『敦盛の最期』が成立するまで
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『敦盛の最期』が成立するまで
【1】首渡に集まる人々
寿永2年2月13日、京の東洞院大路は出向いた人たち自身が驚くほどの大勢の老若男女で東西両側が埋め尽くされていた。立場も人となりも異なる数千から数万の人々だったが参集した目的は等しい。これより大路を南から北へ向けて渡される平家一門の公達の首を見物するためである。
去る2月7日に福原周辺で先帝・安徳天皇を擁して再び都へ上らんとする平家方と後白河院の命を受けた源氏方との間で稀に見る激しい戦があり、源氏が大勝をおさめたという知らせは翌々日までには広く京に伝わっていた。いまだに京に多くいた平家に連なっていたり親しい人々は悲嘆の声を上げたが、市井の人々は概ね落ち着いて好意的に受け止めていた。
栄華を極めた平家一門が屋敷を焼いて西国へ落ち、入れ替わりでやってきた源氏の木曽義仲が京を散々に荒らし、今は同じ源氏でも源氏惣流の源頼朝の勢力の武士たちが後白河院の覚えを得て都に入っている。京の人たちにしてみれば、これ以上の混乱は勘弁してほしかったので、源氏勢による現在の平穏が現状維持されることを支持したのだった。
先の戦で大活躍した源義経を称えるなどのお祭り騒ぎはそれほど見られなかったものの、討ち取られた平家一門の首が朝敵として大路を渡されて獄門にかけられるという知らせには多くの人々が関心を抱いて見物に訪れたのだった。
かつては京の実質的な支配者として地位と権勢を極めた平家一門の人たちは貴族の位を得て殿上人となった者たちばかりで、市井の人々は顔を拝むことすら叶わない天の上の人々だった。そんな人たちの生首が10個も大路を渡されるのだ。この首渡自体は戦続きの世にあって幾度か行われているが、顔も拝めないほど身分の高い人たちの首が幾つも渡されるのは前例がないことだった。
恨み、憎しみ、哀れみ・・・感情や印象は様々だったが、死者とはいえその顔をいちど拝んでみたいと思う者が多かったのだ。
【2】大路を渡される平家一門の首
のちに一ノ谷の戦いを呼ばれる戦で討ち取られた平家一門の首は2月12日までに六条室町の源義経の屋敷に運ばれて首桶から出され、防腐用の塩を洗い流して乾かした。そして翌13日の朝に10個の首は一つ一つ牛が引く荷車に乗せられて八条河原まで運ばれて朝敵の首として検非違使に引き渡された。
大路の東西を埋め尽くす人々の見つめる先に、とうとう平家の公達の首がその姿を現した。首はそれぞれ切り口を矛先に深々と刺し貫かれて頭上高く掲げられ、官位と名を書き記した赤い布が結わえつけられている。掻き切られた際に血が流れ出したうえ日数が経過していた首は瑞々しさを失っており、長い髪は乱れているものの、塩漬けにして運んだこともあり顔の判別はできる状態だった。
ゆっくりと大路を渡されていく首の順番は以下の通りである。
・中宮亮通盛
・薩摩守忠度
・皇太后宮亮経正経正
・武蔵守知章
・備中守師盛
・蔵人大夫業盛
・若狭守経俊
・大夫敦盛
・越中前司盛俊
従三位だった通盛を先頭に官位が上の者から。位が同じ者は入道清盛との血縁の濃さの順である。従五位下ながら無官であった敦盛までが殿上人で、いわゆる公達と呼ばれる人たち。盛俊は平家の有力武将ではあったが平家の家人に過ぎず、この中ではただ一人位階を持たない。
当初10個とされていた首は9つに減っており、どうやら能登守教経とされていた首が八条河原にて偽首と判明して外されたとのことだった。
【3】若き公達たち
当初は大きな声で騒がしくしていた群衆であったが、その声は次第に落ち着いていき、やがて戸惑いの声が漏れ始めた。
9つの顔のあまりの若さに狼狽する人が多かったのだ。9つの首のうち忠度と盛俊は壮年であったが、通盛は数え年32歳。そして残りの6つの首は一番年上の経正すら齢30に届いておらず、それぞれ滑らかな肌に痛々しい傷を刻まれていたのであった。
殊に経俊、知章、業盛、敦盛の4名(※)はそれぞれ数えで18歳、16歳、16歳、16歳という10代の若さであった。
師盛の首は9人の中でも飛びぬけて損傷が大きく、唇の左右の口角の高さから両側の頬を上下に縫い合わせた跡があった。首を撥ねられた際に誤って本来より高い部位を斬られたものと思われた。
栄華と権勢を極めた平家であったが、京の民に直接害を加えた者はそれほど多くない。少なくとも物言わぬ生首となって大路を渡される少年たちに集まった人々の恨みがあるわけではないのだ。
(※・・・師盛は14歳とされることが多いものの、都落ち以前の従軍記録もあり年齢的に腑に落ちないことから、当時の記録ミスで24歳を14歳と誤記したものと解釈しています。)
【4】美少年
眉目に秀でた首が多くを占める中でも、ひときわ人目を惹いた首があった。
「なんと・・・敦盛卿は女子だったのか・・・?」
「修理大夫殿の乙子殿はこの世のものとは思えぬ美しさとの噂であったが、さもありなん。」
