第2話 姉弟


2

 私は、もう二十歳になった五条沃太郎という男は、未だに十年前のあの日のことを忘れられずにいる。

 まだ十歳だった私が住んでいた施設は、あの日、跡形もなく破壊し尽くされた。

 たった一人の……少年の、おぞましいまでの天使の力によって。

 紅い光とともに、多くの人が死んだ。

 後に天使の第二項――聖書における大天使ウリエルの炎の剣――だと想定される、ありとあらゆる波長の光子が、目の前でいくつも駆け抜けていった。その“炎の剣”は、窓ガラスを、天井を、沢山の機械を、コンクリートの柱を、ひとつ残らずバターを切るよりも簡単に断ち切っていった。

 無論、私が見たのはそれだけであるはずもない。

 建物だけでなく、同い年の男の子の胴体が、苦手だった先生の首が、好きだった女の子の手足が、冗談みたいなあっけなさでバラバラになっていったのだから。

 皆、一体なにが起きたのかわかっていない様子で、遠くにある自らの下半身を、身体を、手足を、呆然と眺めていた。

 私は、彼らの顔が恐怖に染まるところを見ていない。

 目をそらしたわけではない。

 彼らが自らに起きた事態を理解するよりも、建物の崩壊の方が早かったからだ。

 崩落した瓦礫の下から、赤黒い液体がじわりと広がっていくあの光景が、私の脳裏に鮮明に焼き付いている。

 あのときに生き残ったのは、たったの六人。

 私と、私の姉である錫姉さん。あと三峯珪介と三峯燐の兄妹もだ。それから、施設の中で一番優しかった“せんせい”と、あの事態を引き起こした少年だけ。

 あの施設には、少なくとも五十人を越える人々がいたはずなのに、生き残った六人以外が、あの場で死んだ。

 そして、“炎の剣”を行使した少年は、あれ以来行方不明だ。

 死んではいないだろう。どこかで生きているはずだ。

 あのとき、私は少年を止められたんじゃないだろうか。

 あの少年と同じ、天使の力を持つ私になら。


「よーちゃん、おはよーって……なんだ。起きてたのね」

 扉を勢いよく開けた姉さんは、自室で着替え終わった私を見て、つまらなそうにそう言った。

「もう子供じゃないんだよ、錫姉さん」

「あーあ。よーちゃんったら自分のことは自分でできちゃう子なんだもん。つまんないわぁ」

「別に悪いことじゃ……」

 そう反論しかけるが、錫姉さんの視線に私は黙りこんでしまう。

 錫姉さんは近づいてくると、私のほほに手のひらを添える。錫姉さんの手のひらはほんのりとあたたかい。

「私はね、よーちゃんにもっとお姉さんらしいことしてあげたいのよ。この家にはケイとリンちゃんもいるけれど、たった一人、本当の弟である沃太郎にね」

「わかってるよ」

 私たちは、一般的な視点では“姉弟”とは言いがたいのかもしれない。それは普通の家族よりも薄く、だからこそ普通の家族よりも強固な絆だった。

「わかってるなら、もっと私に世話をさせなさいよー!」

「そんな無茶な」

 そんなことを言いながら、私たちは笑う。

 この他愛ないやり取りが、いつ終わるかわからない、ものすごく危うい平穏の上に成り立っているのだと、お互いに理解していながら。

 ……いや、理解しているからこそ、私たちはこんなやり取りをするのだ。

「もう、しょうがないわね。……朝ごはん、できてるから行きましょ。新しいキッチンはいいわー。前のところより広いし、掃除がしやすい」

「前のところは……古かったしね」

 私たちが――五条錫と五条沃太郎の姉弟と、錫姉さんの言うケイとリンちゃん、三峯珪介と三峯燐の兄妹の四人が――この神稜地区へと引っ越してきてから、まだ三日と経っていない。

