日向結夏
沈黙が流れていた。
僕と彼女の間の沈黙の中に夜がある、そのことが少し心地よかった。
「,,,,,,えっと,,,別にいいですけど」
僕は戸惑いながら呟くように言った。
しかし残念ながら僕の戸惑いは正しく伝わらなかったようだ。彼女は輝いた目のままでいる。
「いいんですか!じゃあ明日詳しいこと話すためにそこの喫茶店で会いましょう!」
まくし立てるように話した彼女はまだ興奮を隠しきれないような顔をしている。その事を微笑ましく見ていた。だが、僕にとって聞き捨てならない言葉が聞こえていた。
「えっ,,,明日?」
そう。僕にはもうない明日。
「はい!あっダメでした?じゃあ午前中にしましょうか」
まるで当たり前のようにそう答えた彼女に僕は呆然とする。きっと瞬とは気が合うタイプだ。人の話をまるで聞かない。
「あのさ君の名前すら知らないんですけど」
「
食い気味で言った彼女の言葉は早口で聞こえずらかった。
「,,,,,,?」
「だから、日向結夏。日に、向かうに、結ぶに、夏で。それで、私今気づいたんですけど私も貴方の名前知りませんでした」
「あー,,,井上秋翔っていいます」
そんな何となく始まった自己紹介は二人とも雑だった。そして彼女はこの場を去ろうとする。あまりにも一連の行動が早く過ぎてしまったから僕はギターを持ったまま固まっている。ずっと。
「じゃあまた明日ー!」
さっきまでの泣き顔が嘘だったような輝く笑顔で手を振って、彼女は夜の闇に紛れていった。僕はその背中を呆然と眺めていた。なぜだか彼女を止めようとは思わなかった。それはこの世界への一握りの未練からの行動だったかもしれない。
しばらくボーっとしていたが、ズボンに入れたスマホのバイブ音で我に返った。通知に映る名前は小川瞬。僕は午前中に送ったメールの内容を思い出し、すぐに応じることにした。
「大丈夫か?!」
瞬の焦った顔が思い浮かぶような声だった。一瞬申し訳なさが頭をよぎる。
「あー、、、。死ぬって言ってたろ。あれやっぱやめたから」
「は?なんだよ!驚かすんじゃねぇよ!はぁ、よかった。なにがあった」
「ん?あー、、、。なんか知らない人が僕の詩に号泣して、明日瞬の店でって言って消えた」
「なんだその物語みたいなの。,,,,,,まぁやめたならよかったよ。明日ちゃんと店来いよ?光哉も心配してたから。あと、死のうとした理由話せよ?」
瞬の優しさに少し心が痛んだ。自分を心配する人間は意外と近くにいるものだなと思って。ただ、それで僕の価値がどうこうなることはない。それがどうしようもなく哀しかった。
「了解。明日店来るんだ、光哉」
「おう。本当は入ってなかったんだけど秋翔が心配だから来るってさ」
「,,,,,,ごめん。」
「そう思うならもうするなよ」
「それは,,,,,,努力する」
「何だよそれ。じゃあ明日な」
「はいはい」
電話が切れた。
最後にようやく瞬の笑い声が聞けた。これで許されたと思っていいだろうか。僕は楽器を片付けて明滅する街灯と夜空の藍を眺める。不意に昔、瞬が僕に言った言葉を思い出した。それは今日のようにオリオン座の輝く夜空の下、2人で逃げたあの冬のことだ。
『俺、秋翔の曲もっと色んな人に聞いてもらうべきだよ思うよ』
あの頃の期待を大いに裏切って今ここにいる訳だが、なんで未だに目をかけてもらえているのだろうか。僕にはその理由さえ分からなかった。あの言葉があったから、期待があったからここにいる訳では無い。そんなこと当たり前だ。自分が、憧憬の劣化版である僕が、どれだけ通用するのか試した結果ここにいる。僕が身勝手な理由で辞めたせいで自分が苦労をしている。それだけの事だ。
なのにまだ僕のことを心配してくれることが本当に不思議で仕方なかった。
今日来た彼女はなぜ僕の曲が良かったのだろう。
それがいつまでたっても分からなかった。
明日データを渡して、それで終わりにしよう。
僕の人生はそこで終了かな。
ただ、誰かの記憶に残ってくれればそれがいいなと少しだけ思う僕がいることは、僕の心の中だけの秘密だ。あの映画のように僕を忘れないでほしい。
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