ホワイトアルバム


 準備を終え、鏡で身なりの最終チェックをする。いつもの適当な服じゃなく、今日のために用意した一張羅だ。深い青のゆったりしたトレーナーに上着を羽織り、細いパンツ。愛用のキャップにいつものリュック。似合っているのかわからないが、そこは店員さんを信じる。あまり身だしなみに気を使わない人生だったので、変なところが無いか不安だ。

 プレゼントも持ったし、忘れ物は無い。気合いを入れて、家を出る。あまり早すぎる時間に着くのもあれかと思うが、家にいるとそわそわしてしまう。何とか耐えてみたものの、待ち合わせには三十分ほど早い時間に着きそうだ。

 駅前の待ち合わせ場所にはやはりまだ雪の姿は無かった。しかし五分も待たないうちに、雪が駆け寄ってきたので驚いた。

「杏奈、ごめん。お待たせ」

「いやいや、全然。雪こそ早いね」

 白い息を吐き駆け寄ってきた雪の服装があまりに似合っていて、思わず顔が熱くなってしまった。グレーのセーターにチェックのロングスカート。シンプルなのにこんなに似合って見えるのは私の色眼鏡だろうか。

 お互い早く着いてしまったため、まだお昼には少し早い。予定を変えて、駅前のお店を少し回ってからお昼にすることにした。近場とはいえ、あまり通らない道もあって、古着屋などを雪は楽しそうに見ていた。

「あれ……なんか、いい匂いする」

 途中、雪が立ち止まってそう言った。確かに、どこからかスパイシーな香りがしてくる。匂いの方向を辿ってみると、韓国料理のお店が目に入った。

「こんなところに、お店あったんだ」

「そうだね、知らなかった」

 雪は明らかに入りたそうだ。あまり話さないけれど、雪は結構辛いものが好きだ。

「お昼、ここにしよっか?」

「え、いいの?」

「うん。他に目当てのお店があったわけじゃないし」

 時間もちょうどいい頃なので、そのままお店に入った。少し隠れた場所にあるからか、日曜でもお客さんはまばらで、スムーズに注文を済ませられた。私はビビンバを、雪はスンドゥブを注文した。

「杏奈って、甘い物好きだから辛いのはあんまり好きじゃないのかなって思ってた」

「そんな事ないよ。まあ、好んで食べてはいないけど……雪の好みが移ったのかな?」

「ふふ。確かに、私も甘い物好きになったかも」

「そ、そっか」

 以前だったらこんな事は言えないし、もし言ったらお互い気恥ずかしくなっていたのに、何故か雪は平気そうだ。自分で言っておいて恥ずかしい。

 ビビンバを食べ終えると追加で杏仁豆腐を注文した。隣の席の人が注文していて気になったのだ。

「杏奈、細い割によく食べるよね。さっきのビビンバも大盛りでしょ?」

 雪に細いと言われてもあまりピンとこない……まあ、私は全体的に薄いタイプだけれど雪は割と健康的な身体だとは思う。どこがとは言わないが。

「うーん、まあ食べないときは食べないから。そこでバランス取ってるのかも」

「食べないとき、あるの?」

「いやまあ、たまにね。めんどくさいなーってとき」

「良くないよ。ちゃんと食べないと」

「あはは……気をつけまーす」

 お店を出て引き続き歩き回る。そろそろプレゼントを渡すタイミングを計らなくてはならない。

 雑貨屋や本屋など、目に付いたお店を回っていく。一人だったら入らないようなお店も雪が好きそうなものがないかと思ってしまう。雪も雪でアクセサリーなどを私に似合いそうだと勧めてくる。

