第8話 第三項の天使
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翌日。
俺と美嘉は、神稜大学三号館にあるセルシオ・シュタイナー教授の研究室にやってきていた。
もちろん、昨日教授に「私の研究室に来てくれたまえ」なんて言われたからではない。
結局まともに説明してもらえなかった、天使とかいう意味不明な力について聞くためだった。
今日の美嘉は、グレーのトレーナーにスキニージーンズを履いていた。やぼったくなりそうなのになぜか似合っているのは、美人だからこそだろう。
俺たちの背後には五条もいる。昨日の講義のときみたいに偶然を装うことはやめたらしい。正門で待ち受けていた五条は、俺の「早速監視しようってか」という言葉を素直に肯定した。俺はすでにモルモット扱いってわけだ。もしくはいつ爆発するかわからない爆弾か。
「やあ、トオル・ヤマサキ君にミカ・サイトウ君。ヨータロー・ゴジョウ君も。ようこそ私の研究室に。歓迎するよ」
やや殺風景とも言える部屋の入口で、教授はフレンドリーなほほえみを浮かべる。
「まだここに来たばかりで大したものもないがね。……とはいえ、インスタントでよければコーヒーくらいは出せるよ」
その部屋にあるのは、真新しいディスカッション用のテーブルと四脚のオフィスチェア、そしてまだ使われた形跡のないホワイトボードくらいだった。他にあるものといえば、テーブルに置かれたタブレットPCと、組み立て途中のアルミラックくらいだ。他の教授の部屋は、壁一面が専門書で埋め尽くされているのが当たり前だが、書籍はまだ一冊も無いようだ。
部屋の奥にはもう一室あるので、そっちにアルミラックに収める予定の本が山積みされているかもしれない。だけど、なんていうか……。この雰囲気からすると、小綺麗なデスクがあるだけなんじゃないだろうか。なんとなくだけど、書籍なんて持っていなさそうな感じがしてしまう。
教授はいったん奥に引っ込むと、ポットと人数分のカップを手に戻ってくる。
教授が注ぐコーヒーを断るわけにもいかず、俺たちはおとなしくオフィスチェアに座ってカップを受けとった。
「インスタントだが、うまいものだよ。私が昔飲んでいたコーヒーはひどいものだったからね」
「……そうですか」
「そう。あまりにひどくてね。知り合いから、これがコーヒー? って驚かれたものさ」
懐かしい思い出なのか、教授はどこか感慨深そうに宙を見上げる。
「えと……教授?」
「あぁ、すまない。……余計な話だったな。説明に移ろう」
教授は郷愁を断ち切ろうと首を振り、コーヒーをテーブルに置いて俺たちに向き直る。
「私は現在、自らが主体となった実験は行っていない。今のところ、実験を行うための施設そのものが存在していないんだ。論文として世に出る前の段階の私の話に興味を抱いてくれた人がいて、パトロンになってくれた。その人の多額の出資のおかげで、この大学に居場所ができたわけだな。三年後には、千葉のキャンパスに重力子検出機の試作機が完成する予定だ。試作機稼働前までに私の理論を学会に認めさせねばならん。そうしなければ、実証実験に専念できないからな」
「はぁ」
「……」
俺と美嘉は顔を見合わせるしかない。
教授は楽しそうに自分のやっていることを語るが、俺たちが知りたいのはそういうことじゃなかった。
だけど、教授はそんな俺たちの態度なんてわかっていなさそうだ。
「私には事実だとわかっていることでも、本当だと叫んだだけでは理解は得られない。理論立てた科学的説明を付与できなければ、それをおいそれと事実だと認めるわけにはいかないのが世の中の仕組みというものだ。科学というものは概してそういうものだが……存外骨が折れるよ。理論を構築するというのはね」
そう言って、教授はおどけた態度でウインクしてみせる。だが、その言葉からするとやせ我慢なのだろうか。
「いや、だから――」
