食らってもなお笑みを浮かべる。

 思った通り、あまりダメージは入っていない。内臓を狙ったものの、地面に足のついていない私の掌底は軽かったし、男もまたとっさに私から離れるように動いていた。ほんの少しとはいえ、それが掌底の勢いを殺したのだ。

「第一項にそんな使い方があったとはな」

 重力が戻り、私は地面に立つ。

「これでも訓練しているつもりでね。おかげで無機科学は得意分野だ」

 ベータ崩壊という現象から“なにができるか”を理解するのは難しい。同じ第一項がいない中、これでも様々な実験を重ねてきたのは、こんなときのためだ。

 十年前の後悔を無駄にしないために。

 そう簡単にやられるわけにはいかない。

「これは失礼した。……手加減をするべきではなかっ――」

「やめてぇ!」

 白衣の男の瞳が輝きを増したと思った瞬間、側面から斎藤美嘉の悲鳴とともに衝撃波が襲いかかってきた。私と白衣の男は抵抗できずに空中高くへ舞い上げられてしまう。

 教授と山崎のなにかに反応したのか、それとも白衣の男の力に反応したのか。……ともかく、斎藤の近くで男と戦うのは危険だ。

 ぐるぐると回転する視界の中、窒素から変換した炭素の塊に手をつき、蹴りつけて姿勢制御。空中を跳ね、斎藤から距離をとる。

「斎藤美嘉の力は凄まじいな」

 かろうじて倒壊していない五号館の屋上に降り立つと、横から声をかけられた。白衣の男が私を追ってきたのだ。

「貴方は初めからわかっていたんだな。天使は山崎ではなく、斎藤だと」

 男を直視しながらも、私は第一項の力を解放する。

「まさか。理論を世に認めさせたのは山崎博士だ。博士が天使であることを隠していただけだと思っていたよ。斎藤美嘉が天使だったのは、私も把握していなかった。それにそもそも……まさか、この役割が私のことだとは思っていなかったしね。……確認不足は否定できないが、むしろその確認のために、私はいまここにやってきているとも言えるな」

「なにを……言っている?」

「こちらの話さ」

 白衣の男は肩をすくめる。私には意味がわからないが、説明する気などないようだ。

「……さて、君がなにをするにも、この世界に存在する原子はすべからく重力子の影響を受ける。第一項は実際のところ、戦闘向きとは言い難いな」

 彼は淡々と告げる。私が空中で姿勢制御したのには驚いたのかもしれないが、私の力がそれ以上のことをなし得ない現状に、あせることもない思っているのだろう。

 男もまた五号館の屋上に降り立ち、私たちは五メートルほどの距離を空けて対峙する。男の顔には、余裕をうかがわせる笑みが浮かんでいた。

 あなどればいい。私をあなどればあなどるだけ、私は有利になる。

「君がどうやって私を止めようと考えているのかは知らないが、私は……。……な、に?」

 白衣の男は急によろめいて膝をつき、困惑の表情を浮かべる。

 ……やっとか。

 地球の大気は、窒素が約七十八パーセントに、酸素が約二十一パーセント。その残りがアルゴンや二酸化炭素といった成分で構成されている。

 私がやったのは、大気中にある元素数八の酸素を、元素数七の窒素へと変換させるという、たったそれだけのことだ。

 人間は、肺で空気中の酸素を血液中に取り込んでいる。人の血中の酸素濃度は約十六パーセントであり、大気のそれは二十一パーセント。吸い込んだ空気は、濃度勾配にあわせて肺で血液とのガス交換が行われる。つまり、酸素濃度の高い方から低い方へと酸素が移動するということだ。

 通常なら大気から血液中へと酸素が移動する。しかし、大気の酸素濃度が血中よりも低くなったら?

 酸素は、濃度の高い方から低い方へと移動することに変わりはない。

 すなわち、大気中の酸素濃度が十六パーセント未満の場合、血中の酸素が、大気の方へと逃げていってしまうのだ。

 酸素欠乏症――いわゆる酸欠というやつは、大気中に酸素がないから起きるのではない。酸素を十六パーセント未満にさえしてしまえば、こうやってもっと簡単に引き起こせるのだ。

 呼吸をすればするほど酸素が奪われ、あっという間に酸欠になる。そして酸欠とは、その言葉の持つイメージ以上に人体にとって危険なものだ。

「確かに、第一項は戦闘向きではないのだろうな」

 めまいやはきけに加え、意識がもうろうとしているはずだ。簡単に立ち上がることはできない。

「しかし、ベータ崩壊によってあらゆる元素を操れるならば、発想次第でなんでも可能となる」

 ……これで、白衣の男は無力化したな。

 私は身をひるがえし、一号館跡を見る。

 そこではまだ紅い次元光放射が荒れ狂っていた。

 山崎がなにかを叫んでいるようだが、どうも斎藤には届いていないようだ。

 突風が吹く。斎藤の力のせいか。

 時間をとられ過ぎた。白衣の男を無力化したいま、次は斎藤を止めなければ。……たとえ、彼女の身がどうなろうとも。

「――五条沃太郎、さすがだ」

 その声に、全身が硬直する。

「多次元時空保全委員会において、初めて確認された天使。第一項の天使、か。ウィークボソンを操るという力を重要視しなかった委員会の目は節穴だな」

 恐る恐る振り返る。と、膝をついたままで荒い息をつく白衣の男がいた。

 彼のすぐそばには、漆黒の球体が浮いていた。周囲の空間は歪んでいる。極小ブラックホールか。

「大気の組成を変える、か。確かに盲点だな。うまくやれば、第一項の天使は戦わずして勝つことができるというわけだ」

「チッ」

 私が変えたのは男の周囲の空気だけで、少し離れれば大気の組成はもとと同じだ。極小ブラックホールで辺りの大気をかき回し、酸素濃度を戻したのだろう。

「惜しかったな。もはやなにかをさせる猶予など与えんよ」

 有無を言わせず、白衣の男は極小ブラックホールを床に叩きつけた。

「な……っ!」

 屋上床の表面の防水層がまくれあがり、その下のコンクリートが破砕。内部の鉄筋がむき出しになるだけでなく、そのまま引きちぎられて凄まじい音が響く。

 破砕された破片は、ほとんどが極小ブラックホールに吸い込まれて消失してしまう。

 床をぶち抜いたあとは、床下からただただ破砕音だけが聞こえてくるだけだ。

 そして、床がぐらりと揺れた。

「まさか……」

 この男はこの五号館を破壊し尽くすつもりか、と思った瞬間、踏みしめていた床が崩れ落ちた。

「――ッ!」

 足先が空をかく。

 なにかをつかもうと手を伸ばすが、足先同様空をかくだけ。

 空中に浮かぶ白衣の男をにらみつけながら、私は崩壊する五号館の中へと落ちていった。


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