第2章 雨曝しの再会

第2話




「うぅ・・・」


 締め付けるような頭部の痛みを覚えながら僕は目覚めた。

 目を徐々に開くとシーリングライトの光が視界を刺し、数回瞬きして光を目に馴染ませていく。

 

 二日酔いなのか、どうも気分がすぐれない。

 片手で頭を抱えながらソファからゆっくりと起き上がっていく。

 眼下のローテーブルには空の缶ビールがボウリングのピンの様に規則的に並べられ、灰皿には吸い殻の山が積まれ今にも崩れ落ちそうな有様だった。

 アルコールとタールの入り混じったような悪臭。

 毎日この部屋で過ごしているのに、この匂いだけは一向に慣れない。

 ベランダに出て喫煙すれば防げることなのだろうが、一本吸う為にわざわざ立ち上がる労力の方がめんどくさいと思った。

 だから自然と、寝起きの一本を吸おうとテーブルに置かれた煙草の箱とライターに手を伸ばす。

 箱を開けると中身は空っぽで、買い溜めしていた煙草類も全て無くなっていた。

 毎日どれくらい吸っているのかわざわざ数えたこともないが、恐らく二箱位立て続けに吸っているのだろう。

 舌打ちし、箱を握り潰して壁に投げつける。

 無抵抗な箱はコトッと音を立ててフロアに落ちた。

 めんどうだが、補充しに行かなくてはいけない。

 壁に掛けられた電波時計は深夜の二時十六分を指しており、外の人通りは少ない時間帯だろう。昼夜逆転の生活が功を奏した。

 しかし掃き出し窓から外を覗くと大粒の雨が一帯に音を立てて降り注いでいた。

 この様子だと、今夜降りやむことはまずないだろう。

 その光景を見て深いため息をつく。

 本当に、めんどくさい。


 コンビニは五百メートル程先にありあまり近いとは言えない距離だが、車を持っていない僕はこの雨の中を歩いていくしかなかった。

 上下黒のウィンドブレイカーの上にモッズコートを羽織り、玄関へと向かう。

 そこで問題が発生する。玄関先には傘の一本も見当たらなかったのだ。

 引きこもりの僕が外に出かけることなんて滅多にないし、傘を買い置いておく発想にまず至らなかったのだろう。

 仕方ない、このまま行くかと玄関ドアを開く。

 

 今は三月中旬で段々と温かくはなってきたものの夜はまだ寒い。

 暖房で温められた部屋から冷えた外部に身を晒すだけでも苦痛なのに、そこから雨に打たれながら歩き続けなくてはいけない。

 風邪を引くことは免れないだろうし、たかが煙草の為に何をやっているんだろうなと馬鹿らしく思えてしまう。

 でも、煙草とお酒を摂取する以外にすることがないのだからどうしようもない。


 何をしようにも力が入らない、空虚で無意味な日々を蛇足に生きるしかない。

 雨を体全身で浴び、最初こそ苦痛だったものの次第に感覚が失われ寒さを感じなくなる。

 数分後にはぬるま湯のシャワーを浴びているように心地いいとすら思えるようになった。

 

 狭い住宅街の路地を歩き続け、もう少しで曲がり角に差し掛かる。

 外灯の光は浮いた水たまりに反射され、どこか神秘的な輝きを放っていた。それらを踏み歩いて前に進んでいく。

 

 引きこもりの生活を始めてもう少しで一年が経とうしている。

 高校を卒業して入った会社を四年で辞め、わずかに貯めていた貯金を食いつぶしながら今日まで生きながらえてきた。

 それももう少しで底をつく。

 働かなくてはいけないのに、どうしても行動に移すことができないのだ。

 

 人が怖い。

 

 人間不信故に足が竦んでしまい、次の一歩を踏み出すまでに至れない。

 そう陥ってしまったのは、唯一信じていた人に裏切られたからだ。

 あの絶望感は今でも忘れられない。

 君は僕の人生の全てだった、それが前触れもなく唐突に終わりを告げたのだ。

 当時は全て上手くいっているように思えた、でもそれは違った。

 結局僕の思い過ごしで、君にとっては大切でも何でもなかったんだ。

 