――俺が聞きたいのはそういうことじゃなくて。
そう言いかけた俺に鋭い視線を向けると、教授はぴっと人差し指を立てて見せる。
「――天使」
そう言われて、俺はうろたえながらもうなずく。
「今はまだ、重力子の存在を学会に、世間に認めさせるという段階でしかない。しかし、私が求めているのはもちろんその先だ」
「その、先?」
美嘉の言葉に、教授は先ほどまでとは打って変わって、端的に告げた。
「――天使の力についての科学的解明」
「……?」
「なんですって?」
意味がわかっていない俺たちを押し退け、五条が割り込む。
「天使の力がなんなのか、あなたはわかっているというのですか?」
「もちろんさ。……いや、断片的に、と言った方が正確だが」
平然と言い放つ教授に、五条は絶句する。
「これがDNAに依存する遺伝的特性なのかどうかまでわかっているわけではない。私はこれまで天使を何人か見てきたし、歴史上も天使だと思われる人物は複数存在する。だが、自分も含め、天使本人の親もまた天使だった、という例は一例しか知らないしな」
遺伝子工学は守備範囲ではなくてね、と言って教授は一度まぶたを閉じると、光輝く瞳として開眼する。突然すぎるそれに、俺と美嘉はただ凍りついた。
「教授! あなたという人は――」
「――天使において視覚的にもっとも特異な点は、この蒼く輝く瞳と言える」
あの力を目の当たりにした俺には恐怖しかなかったが、教授は意外にも冷静に話を続ける。
「このとき、天使の視界は拡張され、三次元以上の空間を視認している。それはこの世界に、三次以上の空間の次元が存在するという所作でもあるわけだな。この四次元目の空間に存在する光が、それを視認している瞳を反射することで、通常の三次元空間において天使の瞳が輝いているように見えるわけだ。次元光放射の一種だな」
「次元こう……なに?」
「次元光放射。通常の空間に存在しない光が現れる現象だ。天使の瞳の輝き、力を使用する際の光の奔流、そして魔法陣のように展開する光。それらのほとんどが蒼い光だが、まれに紅い光を放つパターンも確認されている。蒼と紅の光の違いは未だ分かっていない。これらの光は現在の物理学では証明不可能な現象で、私たちは未だ、三次元以上の空間の存在を証明できていない」
「すばらしい、ゴジョウ君。現状で判明している事実からすれば、ほぼパーフェクトな答えだ」
俺にはなにがなんだか、という内容だったが、シュタイナー教授にはそうでもなかったらしい。にこやかに拍手をして五条を讃えている。
「とはいえ……天使でない者に対して、三次元以上の空間の存在はほとんど証明不可能だがね」
「不可能?」
五条の質問に、教授はうなずく。
「低次の空間に存在するものが、高次の空間を認識することは不可能だよ。……どう説明すべきかな。そうだね。通常、三次元空間に存在する我々の視界は、二次元の平面に過ぎない」
「……? しかし、我々の視野には遠近感があり、いわゆる奥行きを感じることができると思うのですが」
五条の反論にも、教授は動じない。
「それは脳が錯覚しているからだ」
「え?」
「我々には、瞳が二つある。左右の瞳から、それぞれ少しずれた映像を脳内で補正して、奥行きがあるように感じているだけさ。映画やVRとかいう技術は、その錯覚を応用しているにすぎん」
五条は反論できずに黙る。
「我々の眼球は、空間に存在する次元を微分によって三次から二次へと落とし、脳に伝達する情報量を減らしているわけだな。……さて、三次元の生命の視界が二次元ということは、仮に二次元の生命体がいたとしたら、その視界は二次からさらにダウングレードされ、一次元となる。平面上に存在する生命は、その断面である線状の視界しか情報を得られないということになる」
「線状の視界?」
美嘉の疑問に、教授は蒼い瞳のまま答える。