 ある程度時間も経ってそろそろ本当にプレゼントを渡すことを考えなくては、と思っていると雑貨屋の店内で雪がある商品を手に取った。

「そうだ、リップそろそろ買わないと」

 雪が手に取ったのは何の変哲もないリップクリームだ。それを見て私は焦った。

「あ、ちょっと待って、雪」

「え?どうしたの?」

「いや、リップは……買わなくてもいい、かも」

 私の言葉を雪は全く理解していない様子だ。当たり前だ。私も自分でおかしいことを言っている自覚はある。

「買わなくていいって、どういうこと?」

「その、だから……必要無くなるというか、もうあるというか……」

 ああ、もっとスマートに渡すつもりだったのにな。

 私の言い回しで雪も気づいたのか、顔を赤くした。

「え、あ、もしかして、そういうこと……?」

「はい……」

「ご、ごめん」

「いや、私がダメだった……」

「そんな、嬉しいよ。本当に」

 まあ、不本意とはいえ渡せる流れになったことは良かった。正直、プレゼントとしては少し外れている気もしていた。

 とりあえず雑貨屋を出て近くの公園のベンチに座った。リュックを漁り、ラッピングされた包みを取り出す。

「じゃあ、これ……そうだ、誕生日おめでとう。雪」

 一番大切なことを言い忘れていた。本当に、かっこつかない。

「ありがとう……開けていい?」

「うん。えっと、気に入るかわかんないけど」

 包みから出てきたのはもちろんリップクリームだ。しかしただのリップクリームではなく、チョコレートの香りと紅い色が付いているものだ。

「へえ、こんなのあるんだ」

「うん。偶然見かけて、雪に合うかなって」

「そうかな。ちょっと付けてみるね」

 キャップを開け、雪が唇にリップを塗る。白い肌に紅い色がよく似合っていて思わず見とれてしまう。

「あ、ほんとだ。チョコの香りするよ。ほら」

 雪が私の方を見る。ほら、とは。嗅いでみて、ということか。唇を?雪の?そんなこと、いや、ダメだろう。いやでも、雪が言うなら……?

 考えるほど思考が溶けていってしまい、導かれるように雪に近づいてしまう。微かにチョコレートの香りが漂ってきたとき、雪の手が私を制止した。

「ち、ちが、私じゃなくて、こっち」

 雪は手に持ったリップクリームの方を私に向けてきた。

「あ、ああ!そうだよね。ごめん。いや……ごめん」

 本当に、かっこつかない。そしてリップクリームはめちゃくちゃいい匂いだ。

「ううん、いいんだけど……そういうのは、杏奈の口から、ちゃんと聞いてから、したい」

 雪が恐る恐る、私の手を掴んできた。そうだ、ちゃんと話さないと。

 雪の手を握り返し、決意する。

「雪……私、雪に聞いてほしいことがあるんだ」



 少し寒くなってきたので近くの喫茶店に場所を変えた。ここまで歩く中、手は繋いだままだった。もしかしたらもうこの温もりを感じられないかもしれないと思うと名残惜しく、離れることはできなかった。

「お待たせしました。ブレンドです」

 店員さんがコーヒーを運んできた。砂糖とミルクを入れ、少し冷ましてから一口飲む。公園を出てから今まで雪との間に会話は無かった。

 雪の表情は私が何を言うのかわかっているような表情だ。そして、その答えも決まっているのだろう。

 けれど、本当に私が今から話そうとしていることを雪は知らない。こんなこと言わないほうがいいのかもしれない。雪が望んでいる言葉を言うことが私にとっても最善なのかもしれない。けれど私は言うと決めた。雪に全部知っていてほしいから。

「えっと……どこから話そうかな」

「……え?」

 私の語り始めが予想と違ったからか、雪は驚いた顔だ。けれど私は調子を変えず話し続ける。

「まず……私、卒業したら家を出ようと思ってるんだ。バイト代を貯めて」

「そ、そうなんだ」

 雪はまだ私が何を言おうとしているのかわかっていない。

「……ちょっと長くなるけど、聞いてくれる?」

 そこから私は自分のこれまでの人生について話した。小説家を夢見ていたこと、その夢を母に否定されたこと、学校をサボっていた理由も。

 まとまりの無い稚拙な言葉になってしまったけれど、雪は黙って聞いていてくれた。

「でも、雪が中学の頃の自分と向き合って、文化祭でしっかりバンドをやり遂げたのを見て……私ももう一回、夢を追ってみたくなったんだ……そのためにも、あの家にはいられない」

 雪は何も答えない。仕方ない。だってこれは私の夢に付き合えるか、と聞いているようなものなのだから。私と雪がお互い一緒にいたいと思っていても、この事を隠していたらきっといつか綻びになる。だからこれは必要なんだ。

 雪が、間違えないために。

「……っ。少し、考える時間をもらってもいい?」

「うん。ゆっくり考えてほしい。私のことよりも、雪自身のこと」



「じゃあ、またね」

「うん、また……」

 駅で杏奈の背中を見送りながら、喉元まで出かかった言葉は遂に口を出ることは無かった。応援すると、言いたかった。でもそれを言ってしまったら杏奈にとても重いものを背負わせることになる。そう思うと、軽々しく口には出せなかった。

