第4話 襲撃
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「徹、どういうこと? シュタイナー教授のこと知ってたの?」
講堂から出てすぐ、美嘉が問いつめてくる。けれど、なぜ教授に話しかけられたのかわからないのは俺も一緒だ。
講堂は五号館の三階にある。講堂から出てきた俺たちが歩いている渡り廊下は、エントランスホールの吹抜けに面していて、エントランスホールに降りるためのエスカレーターもこの渡り廊下の先にある。五号館の正面出入口の真上にあるこの廊下は外部にもせり出していて、正面の中庭を見下ろせるバルコニーにもなっている。ちょうど講義の合間の時間だからか、階下のエントランスホールや外の中庭前の道路では多くの学生たちが行き交っていた。
「そんなわけないって、美嘉だってわかってるだろ。俺だってシュタイナー教授とは初対面だし……さっぱりだよ」
「そう……だよね。うーん」
俺と美嘉は小学校低学年の頃からほとんどずっと一緒にいる。俺の知り合いなら、ほぼ間違いなく美嘉だって知っている。
というか、俺の知り合いで美嘉の知らない人なんかいるはずがない。
さっきのシュタイナー教授の態度に疑問なのが、美嘉だけなわけがなかった。
俺自身が一番理解できていない。
「俺、別に成績いいわけでもねーしな。……わざわざ俺に声をかけてくる理由もない気がするんだけど」
「徹に……なにか感じたのかな」
「感じるってなんだよ」
「わかんないけどさ。なんか、近いものを感じたとか?」
「俺にか? ……いやぁ。あんな人と近いトコなんてあんのかな」
美嘉の言葉に思わず苦笑する。
そんな風にあーでもないこーでもないと話しながら、俺たちはエスカレーターでエントランスホールまで降り、そのまま五号館を出る。
エントランスホールのすぐ外にはキャンパス内の道路があり、その向こうには上からも見下ろせた中庭がある。
ちょっとした芝生と木立だけの中庭だ。両脇を事務棟である一号館と実験棟である七号館に挟まれた、小ぢんまりしたそれ。
その、五メートル四方くらいの真ん中に立つ樹木の手前で、なんの前触れもなく紅い光がまたたいた。
「え?」
俺の疑問など意に介することなく、まるで魔法陣のような紋様を描いて、その燐光はかき消えてしまう。
一瞬の出来事だった。
まるで、よくできたコンピュータグラフィックでも見せられたみたいな感じ。
……もちろん、周囲に光を放つものなんてなにもない。
「今の……」
美嘉の言葉に返事する間も無く、中庭の樹木がぐにゃりと歪んだ。
「……!」
水面に映る風景みたいに、遠近感が狂いそうな光景。
その幹の中ほどに水滴が落ちたみたいに、空間に波打つ波紋で背後の壁が混ざりあって……いや、なんの不純物もないガラス玉ごしに見たみたいな、と表現した方がいいだろうか。それはせいぜい手のひらほどしかなかったのに、歪みはあっという間にどんどん大きくなって、すぐに人ひとりくらいは簡単におおってしまえるほどのサイズに広がった。
美嘉が怯えて、俺の腕をつかんでくる。安心させてやれるならいいけれど、俺だっておんなじ気分だった。
ぐにゃりと歪んだそこの――巨大になったガラス玉の内側って感じの――光景が変遷する。まるで、テレビの映像を切り替えているみたいに。
「ほう。……これは、山崎徹教授と斎藤美嘉さん、か」
そしてその、なんだかよくわからない空間の……向こう側、とでも表現するしかない場所から、声が響いた。
歪みがひどくてわかりにくいが、向こう側は複雑な機械に囲まれた、実験室みたいに見える。そこから、何者かがにじみ出て――としか表現できない様子で――現れる。
逃げ出すべきだ。
とっさにそう思ったが、目の前の常軌を逸した光景に目が奪われ、体も動こうとしない。
出てきたのは、男だった。
なにもなかったはずのところから現れた、なんてことさえなければ、特に気に留めることもなさそうな、そんな男。三十代くらいだろう。白衣を着ているが、大学内なら助教授と思えば違和感もない。
硬直する俺たちなど気に払う様子もなく、男は淡々と周囲を観察する。
「……ふむ。まだ行き先を安定させるには至らないが……とりあえずは成功、というべきかな」
ぶつぶつと意味不明なことをつぶやく男の背後で、空間の……歪み、とでもいうそれは、どんどんと小さくなっていき、あっという間に消えてしまった。
……まるで、そんなもの初めからなかったみたいに。
「あなたは、いったい……」
なにも言えないままの俺の横で、美嘉がそう声を漏らす。
「山崎教授に斎藤さん……か。あなたたちがそこにいるということが、最低限の実験成功を示す、なによりの証拠と言えるな」
男はそう言って微笑むが、俺たちにその言葉の意味など分かるわけがない。
「あんたは、誰だ。なんで……俺たちのことを知ってる?」
のどがからからになる感覚に必死にあらがい、美嘉が発した問いを俺は改めて投げかける。
だけど、そんなことするよりも逃げた方がいい。
わけの分からない所から現れて、しかも俺たちを知ってる。どう考えたって、ろくでもない事態に巻き込まれようとしている。
そんな困惑を抱く俺とは違って、男は慌てるそぶりも見せず、不気味なくらいに落ち着いている。
「色々と……私の今後に、不都合な影響をもたらしかねないのでね。私が何者か、なぜあなたたちを知っているか。もっともな疑問かもしれないが、答えるつもりはない。しかしそのどちらも、あなたはやがて知りうることとなるだろう。さて ……」
そう言ったとたん、男の気配……というか、雰囲気が変わった。
怖気が走る。
無意識に一歩下がった俺たちの前で、あろうことか男の瞳が蒼く輝いた。
「……!」
「な……」
ありえない光景の連続に、絶句する。
さっきから理解不能な光景ばかりで、全然頭がついていかなかった。
そんなことあるわけないのに。なのに……目の前の男の瞳は、確かに蒼く発光している。
「……変えられないのだろうが、検証の必要が無いわけではないな。山崎さん。恨みがあるわけではないが……覚悟してくれたまえ」
変えられないって、なにが?