「三次元空間を知っている我々には、逆に想像しにくいかもしれんな。平面上にいる存在は、その平面から離れることができない。そのため、我々が絵画を眺めるように、自らの存在する平面を客観視することができないということだな。……ただの例え話だ。あまりイメージがわかないなら、そう深く気にすることではないよ」
「はぁ」
「……さて、元来二次元にしか存在しない生命が存在したとして、その生命に三次元を理解することは可能だろうか? いや、三次元を観測できるモノを作れるだろうか、と問う方が正しいかな」
「それは……」
無理だろう、という言葉は飲み込んでしまったが、教授は俺に向かってうなずいてみせる。
「君が考えている通りだろうな。そもそも、縦と横しかない世界で高さという概念を理解できるか疑わしい。さて、では三次元なら? 四次元空間を観測できる機器を作れるか?」
「……」
「……」
「……」
五条も、俺と美嘉も、押し黙る。
そもそも、四次元空間とかいうのがどんなものなのかわからないのだ。観測もなにも、どうしろと、としか思えない。
「……その沈黙が、なによりも雄弁な回答と言えよう。つまりはそういうことだが、あくまでも“ほとんど”不可能だということでしかない」
「……?」
「昨日の講義は覚えているかな?」
「ええ、まあ」
急な内容の転換に、うろたえながらうなずく。……よく思い出してみれば、内容を理解はできてなかったのだけれど。
「この三次元空間、時間を足した四次元時空には、基本的な力、相互作用と呼ばれるものはたったの四種類しかない」
「光、重力、強い力、弱い力ですね」
五条の言葉に、教授はうなずく。
「その通りだ。しかし、重力以外の力は三次元空間に束縛されている。要するに、四次元以上の空間に影響を与えられないということだ。逆に重力は、四次元以上の空間へと力が拡散してしまう。そのため、三次元空間内での重力は、他の力と比較すると極端に弱い。弱い力、なんて言われている力よりもね」
「……」
相変わらず、話についていけない。
「天使の力というのは、高次の空間を認識し、そこに拡散してしまっている重力子を操る力だ」
教授はテーブルの上で右手を開く。
その右の手のひらの上で、小さく蒼い光が瞬くと共に空間がぐにゃりと歪んだ。
息をのむ。……重力を操るっていうその力を手のひらの上で俺たちに見せているんだってことが、見ただけでわかる。だけどそんな力、突飛すぎるにもほどがある。この、手品なんか及びもつかない目の前の光景さえなければ。
「しかし――」
「言いたいことはわかるよ、ゴジョウ君。天使によって操る力の種類が異なることは、私も知っている。だがそれも、基本となるのは重力子さ」
「……」
反論しかけた五条は、教授の言葉に再度黙る。
「天使は、高次元に拡散した重力子を介して、各種の相互作用を引き起こすゲージ粒子を操っている。重力子のみだが、しかし強力に使いこなせる者たちを、君たち多次元時空保全委員会は第四項と呼んでるそうだね」
教授は懐から金貨を取り出す。
それを、右手の手のひらの上でふわりと宙に浮かせて見せた。
俺と美嘉は息をのむ。
昨日、中庭で白衣の男が見せた力だ。枝や幹を浮かせていた力。
それが、重力か。
「そして次に、第一項、弱い相互作用であるウィークボソンを操る力」
浮かんでいた金貨を右手でつまみ、あらためて俺たちに見せる。それはみるみるうちに色が薄くなっていき、黄金から白みを帯びた色合いへと変化してしまった。
「金は非常に安定した元素だが、今、強制的にベータ崩壊を引き起こさせた。陽子数は79から78へと減り、元素番号が一つ若いプラチナへと変化したわけだ。とはいえ、陽子が中性子になったわけだから、このプラチナは通常より中性子数が多い同位体だ。第一項の力がなくなれば、安定した元素になるまで、さらに崩壊していくだろう」
金貨からプラチナへと変わったというそれを、ぱちんとテーブルに置いてみせる教授。
「第二項、光子を操る」
先ほど金をプラチナへ変えた指先から、淡い光の波が溢れる。
