第3話 講義
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「――では、私もここに来てまだ十日しか経っていないのでね。君たちがどこまで学んでいるかを把握することも兼ねて、おさらいと行こうか」
イントネーションに違和感のない、なめらかな日本語でそう言うと、教壇に立つセルシオ・シュタイナー客員教授は、手元にある水の入ったコップを掲げる。
「ここに水が入っている。もちろん、完全な純水ではないから各種金属イオンも入っているわけだが、少なくとも主成分は水。つまりH2Oだな。このH2Oは水素原子二つと酸素原子一つで構成されている」
ここまでは高校どころか中学レベルの話なので、皆は軽く聞き流している。
俺と美嘉は五号館内にある講堂の端の方の席で、教授の話を聞いていた。二人とも、特段成績が良いわけではない。
「さて、水素原子や酸素原子は、核とその周囲を周回する電子で構成されている。ラザフォードが提唱した惑星型モデルというやつだな。水素原子の場合、核は陽子一つで、周囲を周回する電子も一つ。酸素原子は核が陽子八つと中性子八つ、電子も八つだ。酸素原子は中性子の数が違う同位体が複数存在するが、ここではとりあえずそれでいいだろう。諸君、同位体については知っているだろう?」
そう言って、教授は学生を見渡す。ここまでは、さすがに多くの学生がうなずいていた。その様子に満足そうにほほえむと、教授はホワイトボードに水素原子と酸素原子の構造図をさらさらと描いていく。そんな教授の見た目は、物理学者や教授といった視点からするとかなり若い。まだ三十代後半くらいか。
短髪の黒髪に東欧系の顔立ち。そして、遠くからでもわかる紫水晶の瞳。
素粒子物理学なんていうマニアックな内容の講義にも関わらず、講堂内の学生は半分以上が女子だ。ジェンダーフリーと叫ばれだして何年経ったかわからないが、外国はともかく日本ではいまだこの分野は男ばかりらしい。それでも講堂内に女子が多いのは、教授のルックス目当てという人が多いんじゃないだろうか。……さすがにそれは偏見か。
「さて、この原子核を構成する陽子と中性子は、クォークと呼ばれる素粒子で構成されている。陽子はトップクォーク二つとダウンクォーク一つ。中性子はトップクォーク一つとダウンクォーク二つ。トップクォークの電荷が三分の二で、ダウンクォークの電荷がマイナス三分の一だから、合計すると陽子の電荷が一、中性子の電荷がゼロとなる。だからこそ“陽”子であり“中性”子であるわけだな」
教授はuudと書くと、それを円で囲んでpと、もう一つuddと書いて、そちらも円で囲んでnと書いた。
uがアップクォークでdがダウンクォークなので、uudを囲ったpというのは陽子、つまりプロトンのpだ。uddの方のnは中性子、ニュートロンを指している。
「原子を構成している素粒子は、このアップクォークとダウンクォーク、そして電子の三種類だ。この三つだけで、我々が観測することのできる物質のほぼすべてが構成されている。しかし、それ以外にもクォークは存在するし、レプトンと呼ばれる電子の仲間も存在する。……とはいえ、これらは崩壊があまりに早く、原子のような安定した複合粒子になれない。さまざまな中間子を作ることは実験からわかっているが、それもごくわずかな時間にすぎないな」
ちらりと横を見ると、美嘉は出てくる固有名詞の多さに辟易としているのがありありとうかがえた。もちろん、まったく人のことなど言えないのだが。
「さて、クォークやレプトンといった物質を作る粒子に対し、光子や重力子といった力を伝える粒子、物質に対する基本的な相互作用を起こす粒子をゲージ粒子と呼ぶ」
そう言って教授は、再度その紫水晶の瞳で学生たちを見回す。そうして皆の理解が追いついているであろうことを確認する。
他の学生はともかく、俺たちがついていけていないことには、気づいてもらえなかったようだ。
「相互作用。自然界に存在する力は、たった四つだけだ。電磁相互作用、素粒子同士の結びつきや原子核内の核力である強い相互作用、ベータ崩壊に代表される弱い相互作用、そして重力相互作用。我々がこの宇宙で観測できる力は、この四つの相互作用だけだ。他には存在しないと言われていて、事実、五つ目の相互作用は理論上でも実験上でも見つかっていないな。……この四つの相互作用それぞれのゲージ粒子はフォトン、グルーオン、ウィークボソン、グラビトンと呼ばれている。あぁ……日本語にすると、フォトンは光子で、グラビトンは重力子になるのかな。それで……光子と重力子はまだ観測に成功しておらず、発見には至っていない。が、重力子についてはもう時間の問題と言えるところまでは来ているな」