覚悟って?
その光はなんだ?
なにを……検証するって?
数々の疑問に混乱する俺に、男はなんてことなさそうに手をかざす。
するとそこに、瞳と同じ蒼い光の……魔法陣かのような紋様がきらめいた。
色や紋様が違うものの、それはさっき空間の歪みが現れたときの、紅い魔法陣に似ていた。
全身に寒気が走る。
硬直してる場合なんかじゃない。
反射的に、俺は美嘉を抱いて横っ飛びする。
「きゃあっ!」
耳元で美嘉の悲鳴が響く。が、そんなこと気にしていられない。
男の手元から、なにかが飛んでくる。
それがなんなのかは見えもしないが、そのなにかの周囲の空間は歪んでいて、そこになにかがあって、俺たちがさっきまで立っていたところに飛んでいったことだけはわかった。
それが通りすぎる瞬間、奇妙な浮遊感を味わう。
ぞっとする。
飛んだ最中、その空間を歪めるなにかに、俺たち二人の身体が引っ張られたのだ。
滞空時間が引き伸ばされ、想定より少しだけ遅れて俺と美嘉はアスファルトに転がる。
「なんだ、今の――」
言い終わらないうちに、背後でガラスがぐちゃぐちゃに砕けるような、金属が引きちぎられるような、甲高い音が鳴り響く。
振り返ると、五号館のエントランスホールにある自動扉のガラスが、円形に切り取られて消失していた。考えるまでもなく、さっきの“なにか”の仕業だ。
自動ドアがあんなことにしてしまうものを俺たちに向けたってことは、あの男は……俺たちを殺そうとしてきている。
だけど、なぜ?
しかも、あんなわけの分からない力で?
知らない男相手に、俺たちがなにをしたっていうんだ?
「今のが偶然なのか、助かるべくして助かったのか……どちらかはすぐにわかる」
こっちのこのなんてお構いなしに、男は淡々と、落ち着いた様子でそう言って再度手をかざす。
アスファルトに転がったままの状態で、俺はその光景を呆然と見やる。
どうにもならない。
さっき避けられただけでも奇跡みたいなものだったんだ。立ち上がる余裕もないのに、再度あれを避けるなんて無理に決まってる。
なにがどうなってるのかなんてなにも分からないし、絶望を感じるヒマすらなかった。ただ分かったのは、目の前にあっさりと死がやって来たってことだけだ。
「――殺させはせんよ」
そんな声が聞こえたかと思うと、白衣の男がその場から飛び退く。
瞬きかけていた蒼い魔法陣がななめに断ち切られ、それとともに避けきれなかった男の白衣のすそもまた切り裂かれる。
飛び退いた男は、中庭中央の樹木の影に降り立つ。しかし、断ち切られたのは魔法陣と白衣だけではなかったらしい。男の目の前で、その樹木が切断面を滑り落ち、その樹木の鋭利な断面が地面に突き刺さった。
「……セルシオ・シュタイナー」
白衣の男は、やれやれ、とでも吐き捨てそうな言いぐさでその名を呼ぶ。
事態についていけないまま、白衣の男の視線を追って振り仰ぐ。五号館の三階、俺たちが先ほど歩いていた、エントランスホール上のバルコニーにシュタイナー教授が立っていた。
彼の、紫水晶のはずの瞳もまた、男と同じように蒼く輝いている。
「現状で確認されている中では唯一の、天使の第三項の力か。グルーオンに干渉してすべてを切断するその力は、相変わらず厄介だな」
「ならば、早々にあきらめたまえ」
そう言って教授は、三階だということを意識させない軽やかな身のこなしでバルコニーから飛び降りると、右手を一閃。教授が放ったその――不可視の……斬撃? みたいな――なにかは、男の追撃の蒼い光の魔法陣をまたも切り裂き、樹木をもさらに切断する。
「悪いが、私にもやらねばならないことがあってね。そう簡単にあきらめるわけにはいかない」
「トオル・ヤマサキを殺すことが、やらねばならないことだと?」
吐き捨てる教授に、男はいやに落ち着いた笑みを見せる。
「その通りだ。……いや、正確には“殺せるかどうかを検証すること”なのだがね」
「……彼が不死だとでも言う気かね」
そう鼻で笑い、教授が男に肉薄しようとする。が、それよりも早く二人の間にひときわ大きな魔法陣が展開する。