「光を操るんだ、詳しい説明はいるまい。とはいえ、使いこなせればあらゆる波長を揃えてレーザーとして使えるし、なにかしらの映像を映し出すこともできるだろうな。そして最後に第三項、グルーオン。グルーオンは原子核内の陽子と中性子を結びつけ、またさらにその内部のクォーク、素粒子同士を結びつけている力だ。強い相互作用のことだな」
教授はプラチナとなった硬貨を、再び俺たちに見えるようにつまみ上げる。
「グルーオンはクォーク同士を結合させている。これが消失した場合、陽子や中性子の内部で、アップクォークとダウンクォーク同士を繋ぎ止めておく力が無くなるということだ。そして、クォークという素粒子は高エネルギー状態でなければ、単独での観測は困難を極める。つまり――」
硬貨が、キラキラとした光を放ちながら消失していく。
「……!」
その光景に、唖然とするしかない。
みるみるうちに硬貨が上から消失していき、淡い光を残してあっという間になにもなくなってしまった。教授の指先にあったはずのものは、もはや跡形もない。
「アップクォークとダウンクォークの結合は失われ、陽子と中性子は崩壊する。原子はすべて、単体のアップクォーク、ダウンクォーク、電子の三種類にわかれるわけだ。グルーオンによる場も消えるため、質量さえそのほとんどが失われる。我々の見るマクロなスケールでは、消失したようにしか見えない現象だな」
教授の解説なんか、頭に入らなかった。
そこにある物体が消失するなんていう光景に目を奪われた、というのもある。けれど、それが昨日の最後の光景と酷似していたからだ。
「あなたは……すべてを使いこなせるというのですか」
「まさか。かなりの訓練をしたつもりだがね。グルーオン以外は今見せたくらいのことが限界だよ。力として使いこなせると言うにはほど遠い。せいぜい今みたいに、デモンストレーションに使って見せるくらいさ」
そう言うと教授の瞳から蒼い輝きが失われ、通常の紫水晶の瞳へと戻る。
かなり神経を使う力だったのか、教授は疲れたな、と言い出しそうな深いため息をついた。
「この天使の力は、人類の認識可能範囲外の、四次元目の空間が存在するからこそ使える力だ。この力の仕組みを解明して応用させれば、人類にも“多次元時空”を理解するときが来るかもしれんな」
「……」
教授の言葉に、俺はなにも言えなかった。
教授の話は信じられないような話ばかりだった。だけど、実際に見せつけられたあり得ないはずの光景が衝撃的で、一笑に付すことができなかった。
硬貨が消滅していく光景。
それは、俺を刺し貫こうとしていた枝や幹が消滅していく、あの光景と重なる。
「昨日の中庭での現象からすると、ヤマサキ君も私と同じグルーオンに干渉できるのだろうな。ゴジョウ君の所属する多次元時空保全委員会の呼び名に習えば、第三項の天使というわけだ」
……んなこと言われたって。
いったいなんのことなんだか、俺にはちっとも分かっていないのに。
セルシオ・シュタイナー教授と五条沃太郎の視線から、俺は逃げるように、救いを求めるように美嘉を見た。
俺の知らないところで、俺のことが勝手に決められている感じ。そんなのが居心地がいいはずもない。
美嘉の瞳もまた恐怖に染まっていた。
教授のさっきの手品みたいな光景に対してとか、それと同じ力を俺が持っているということに対して怖がっているようには見えなかった。
けれど、じゃあなにに対して怖がっているのかというと、それもまた俺には分からない。
……なぜだろう。
俺よりもよっぽど、美嘉の方が怖がっているように見えて仕方がなかった。
そんな俺たちの様子など分かっていないのか、教授は少しだけ情けない表情を浮かべる。
「……もったいないことをしたな。十円硬貨でやるべきだったかもしれん」
「……」
知ったこっちゃない。
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