「『神を信じない頭など、今すぐ切り落とされるに限る』」


 言い切ってしまうと女は手を挙げて臆面のない直線的な声でダイキリ、と叫んだ。

 カウンターの向こう、天井から吊られたテレビの方に顔を向けて野球中継を熱心に眺めていた店主が、無表情を崩さず殺し屋のような鋭い一瞥を投げる。それから肯いたのかどうかもわからないくらい曖昧に首肯する。

 「これも引用よ」、初対面であるはずのその女は相変わらずよく喋った。「この文がいまここにいるあなたと、あるいはこの私と。どういう関わり合いにあるものなのか、当ててみて」

 会話に疲れ始めた僕は人差し指と親指でつまむ短くなった煙草の先から、鉛直上向きにまっすぐ伸びてはシーリングファンの風圧に乱され空中に蕩けてなくなってゆく白い煙の動態を観察しながら、しばらく黙っていた。

 僕が何も言わないで考えている、あるいはそのふりをしている間に、隣の席の女の元へダイキリの注がれたカクテルグラスが届けられ、コカ・コーラの王冠を模した壁掛け時計の短針の先は“11”に届かないくらいの位置からほとんど動かず。店の天井の隅に備えつけられたスピーカーから流れていたエーシー・ディーシーのハイウェイ・トゥ・ヘルはガンズ・アンド・ローゼズのミスター・ブラウンストーンに切り替わり、43インチの無音の枠組みの中では登板したてのセットアッパーが続けてふたつのフォアボールを出した。

 「わからない」、僕は首をすくめて煙草の先をバー・テーブルの灰皿でつぶしながら言う。「そもそも物理をもって証明できないものなんて。僕にとっては個人的な検証を試みる対象ですらない。だから神様なんて信じようがないものだと僕は思っているし、もしかしたらきみにとってはそうでないのかもしれない。わからないな」

 「ほとんど正解よ」と女は言った。「であるからこそ、あなたが文学の力を軽視してしまう一因もそこに含まれている、という話」

 「軽視している、とは一度も言っていないけど」、僕は訂正する。

 「なら、言い換えてみる。そこから享受されるものに大した価値を覚えない。それがたとえどれだけのものであったとしても。ねえ、あなたってそういう人間でしょう。わかる?芸術に対してはそもそも合理性や効率を尺度にして価値を見極めようとしたり、理屈やらで証明しようとする手続き自体がてんで見当違いなことな

のよ」

 女はそう言い切ってしまうとスツールに座りなおしながら、両肩にかかった根元まで金に染められた長い髪を両手で背中の方に流した。僕は彼女が言ったことのほとんどを、理解して自分のものにすることができないままでいた。

 背筋をぴんと伸ばしたところで女の胸は辛うじてその膨らみが確認できるくらいのもので、メイクさえしていなければ彼女を高校生として疑う余地さえあったかもしれない。金色の髪は後ろにやるとすっかりその狭い背中を隠してしまうくらいには長く、最も伸びたところなんて腰元くらいまであった。ひたすら長く伸ばしてかつ目立つ色に染めてしまう、その些か異端的とも言えるセンスが時代に合ったものなのかそうではないのかは僕にもよくわからなかったが、なんにせよパブの煌々とした照明の下では髪質の痛みが目立ったり艶のなさが隠せなかったりと、その向こう側にうら悲しいものが透けて見えるような気がした。

 「この世界のすべてのことが物理的に説明がつくと、あなたはほんとうに思っているの」

 そうだね、と僕は言った。僕は唯物論者だった。

 「スピリチュアルなことや人の感性、気持ちみたいなものについても?それらの存在まで物理学的なアプローチで完ぺきに証明しきれるものだと、あなたは本気で思っているんだ」

 僕は目でマスターを追いながらビールの小瓶を追加で注文するかすこし逡巡した挙句、結局彼がすこしカウンターを離れて厨房かどこかに行ってしまったことを決め手にして、新しい紙巻の一本を箱から取り出してあまり頭も回さないままその常套句のような台詞を口にした。「人間の気持ち、心、精神、意識に類されるものの正体は脳内を行き来する伝達物質の流動に過ぎない。他人の思想を否定する気もないけれど、これ以上にその界隈の諸疑問に対して得心のゆく反論にはまだ出会ったことがない。死後の世界の存在なんてもってのほかで、考えるだけ時間の無駄だ」