その、直径二メートルはありそうな魔法陣が現れたと思ったときには、教授は思いきり吹き飛ばされていた。
教授の痩身は、先ほど消失した五号館の自動ドアを抜け、エントランスホールの中へと消えていってしまう。五号館の奥から、甲高い悲鳴が聞こえてきた。
「さて、邪魔者も消えたところで――」
地面に倒れたまま動けもしなかった俺たちは、改めてこちらに向き直る男の言葉に息をのむ。
「――本来の目的を果たさねばな」
蒼い瞳が、狂気に染まって見えた。
「お、俺を……俺を、殺したいだけなんだろ?」
男はほほ笑む。俺の問いに肯定した、と受け取っていいのだろうか。
「……なら、美嘉は関係ないはずだ」
「とお……る?」
「そうだな。それで?」
余裕を崩さない男に、俺はなんとか立ち上がって――美嘉と距離をとる。
「俺だけにしろ。それで、十分だろ」
「ふむ、わかった。私も、不必要な殺しは避けたい。これは検証の一つであって、シリアルキラーになりたいわけではないのでね」
俺の声は、即答する男の声と比べると、みっともなく震えていた。だけど、そんなの……仕方がないだろ。男の発言も矛盾だらけに感じたけれど、なにも言えなかった。
「徹! いやっ!」
美嘉も叫び声をあげるが、それだけで精一杯のようだった。美嘉の声に動ずるわけもなく、男は腕をあげる。
中庭に散らばった樹木の枝や幹がふわりと浮き上がる。切断され、鋭利な切っ先がいくつも俺へと向く。
それと同時に、少しも考える時間を与えてくれないまま、それらは容赦なく殺到してきた。
「う、ああああああああっ!」
「徹っ!」
無我夢中で伸ばした手のひらの先。
俺を貫かんとしていた枝や幹が、淡い光をともない塵へと化して消えていった。
「……!」
その光景に唖然としたのは、俺だけではなかった。
「まさか、第三項の力だと……?」
目を見開いて、男もまた微動だにせずその光景を眺めていた。
「セルシオ・シュタイナーでは……ない」
男が一般棟の方を見る。
教授はまだエントランスホールの中央でがっくりと膝をついている。せいぜい、ようやく立ち上がれるか、といった様子だ。瞳が輝いているようにも見えない。
「となると、山崎さんが? ……いや、そんな話はなかったはずだ」
疑念に満ちた視線を俺に向ける。……が、やがてにやりと笑みを浮かべた。
「まあいい。本当に第三項だというなら、確かにあなたを殺すべきではない。……ここであなたが死なないのは、確かな事実ということか」
「……?」
俺には男の言っていることなんてなにも分からないが、そもそも誰かに告げたわけではなかったらしい。単なる独り言か。
「山崎さん。今回はここまでだ。また、会うことになるだろう。私の知る限り、あなたにとっては、それが長い苦難の始まりとなるだろうがね」
「……」
なにも言い返せないまま、なにも問い返せないままの俺を一瞥すると、男は腕時計を確認する。
同時に、男の背後で紅い燐光がまたたき、新たな魔法陣が現れる。男がそれに手を伸ばし、またあの……空間の歪みが顕現した。
「まだ確実ではない、か。だが、こちらからの手助けがあれば不可能ではない。彼女の力、私も扱えるようにならなければな。……それでは、私はこれで失礼するよ」
なにやら考え込んでぶつぶつとつぶやいてから、男はなんら臆することなくその歪みの中へと入っていく。
そしてそのまま、歪みはどんどん小さくなっていき、あっさりと消えてしまった。
残されたのは、樹木が無惨に切り刻まれた中庭だけ。
「徹っ!」
美嘉がようやく起き上がり、立ち尽くしたままの俺に抱きついてくる。
「よかった。よかった――」
「あ、ああ……」
美嘉の言葉にさえ、俺はそれ以上なにも返せなかった。
きつく抱きしめてくる美嘉に、その涙に濡れた表情に、謎の白衣の男がいなくなって俺たちが助かったんだってことを、やっと実感できた気がした。
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