「これほどまでに麗しい公達が首を切られるとはなんと哀れな。」
敦盛の顔に既に血の気はない。目も口も閉じており、長い髪は乱れ縮れている。口に差した紅や白粉などの薄化粧はほとんど流れ落ちてしまっていた。しかしその容貌は討たれて6日目になろうとしてなお保たれており、それは美しい乙女と見紛うばかりの麗しさだった。
9つの平家公達の首は大路をしばらく北に進むと西へと向きを変え、獄舎の栴檀の大木の枝に紐で吊るされた。そのまま三日三晩晒されることになる。
獄には大路で首渡を見物してからやってきた者に噂を聞きつけてやってきた者も加わり、やがて即席の市ができるほどの賑わいとなった。多くの人が美しき敦盛の首を指差し、哀れみの声を上げていた。獄には似つかわしくない若い乙女の姿もいつになく多く、やはり敦盛の首を見上げ、指差しては手を合わせる者、ため息をつく者、涙ぐみながらなぜこんなに綺麗な人の首を切ったのかと怒りの声を上げる者・・・そのような人々の列は途切れることがなかった。
やがて、在りし日の敦盛についての話が宮廷と繋がりがある筋からもたらされていった。
・敦盛は従五位下の位で過去に官位を得ていたこともあったが父・修理大夫経盛が平家でも傍流ということもあり都落ち前は無官であったこと。
・笛の名手であり、笛を吹くその姿は絶世の美貌も相まってこの世の者とは思えない麗しさだったこと。
・敦盛は右大弁時宗卿の姫君と恋の契りを交わしていたらしく、哀れにも姫君は敦盛の死を知らされて床に臥せっているとのこと。
一方、程なくして源氏方の一人の武士の名が囁かれはじめる。
「熊谷某という者が敦盛殿の首を切ったらしい。」
「あのような美しい公達を・・・東国武士はなんと残酷な。」
「敦盛殿の首を見ろ。首のちょうど喉笛のところで切られている。熊谷某は敦盛様を仰向けに組み敷いたところを刃で喉笛を突き、髻を掴んで掻いていったのだろうよ。」
「首取りとはなんと残酷なことか。」
「さぞ痛く怖かっただろうに。それなのになんと堂々とした死顔か。」
「武家に生まれなければこのように激しい痛みに耐えて若き命を散らせ、死してなお辱めを受けることもなかったであろうに・・・」
瞬く間に3日が過ぎて痛みが激しく見分けがつかなくなった首も、まだ顔の判別がつく首も、それぞれ獄門から外されていった。引き取り手のある首は引き取られ、そうでない首は獄の敷地に適当に打ち捨てられて烏たちの餌食となる。敦盛の首はいずれかの縁者の手によって引き取られていったという。
【5】膨らむ伝説
その後も京では須磨一ノ谷での戦の話題に事欠くことはなかった。首渡と獄門でとりわけ無残な首を晒した師盛の話も入ってきた。師盛は沖の舟へ落ち延びようとして従者とともに小舟に乗り込んだものの、後からあとから乗り込んでくる味方の重みで舟が転覆し、それを見ていた源氏勢に熊手で浜辺へ引き上げられたという。そして薙刀を持った雑兵に囲まれて名を問われたものの
「身分違いの者に名乗るわけにはいかない。首を取って人に聞け。源氏方にも私を見知った者がいるだろう」
と毅然と拒んだまま首を切られたという。しかし一思いに師盛を斬ろうとした薙刀の当たった場所が悪くて顎から下を残して斬ってしまったのだという。
そして師盛の散り際についての証言はいつしか、敦盛のものとして語られるようになっていた。すなわち、
「敦盛は沖の舟を目指して馬を泳がせようとするところを熊谷直実が呼び戻した」
「剛力の東国武者・熊谷に敦盛は敵うはずもなくあっさり組み敷かれたものの、死を前にして身分違いの者に名を名乗ることを毅然として拒んだ。」
「最後まで笛を抱えていた。」
などといった話が作られていき、真実として伝わって行った。
平家が壇ノ浦にて滅亡し、更には平家を滅ぼした源義経が兄・頼朝の不興を買って追放の後に討ち取られてからしばらくして、敦盛を討った熊谷直実が法然上人を頼って出家したという話がもたらされた。そして伝説はさらに膨らみを増していった。
「いまさら出家したところで敦盛殿の流した血や感じた痛みの償いにはならないさ。」
「いや、あの美しい敦盛殿を討った悔恨が熊谷を苦しめたのだろう。」
「熊谷直実の嫡男は敦盛殿と同い年だったそうだ。敦盛殿の首を切るときに大いに躊躇したのではないか。」
「熊谷は敦盛殿の首を包もうと、敦盛殿の直垂の袖を引きちぎったのではないか。そして敦盛殿の笛を見つけたのではなかろうか。」
「同じく子を持つ父として笛を形見として敦盛殿の父君に送ったのではないか。」
「敦盛殿の笛は鳥羽帝より父君に下賜されたのを更に賜ったものらしい。」
「もしかすると敦盛殿の首を獄門より引き取って供養したのは熊谷ではないか。」
そのような話がどんどん膨らんでいき、やがて平家物語屈指の名場面・『敦盛の最期』が形成されていったのだった。
【補足】
平師盛の最期の描写については、延慶本を参考にしています。
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