第36話


 学校からの帰り道に洒落たケーキ屋さんに寄って帰るなんて、以前の望乃だったら考えられなかった。


 梅雨の時期に少しでも葵に元気を出して欲しくて、彼女の好物であるベリータルトを購入したのだ。


 喜ぶ顔を想像しながら、ケーキボックスを丁寧に持ち運んで入れば、以前と同じ場所にて、あの女性に声を掛けられた。


 「オネエさん、また猫背!」


 少しカタコトな、失礼な物言い。

 新しくオープンする整骨院の宣伝をする彼女に向かって、望乃は勇気を出して言い返した。


 「わたし、猫背じゃないです!」


 まさか言い返してくると思わなかったのか、はたまた悪気がなかったのか。

 キョトンとした表情で、女性は目をパチクリさせていた。


 「ゴ、ゴメンネ」


 そう言い残して去っていく女性の背中を眺めながら、小さくガッツポーズをする。


 些細なことかもしれないけれど、また少し変われただろうか。

 

 「望乃、キャッチ追い払えて偉いじゃん」


 振り返れば、同じく制服姿の葵の姿があった。

 偉い偉いと頭を撫でられて、子供扱いされていると分かっているのに、少しだけ嬉しくなってしまう。


 葵の優しい手つきが、望乃は堪らなく好きなのだ。


 自宅に戻って来れば、何故か葵はジッと望乃の背中を見つめていた。


 「望乃さ、あのキャッチの言う通りちょっと猫背だよ」

 「え……」

 「効果あるマッサージ教えてあげようか」


 今まで自覚はなかったが、リュックサックを毎日背負っているせいで背筋が曲がってしまっていたのかもしれない。


 頷けば、葵は直ぐにこちらへ指示を出してくれた。


 「じゃあまず服脱いで」

 「ふ、服…?」

 「その方が効果あるから」


 戸惑いつつ、制服の上に重ね着していたパーカーを脱ぐ。


 ワイシャツ一枚の姿になった所で、ピンとある可能性が思い浮かんだ。


 「…も、もしかして揶揄ってる…?」


 疑うような視線を向ければ、悪びれる様子もなく葵はカラカラと笑っている。


 「やっぱり!絶対嘘なんだ」

 「本当私に対して警戒心ゼロだよね」

 「だって…葵ちゃんだから……」


 突然うなじを掴まれて、そのまま体を引き寄せられる。

 拗ねるように顔を背ける望乃の頬を優しく掴んでから、彼女の方を向かされた。

 

 至近距離で、綺麗にカールされた長い睫毛を見つめていた。


 「……お風呂入るけど、望乃は?」

 「え…」

 「一緒入る?」


 途端に頬に熱が溜まり、無性に恥ずかしくて堪らなくなる。


 「ひ、ひとりで入れる」


 声を上擦らせながら答える望乃に、葵はまたおかしそうに笑っていた。


 洗面所へと消えていく彼女を見つめながら、その場にへたり込む。


 心臓がうるさいくらいバクバクと鳴っていて、同時に期待している自分がいた。


 あのまま唇を重ねて欲しいと、そんなことを考えていたのだ。


 「ご飯前じゃないのに…」


 最近キスをするのは当たり前になっていたけれど、それは美味しく食事をするためという建前があったから。


 興奮した方が血が甘くなると言われて、それを信じて葵からの刺激に応じていた。


 だけど今はそんな大義名分がないというのに、ちっとも嫌じゃなくて。


 食欲を抜きにしても、愛欲を求めていた。


 そっと唇に手を這わせる。

 葵とするキスがあまりに心地良くて。


 思い出すだけで、下半身がジワリと熱くなってしまいそうだった。


 一緒にお風呂に入るかと尋ねられて、どうしてあんなに恥ずかしくて堪らなかったのだろう。


 女の子同士なのだから気にしなければいいというのに。

 これも全て、興奮したあの子の熱い瞳を知ってしまったせいだ。






 例年よりも早い梅雨明けをしたため、まだ7月の頭だというのに、すっかりと暑い季節を迎えていた。


 セミは鳴いていないけど、それも時間の問題だろう。

 夏の風物詩である蝉の大合唱を聞くのが、幼い望乃は好きだった。


 ああ夏が来たなと実感して、兄と一緒にプールや公園へ繰り出したものだ。


 あの頃は夏が大好きだったというのに、今の望乃は苦痛で仕方ない。


 息をするのも苦しいほどの暑さの中でダラダラと汗をかきながら歩いていれば、隣にいる葵が呆れたような声をあげた。


 「今日30度超えるらしいよ」

 「みたいだね…息するだけで熱いもん」

 「長袖着てるの、望乃だけだよ」


 辺りを見渡せば、周囲の人は皆んな半袖で、葵の言う通り長袖を着ている人なんて望乃くらいだ。

 

 天気予報では今日の気温は今年度で一番暑いとアナウンサーが話していた。


 葵は衣替えをしたようで、長くてスラリとした腕が半袖シャツからのぞいていた。


 「それ脱ぎなって。中半袖なんでしょ?」

 「でも…フードついてる半袖の服とか持ってないし」

 「なんでそんな頑なにパーカーに拘ってんの」

 「安心するから…」


 教室で仮眠を取る際は安心感に包まれて、うなじを守られている保護感は一度味わうとやめられない。


 半袖のフード付き服は持っていないため、昨年も暑い中必死に耐えていたのだ。


 「そんなんじゃ倒れるよ」

 「私低体温だから平気だよ」


 痩せ我慢にしか聞こえない望乃の言葉に、葵は更に呆れたように溜息を吐いていた。


 学校の教室にさえ入ってしまえば、クーラーが効いたガンガンの部屋で涼むことができる。


 清涼感を求めて、望乃は汗を流しながら必死に学校までの道のりを歩いていた。






 ふらつき始めた視界に、流石の望乃もこれはまずいと冷や汗をかき始めていた。


 学校に着けば予想通りクーラーの効いた空間が広がっていて、問題なく授業を受けられていた。


 このまま何事もなく1日が終わるかと思っていたというのに、問題が起こったのは6限の体育の授業を受け終えた後だった。


 炎天下のもとで行われたグラウンドでのサッカーは、すっかりと望乃の体力を奪い、直接注がれる日光のせいで汗がダラダラと止まらなかった。


 帰ったら直ぐにシャワーを浴びようと決心しながら、制服に着替えてホームルームを受けるために教室へ移動している時だ。


 思考がボーッとして、ろくに頭が回らない。


 汗だくの体育着から長袖のパーカーに着直してから始まったそれは、どんどんと酷くなっていく。


 「お前ら席つけー」


 6限終わりのホームルームを始めるために、担任教師が教室へと入ってくる。


 遅い速度で必死に席まで向かっているが、思うように前に進めない。


 「……ッ」


 視界が途端に暗闇に包まれたかと思えば、プツンと糸が切れたかのように、全身の力が抜けていく。


 迫り来るであろう痛みは、気を失ってしまったために感じることはなかった。


 こんなことなら葵の言うことを聞いておくんだったと、望乃は意識を失う寸前に考えていた。

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