そう言って、教授は不意に俺を見る。
教授の紫水晶の瞳に、俺はびくりとする。蛇ににらまれたカエルみたいに、急に身体が動かせなくなる感覚。
「――私の研究は、その重力子に関するものだ。……粒子を観測できるようになって、ようやくスタート地点に立ったと言えるから、研究はまだ進んでいない……と言うか、まだ進められてもいないのだがね」
……いや、気のせいだ。たまたまこちらの方を見たから、俺を見ているような気がしただけだ。それだけで“俺を見ている”なんて、いくらなんでも自意識過剰すぎる。
実際、シュタイナー教授はすでに違う方を向いて話を続けているし。
「さて、前置きはそんなところだな。では、実際にそんな素粒子の振る舞いについて、数式を用いて導き出していくとしよう」
数式、というわりにアルファベットやギリシャ文字だらけの文字列が並びだしたホワイトボードを見て、俺たちだけでなく、多くの学生が重いため息をついた。
「あー。覚えきれないよー」
講義が終わって、美嘉はそううめいて机に突っ伏した。
俺もまったく同じ気分で、記号で埋め尽くされたホワイトボードを眺める。なんとかノートに写すだけ写したものの、さっぱり意味がわかっていない。毎回このペースで進行していたら、この単位を取るのは絶望的だ。やっぱり、興味本意で受講するべきじゃなかった。
ホワイトボード手前の教壇では、学生たちがシュタイナー教授を取り囲んでいた。
みんな、それぞれ質問をしているようだが、苦笑い気味の教授の表情からすると、講義の内容についての質問ではなさそうだ。取り囲んでいる学生のほとんどが女子であるあたり、なんとか教授の気を惹きたいだけなんじゃないだろうか。教授がこの神稜大学に招かれてからまだ一週間と少ししか経っていないが、教授の講義が始まってからのこの数日は、ずっとこんな調子のような気がする。
「シュタイナー教授は……なんというか、人気があるんだな」
俺と美嘉の近くにいた男が、教壇周りの光景にそんな言葉を漏らしていた。
「……大学に来たばっかりだから物珍しさもあるんだろうけど、あのルックスは反則だよなぁ」
男の俺から見ても、シュタイナー教授はかっこよすぎる。
「てかあんた、昨日の講義には来なかったのか? 昨日の時のほうがもっと凄かっただろ」
昨日は密集度がすごすぎて、教壇脇の出入口から出ていくこともできなかったくらいだった。あれに比べれば、今日のはまだマシだ。俺たちが出ていくスペースは残っているし。
そう答えてから、余計な言葉だったかもしれないと――単なる独り言に返事をしたのかもしれないと――ようやく気づいた。
振り返ったそこにいたのは、長身痩躯の、フレームレスの眼鏡がいやに似合う理知的な相貌。オックスフォードシャツにグレーのスラックスという辺り、いかにも真面目一辺倒といった雰囲気が出ている。
正直に言って、学生というよりどこかの研究室の助手といったほうがしっくりきそうだ。
「昨日は……予定がつかなくてな。ここ数日はバタバタしてたんだ」
「ふぅん。まあ……色々都合はあるよな。俺は山崎。こっちは斎藤。俺たちはもう行くけど、どっか別の講義で会ったらまたな」
俺たちも、目の前の教授の人気ぶりをぼんやりと眺めているわけにもいかない。
講堂を出るために立ち上がると、男はやけにほっとした様子だった。まるで、知り合いが誰もいないみたいな態度だ。
「あぁ……ありがとう。私は五条だ。五条沃太郎」
わかった、と言う代わりに手をあげて、五条と名乗った男に応える。
そのまま、美嘉と教壇の脇を取り抜けて講堂から出ようとした。
……だが、しかし。
「みんな、ああ、すまない。……君! 君だよ、トオル・ヤマサキ君」
密集している学生のスキマをぬい、紫水晶の瞳が俺を射抜く。
「え。俺……ですか?」
呼ばれるなんて思ってるわけがなかった俺は、予期せぬ声に動揺するしかない。教授の周囲に群がる学生たちも、教授がわざわざ声をかけた学生はいったい誰なのかと、一斉にこちらを向く。
その皆の視線に怯えてか、美嘉が俺の背後へ隠れて縮こまった。
「そうだ。会えてよかった」
会えてよかっただって?
俺のこと、知ってるのか?
そんな疑問をよそに、教授は学生の壁をかき分けて、わざわざ俺の目の前までやって来る。
「是非、私の研究室に来てくれたまえ。君には期待しているよ」
ごく自然に差し出された手を、思わず握り返してしまう。
集まっていた学生たちからの嫉妬や羨望に似た視線もさることながら、セルシオ・シュタイナー教授のその言葉に、俺はただただ困惑するしかなかった。
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