 「ひとつ訊いてもいい?」

 どうぞ、と僕は言った。

 「あなたのその考え方に沿って、脳内なのか心臓なのかわからないけれど。仮に心というものが体内のどこかにて存在している、と言えるのであれば、死体からそれを取り出すことも可能なはずじゃない?その、“物理的”に」、女は右手の指でダブルクォーテーションを作って言った。

 僕は何も言わなかった。女が続ける。

 「でもそんなことって、少なくとも私が把握しているうえでは、現在の科学においては不可能とされているように思う。意識の正体を物としては取り出せない以上、それと同時に自分たちが規定できる領域の限界が自ずと証明されているようにも感じてしまうんだけど」

 僕はジッポで煙草に火を点け、時間をかけて煙で肺をいっぱいに満たす。何も言わないまましばらく目を瞑って、それから慎重に口を開く。

 「ゆったり悠然と流れる、穏やかな川をイメージしてみて」

 女はすこし首を傾げる。「インダス川みたいな?」

 「それはわからない。でも、まあたしかに日本に多くあるような川ではないかもしれない。下流なのかもしれないな。幅が広くて、底が深い場所は大人でも足が着かないくらいの深さがあるかもしれない。でも流れは至って緩慢だ。そのような川ならなんだっていいさ。とにかくイメージしてみて」

 数秒の間を開けて「イメージできたわ」と女は言った。

 「次に、空のバケツを手にその川の水を汲む自分の姿をイメージしてみて。底には軟らかい泥が堆積しているかもしれないし、深さもわからない。おまけに速度はなくともずっしり重たいたしかな流れに足を取られるかもしれないから、なるべく岸にしゃがんだまま、体を濡らすことさえなく腕を目いっぱい伸ばしてすくってみるのがいいかもしれない」

 女は宙のどこかの一点を見つめて、しばらく黙ってそれから静かにイメージできた、と言った。

 「そのバケツの中には何が入っている?」、僕は訊ねる。

 「濁った水に小さくてみどりの浮草。運がいいと川魚や小さなエビも数匹紛れ込むかもしれない」

 「なるほど。きみはバケツを用いて見事、その川の一部を切り取ることに成功した。川の一部を切り取ってバケツの中に縮図みたいなものを再現したわけだ」

 「そうね」

 「なら、川の流れはそこに残っているかな。流れというのは川を川たらしめる本質だ。流れのない川なんか、まあ調べればいろんな表現の仕方もあるのだろうが、とにかく川という表現では通じないことが多いし適切とも考えにくい。どうかな、そこに流れは残っているかい」

 残ってない、と女は言った。「しばらくバケツの中で水面が揺れたとしても、それは川の流れとはまた別物だと思う」

 「まさにそういうことなんだよ」、僕は言った。「肉体と意識の関係にも似たような理屈が適用できると僕は思う。意識ってのは肉体の内側を往来しているうちにしか意識として成立しないものだ。脳などの一部を切り取ればその中を行き来していた流れも同時に消滅するし、それそのものはたしかに取り出すことだってできない。でも取り出せない、イコール物理的に存在しない、という結論への繋げ方は些か早計じゃないかな。流れとしての存在、とでも言うか。電流、アンペアの語源だって物理学者のアンペールにちなんでつけられたというけれど、機構のどこか一部が取り外されてしまったり、接触が悪かったりすればもちろん電気の流れもそこから消失する。物理的な消失さ」

 女は下唇を突き出して、それ以上何も言わなくなった。

 僕は彼女のすこしだけ不満そうな表情を見送って、それから大きくため息をつく代わりに、煙を鉛筆ほどにまで細くして長い時間をかけて吐き出す。


 そうだ。誰もこの道理の壁には風穴を開けることさえできない。人間の精神など、この宇宙にあふれる物理現象の一環に過ぎない。


 取り違えてほしくないのは、僕が決して優越感などに浸っているわけではないことだ。僕はそんなくだらないもののためにこれまで頭を働かせてきたわけじゃない。僕自身もまた、長い間自分の中に屹立するその強大な壁を突破しあぐねているひとりにほかならない。数えきれない数の男たちと議論を戦わせてきたものたが、その空虚な事実を突破してくれる反論には出会わなかった。

 まったく、嫌になる。人間の感情なんて所詮はその程度のものであって。物理によって説明がつく体系を対象に、空しい寂しいという感覚を抱いたとて、どこまでもその体系の一部に過ぎないというのだから。まるでブラックホール、我々は逃げきることのできないさだめにある。