 あの時、施設の崩壊のときに生き残った四人――もちろん、“せんせい”と、行方不明となっているあの少年を除いた四人だが――は、生活を保障される代わりとして、今の組織に所属させられている。

 内閣府多次元時空保全委員会第四項対策室。

 その、公式には存在しない組織の指示に従い、私たちは日本各地を転々としている。

 各地で下される指示は、判然としないものがほとんどだ。

 名目では空間の調査、天使疑惑についての人物調査、非公式実験への参加やらなにやら。だが、所詮大学生や高校生に過ぎない私たちだけでできる調査など、たかが知れている。錫姉さんは「私たちに言わない、なにか他の理由があるはずなのよ」と言い放っていた。

 私たち四人のうち、私と三峯燐の二人が、我々が“天使”と呼ぶ異能の力を持っている。この力は、そもそもその力を持たない者にはほとんど感知できない。そんな問題があるからこそ、私たちが派遣されているのだろうと思う。しかし、それだけとは思えない、なんらかの形で“天使”を利用している、というのが錫姉さんの主張だ。私には、それに対する明確な否定の言葉が思い浮かばない。

 ……ともかく、今回の任務は、天使疑惑のある三人に対しての調査だ。

 山崎徹。神稜大学二年。

 葉巻和彦。神稜大学附属神稜高校一年。

 セルシオ・シュタイナー。神稜大学客員教授。

 彼らの調査のために、私が神稜大学へ、三峯兄妹が附属高校へと、それぞれ編入することとなった。

 そもそもなぜ彼らにそんな疑惑が向けられることとなったのか、その経緯は私たちには一切伝えられない。しかし、それもいつものことで、私たちに拒否権がないのもまた、いつものことだった。

「……よーちゃん。無理しなくたっていいのよ。あなたには私がいるわ」

 ダイニングへと向かう途中で、錫姉さんは不意にふりかえってそう言ってくる。

「別に、無理してるわけじゃ」

「私はよーちゃんのお姉さんなのよ。それくらい、わかる」

「……」

 否定しようと手をあげる。けれど、錫姉さんは静かに、それでいて優しいほほえみと共に私の手をとる。中途半端にあがった私の手は、細かく震えていた。

「ほら、ね?」

 錫姉さんの言葉を否定できず、私はなにも言えなかった。

 この任務が、どうなるのかはわからない。

 これまで、天使疑惑についての調査は何度もあった。その調査の過程で、天使疑惑の人物が本当に天使の力を持っていたことは、今のところない。

 けれど、今まで一度もなかったからといって今回もそうなのかどうかはわからない。今回は本当に天使のキャリア持ちかもしれない。対話を受け入れてくれる相手ならいいが、もしかするとその力を行使したがる好戦的な相手かもしれない。力が暴走して、手がつけられない事態になってしまうかもしれない。

 そう思うと、この調査任務は何度やっても慣れることがない。

 最悪の場合、相手は行方不明となっているあの少年かもしれないのだ。

 大天使ウリエルの“炎の剣”で私たちの施設を破壊し、私たちの知りあいを大勢殺した彼。

 彼と相対してしまったら、私はどうすればいいのだろう?

 私はその疑問を胸の奥に閉じ込めて、錫姉さんに弱々しい笑みを浮かべる。

 そんな私に、姉さんも苦笑いを浮かべた。

「悪い方に悪い方に考えちゃうの、よーちゃんの悪いクセね」

「……」

「責任感強すぎるのも考えものねぇ。そんなに深刻そうな顔したままなら、接触は許可できなくなるわよ」

「……それは」

「だーかーら、気負ってちゃダメって言ってるでしょ。さ、美味しい朝ごはん食べて、普通の学生のつもりで行ってきなさい。余計なこと考えずに、友だちになってきちゃえばいいのよ」

「そうだね。……うん。それだけのことだ」

 そう言う私を見つめる錫姉さんは、慈愛に満ちたほほえみを浮かべていて、それだけが私の頼りになっていた。


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