第35話
翌朝には葵の熱は引いていて、心配する望乃をよそに今朝は元気よく学校へと向かっていた。
雨が降るたびに体調を崩してしまうそうだが、熱を出すほど重症なのは滅多にないらしい。
梅雨の時期だというのに今朝は珍しく晴天だったため、昨日とは打って変わって葵は元気を取り戻していたのだ。
やはり心配で仕方ないけれど、今の望乃にはどうすればいいのか分からない。
悩んだ末に、いつも通り変わらぬ態度で葵に接することくらいしか望乃には出来ないのだ。
オフィスビルが立ち並び、街中にはスーツを着た社会人が溢れかえっている街で、望乃は会社帰りの兄と共に店の商品を物色していた。
コーヒー豆専門店へ、母親の誕生日プレゼントを探しに来たのだ。
「これとかは?」
「お袋はこっちじゃね?苦いのダメだろ」
「コーヒー、全部苦いじゃん」
「この豆は特に苦いんだよ。ブラジルとかあっさりしてる方がお袋好みだよ」
提案するものの、コーヒーが飲めない望乃からすればどれも同じに見えてしまう。
結局、母親と同じくらいコーヒー豆に詳しい兄によって殆ど決められてしまっていた。
購入したコーヒー豆の入った袋を抱えながら、近くのカフェで休憩をする。
制服姿の女子高生は望乃だけで、どこか居心地の悪さを感じていた。
「あれパパ活?」
「にしては相手若くない?兄妹でしょ」
「兄妹でデート?可愛い〜」
聞こえてくる声を、兄はちっとも気にしていないようだった。
昔から周囲の声に振り回されない、堂々とした態度に望乃は密かに憧れているのだ。
「にいちゃん、穂花さん元気?」
「おう」
10個上の兄は高校生の頃に穂花という人間の女性と出会い、長年交際している。
婚約はまだだが、望乃と同じように吸血パートナー関係は結んでいるのだ。
「吸血パートナー関係も結婚も内容は殆ど一緒だからなあ…」
「けど穂花さんは人間なんだから結婚式とか挙げたいんじゃないの?」
兄は昔から輪の中心にいる人だった。
趣味はスポーツで、筋トレも好きらしい。
好きな音楽は洋楽で、兄弟でなければ絶対に互いが関わらないタイプだろう。
「望乃は高校どうだ」
「相変わらずだよ。私吸血鬼だし…半分は諦めてる」
「まあ、望乃の自由だけど……吸血鬼だからって壁を作ってたらいつまでもそのままだぞ」
「…分かってるよ」
「……意外と誰も望乃のことなんて気にしてない」
「え……」
「遠巻きに見てくるのは、皆んな知らないからだ。吸血鬼について…何も知らないから、どうすればいいか分からない」
先ほど、どこかから聞こえてきた冷やかすような声が嫌で、俯いていた望乃の頭を太陽は遠慮なく掴んできた。
筋トレが趣味な馬鹿力なせいで、ギリギリとした痛みに思わず声を上げる。
「い、痛い!にいちゃん痛いって」
「前を向け」
「わかった!分かったから離して…!」
兄の手が離れていき、未だに僅かに痛む頭を押さえながらそっと顔を上げる。
「あ……」
誰もこちらを見ていない。
先ほど冷やかす声をあげていたOLは、とっくに興味を失ったようで楽しげに会話を楽しんでいた。
スマートフォンやパソコンを弄る人もいれば、書類を整理している人。
皆自分のことに集中をして、望乃のことなんてちっとも気に留めていないのだ。
「……何も悪いことをしていないんだから、下を向くな。堂々としてろ」
姿見た目は人間と何も変わらない。
まさか望乃と太陽が吸血鬼の兄弟だなんて、側から見たら誰も気づかないのだ。
「嫌なこと言ってくる奴もいるけど…意外と良い奴も沢山いるから」
注文したアイスティーが店員によって運ばれてきて、ストローを使って一口飲み込む。
「にがっ…」
よく見れば真っ黒で、間違えてアイスコーヒーを持ってこられてしまったのだ。
普段だったらすぐに交換してもらっていただろうに、何故かアイスコーヒーを再び口内に含んでいた。
苦くて嫌いだったはずなのに、何故か今は少しだけ美味しいと感じていた。
移動教室へ向かう際、当然一緒に行く誰かなんていない。
一人で賑わう廊下を歩くことも、最近では慣れっこになってしまっていた。
物理室は他の教室よりも離れた場所にあるため、足を進めるたびに人通りが少なくなっていく。
先ほどとは打って変わって静かな廊下を歩いていれば、角を曲がった所で突然誰かに腕を掴まれた。
「影美ちゃん」
そこにいたのは、以前テニスの授業中に怪我をした女子生徒だった。
望乃に対して「来るな」と叫んだのが彼女で、あれ以来一度も話していない。
気まずそうに、彼女はウロウロと視線を彷徨わせていた。
「そ、その…冷静になったら影美ちゃんに嫌なこと言ったなって…ごめんね」
彼女の本心がどこにあるのか分からない。
人の価値観というのは簡単に変えられるものではないから。
望乃が長年培って来た過去の苦しみを簡単に乗り越えられないように、葵がトラウマから中々脱却できないように。
生きてきた中で構築してきたものを覆すのは容易ではない。
だからこそ、望乃が言う言葉は決まっているような気がした。
「全然、大丈夫だよ」
しっかりと目を見て、なるべく優しい声色で。
それを出来たのは5秒もない。
恥ずかしくてすぐに逸らしてしまったけど、少しだけ彼女の目の色が変わったのが分かった。
吸血鬼というのは今や絶滅危惧種と言われていて、会わずに人生を終える人だって少なくない。
だからこそ、彼女がいずれ他人から「吸血鬼ってどんな人?」と聞かれた時に。
「すごく良い子だったよ」と言ってもらうために、望乃が変わらないといけないのだ。
吸血鬼も悪い人ばかりじゃないよ、と。
少なくとも私の知ってる吸血鬼は違うと…身近な人の考え方に影響を与える。
今の望乃に出来ることは、そんな些細しかないけれど。
だけど何もせずに下を向いてばかりいるよりかは、何倍もマシなような気がしてしまうのだ。
長い目で見ればまだまだかもしれないけれど、少しだけ前に踏み出せたような気がした。
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