 そう思った後は簡単だった、世界の全てが牙を剥いたように、心をズタズタに切り裂き廃れていった。

 要は堕落していったのだ、心の支えを無くした人間なんて風に吹かれたビニール袋の様で無抵抗に飛ばされていってしまう。

 君さえいてくれれば、いや、君と出会わなければ、僕はこうして落ちぶれることはなかったのかもしれない。

 僕がこんな酷い有様になってしまった根本的な原因は、全て君にあるんだ。


「大嫌いだよ」


 そう吐き捨て路地の角を曲がる。

 そこで僕は立ち止まった。

 

 下に俯きながら歩いていると、外灯に照らされ伸びた人影が僕の足元に映ったのだ。

 こんな深夜に、僕以外に出歩いている奴がいるのか。

 どんな奴なのかが気になって、僕は視線を地面から前方へと向けていく。

 その人物を確認した時、僕は呆然と立ち尽くした。

 

 女性だった。

 僕と同じように土砂降りの中傘も差さずに路地を歩き、長い黒髪は水分を含んで頬に張り付いていた。

 長い前髪の隙間から覗くぱっちりとした目は真っ直ぐに僕を捉え、全体的に細い体躯は片手で軽く押せば無抵抗に地面に倒れていってしまいそうな程華奢だった。

 白いセーターに赤色のフレアスカート、この寒さで上着の一枚も羽織っていない。

 紛う事ない美しい女性。

 

 しかし僕が驚いている理由はそこではない。

 その女性が、僕のよく知っていた人物だったからだ。

 互いに無言で対峙し、降る雨は勢いをさらに増していった。

 言葉に詰まる僕がようやく発せた一言は「・・・えっ?」だった。

 彼女に聞きたいことは山程あった。

 でも実際、前触れもなしに突然目の当たりにすると何と言っていいのか分からなくなる。

 噂をすれば影とでもいうのか、あれほど憎んだ相手が目の前に現れたのに対し、怒りが沸いてくるどころかむしろ嬉しいとさえ思ってしまう自分がいる。

 結局のところ、僕はまだ彼女の事を愛しているのかもしれない。

 

 彼女は無表情のまま真っ直ぐに僕を見据えてくる。

 どうするべきなのか思考を巡らせていると、彼女は右足を一歩前に踏み出してきた。

 一歩、更に一歩、立ち尽くす僕にゆっくりと近づいてきて気づけば目の前まで接近されていた。

 殺されるかもしれない、そんな危機感を覚えた。

 殺意を感じたわけでも特別凶器を手に持っているわけでもなかったが、得体の知れない恐怖は最悪の発想まで想像させてしまう。

 しかしあの時僕を捨てたのは君だ。

 あれから僕がどれだけ落ちぶれていったのか君は知らないだろうが、どちらかというと僕の方が君を恨んでいるし、殺す立場は僕にあるように思えるものだが。

 近距離で彼女と目が合う。

 まるで生気を一切感じさせない虚ろな目は、何を考えているのか全く分からなかった。


「なぁ・・・ユっ」


 久しぶりに呼びかけた彼女の名前を言い終える前に、胸元に衝撃があった。

 凶器で刺されたのか、そんな錯覚を覚えたが痛みは一向に訪れない。

 ただ彼女の頭が僕の胸元に埋まっていただけだった。

 両手を背中に回され、強く抱きしめられる。

 今度こそ僕はどうしていいか分からなくなった。

 この後彼女は何と言うのだろう?

 やっぱり私達やり直そうとでも言うつもりなのだろうか?

 そう想像して、僕の胸の中に温かい何かが流れ込んでくるような感覚があった。

 この感覚を知っている、心が喜んでいる時に生じる反応だ。

 この一年間、ひと時も忘れない程恨んだ相手なのに、結局僕には彼女が必要だった。

 傍にいてほしかった。

 どこにも行ってほしくない。

 気持ちの切り替わりが早い事に我ながら失笑する。


「リョウ」


 彼女が囁くような声で僕の名前を呼ぶ。

 それを聞いた時僕の胸は跳ねた。


「なに?」と僕は次の言葉を促す。

 そこで彼女は僕の胸に埋めていた顔を上げこちらを見る。

 彼女は笑った。少女の様に屈託のない笑顔で。

 愛してやまない、別れた後でも脳裏に映って忘れられなかった、彼女の一番大好きな表情。


「」


 彼女は楽し気に僕に何かを話す。

 でもそれが何だったのかは全く聞き取れなかった。

 直後視界が真っ暗になり、そのまま僕は意識を失った。


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