 二十歳になったばかりの僕は一年とすこしの間、経済学部に学籍を置きながらも経済学については理解も興味もほとんど持ち合わせなかった。履修している授業も三分の一ほどにしか顔を出さない代わりに、日が沈むと大学通りに繰り出して酒場を入り浸っては一緒にいて退屈しない頭の良さそうな男か、頭の悪そうな女を探すことを日課にした。おかげで議論や寝る相手に困ることはなかった。

 今日に限ってはその慣例に倣うこともなかった。女は普段から僕がターゲットにしているような相手ではなかった。声をかけたのは見てくれから貞操が緩そうだったり、わかりやすく男を誘っているふうに見受けられたという理由からでもなかった。その佇まいがあまりに場違いで、強烈な違和感を覚えたからだ。


 すこし奥まった路地に位置するパブの名前は『シックスティーズ・ガレージ』といい、店内はアメ車の写真やナンバー・プレート、工具や古ぼけたピンナップなどの装飾で壁中至る場所がぎゅうぎゅう詰めにされていた。隅には時代に取り残されたアーケード・ゲームや埃のかぶったジューク・ボックスも置かれていた。でも、たとえばビー・ジー・エムにはゲリラ・ラジオやポリス・オン・マイバックなんかの曲が流されたりと、洋楽をそれなりに聴いてきた僕としてはそういった細部に、60年代のアメリカというテーマへの妥協を感じないでもなかった。レイジ・アゲインスト・ザ・マシンが主に活躍したのは90年代後期で、ザ・クラッシュに至ってはイギリス出身だ。まあ、いまはその話はいい。半分揚げ足取りだ。

 とにかく僕が重たいドアを肩で押し開けてカウベルを鳴らしながら入店したとき、彼女のほかには入り口近くの席で代わり番におもちゃのようなダーツに興じる男の二人組しかいなくて、客入りはほぼないに等しかった。大学通りというだけあって、僕と彼女を含めた客、四人全員がおそらく大学生だろう。

 女はカウンターのバー・チェアにひとり腰かけていて、熱心にノートに何かを書き込んでいた。身長がもともと高くないことに加えて年を食ったアルマジロみたいに背中を丸めていたので、脚の長い椅子の先にちょこんと座った彼女は余計にこじんまりとして見えた。この時間にひとりで大学通りをほっつき歩いている若い女の身なりと言えばホットパンツか短いスカート、あるいは部屋着のようなだらしのない恰好が相場というものだ。まるで誰かの喪にでも服しているみたいに暑苦しい黒のひざ丈まである肩出しのワンピースを全身に纏っていて、その漆黒に髪の金色がよく映えた。遠目に横顔をちらりと窺っただけでも認められるほど本格的な化粧をしていて、目尻の濃いオレンジのアイシャドーがまた印象的だった。

 ひとつ席を空けてカウンターについた僕はどうにも、話しかけずにはいられない。初夏の二十時過ぎに真っ黒いワンピースの奇妙な若い女がアメリカかぶれのパブのカウンター席で何を熱心に書き込む必要があるというのか。しかもルーズリーフではなく、大学ノートなんかに。今晩彼女を抱ける勝算とか、そういったことはあまり考えなかった。ほとんど出会いがしらの交通事故みたいなもの。至って純粋な好奇心ゆえ、彼女がいま何を書いているのか、そちらばかりが気になり訊ねずには酔える気もしなかった。その真実を知らないままに店から出てゆく彼女の背中を見送ることなど、とてもじゃないができる気がしなかった。

 「『旅人よ、旅を続けられよ。歩みを止めたそなたは旅人でさえないのだから』」

 そして彼女が顔も上げないまま、背中を丸めたまま、書き込む作業をやめないまま、僕に対して寄越したその初めての一言さえもが戯曲からの引用だった。


 僕たちはお互いについてをあまり話さなかった。彼女は女で、僕は男だ。女は芸術に興味があって、僕にはあまりない。女は無形物にも敬意を払うポリシーの持ち主で、僕は根拠が明示されないぶんには何も信じない。パブにいる間も数本の小瓶を直飲みで空けた後には煙草ばかり吸うのが僕だったし、繰り返しショート・カクテルばかりを頼み一度だけオニオン・リングも一緒に注文したのが彼女だ。わかっていたことはそれくらい。彼女は説明なくノートを閉じて鞄にしまったので僕はまだそこに何が書かれているのかも知らずにいた。互いにどの学部に学籍を置いているのかや同級生なのかすら確認をしていない。それでも僕たちは同年代の男女が自然とそうするように当たり前のように寝たし、会って数時間後には同じベッドの中にいたのだ。

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芸術革命 烏肉 @karasuniku

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