「ただいま……」

「あ、お姉ちゃんやっと帰ってきた。ケーキ、冷蔵庫にあるよ」

「うん……ありがとう」

 妹の沙織は私の様子を見て不思議そうな顔をした。確かに、誕生日に出かけて、暗い顔で帰ってきたら不自然だろう。

「……何かあった?」

「いや、えっと……」

 何と言えばいいのか、そもそも妹にこんな話をしていいのか。ごにょごにょしていると、沙織は耐えかねて手を振った。

「あー、いいや。惚気は聞きたくないし」

「そういうのじゃ、ない……」

「あっそ。まあ……私は桜井さん、いい人だと思ったよ」

「えっ」

 会ったことあるっけと思ったが、そういえば以前杏奈と二人で遊んだときの帰りに沙織と会っていた。でもいい人だと思ったって、まさか沙織も……

「いや、そういう意味じゃないけど。お姉ちゃんには合ってるんじゃないってこと」

「あ、うん……ありがとう」

 合ってる。私に、杏奈が。周りから見てそう言われるとちょっと、かなり嬉しい。無意識に顔が緩んでしまう。

「……やっぱ言わなきゃ良かった。早くケーキ食べなよ」

「う、うん」

 やっぱり私は杏奈が好きだ。好きだから、杏奈に辛い思いはさせたくない。それを伝えられる言葉がまだ見つからないけれど。

 夕飯を食べ終え部屋に戻り明日の用意をしていると、一つ気がついた。明日からは進路相談や大掃除、そして終業式になってしまいクラスの違う杏奈とはほとんど会える機会が無い。冬休みになれば会えるかもしれないけど予定が合うかはわからない。

 学校にいる間にどこかでタイミングを見つけて話さないと……その前に、答えも見つけないといけない。

――――――

「久保田は、進学か。まあ久保田の成績なら選択肢も多いから色々見てみるといい」

「はい、わかりました」

 笠原先生はいくつか私の学力に合った大学を紹介してくれた。まだやりたいことも見つけられていないので何となく進学希望だけれど、もう一年後には決まってないといけない。

「失礼します」

 教室を出て帰りに隣のクラスを少し覗いて見たが杏奈の姿は見えなかった。もう帰ってしまったのかもしれない。やっぱりなかなか会えない。

 翌日の大掃除も私は外れにある教室の担当になってしまい杏奈の姿を見かけることはできなかった。

「ごみ出してくるから、皆は先に戻ってていいよ」

「久保田さん、ありがとう」

 ごみ袋を持って回収場所に向かう。もしかしたら杏奈も来ているかも、なんて淡い期待を込めながら来てみたがそこには杏奈はいなかった。

「あ、雪」

「純、お疲れ様」

 しかし純がごみ捨てに来ていて軽く挨拶をした。杏奈はいないんだなと少し目で探していると純が気づいたのか私に話しかけてきた。

「杏奈なら、調子悪そうだったから教室で休んでるよ」

「え……だ、大丈夫なの?」

「うーん、まあ精神的なやつじゃないっぽいし、本人はただの風邪って言ってたから大丈夫だと思うけど」

 本当にそうだろうか。もしかして追い詰められてしまっているんじゃないだろうか。本人の姿を見ないと安心できない。

 ごみ捨てを手早く済ませ純に教室に案内してもらった。

「杏奈なら、椎名先生がもう今日は帰りなって言って帰らせてたよ」

 教室に着くと七瀬さんがそう教えてくれた。七瀬さんも一日休めば大丈夫だろうと言っていたけれど、やっぱり私はどうしても心配になってしまう。私の知らないところで杏奈が苦しんでいるのは、辛い。

 お見舞いに行きたいけれど部活やバイトで放課後は時間が取れない。本当に明日には元気になってくれたらいいけれど……

 一応、心配する旨のメッセージだけ送っておいた。しかしバイトが終わって、夜になっても返信は来なかった。休んでいて気づいてないのならいいんだけれど、嫌な予感が膨らんでしまい不安になってしまう。

 翌日、遂に終業式を迎えた。駅から学校に着くまで杏奈がいないか周りを見ていたが見つからなかった。携帯には未だ返信が無いことを考えると休んでいるのかもしれない。

 式が終わると純が私の方に駆け寄ってきた。

「純、どうしたの?」

「杏奈、今日休んでるんだよね。やっぱり風邪だったみたいで。それで、プリントとか渡すように頼まれたんだけど……」

 純が何を言いたいのかわかった。

「それ、私が持っていっていい?」

「うん、そうしてあげて」

 やっぱり休んでいたのか。純から杏奈の住所が書かれたメモとプリントを預かり、急いで支度を済ませて学校を出た。



「杏奈、今日は終業式じゃないの?」

 頭痛と、母の言葉で目が覚めた。そういえば昨日早退したんだっけ。

 雪と会った次の日から調子が悪くなってきて、昨日家に帰ってから熱を計ったらしっかり風邪をひいていた。そして、この調子だとまだ治っていない。

「うん、もう起きるよ……」

 重たい体を無理やり起こしてリビングに向かう。元から朝はのんびりしていることもあって母は特に気にしている様子もない。昨日私が早退したことも知らないだろう。それはそれで都合が良かった。

「私は先に出るから、戸締りよろしくね」

「はい、いってらっしゃい」

 扉が閉まると張っていた気が緩んで一気に体調の悪さに気付かされる。熱を計ろうかと思ったけれど、知らないほうがマシかと思い計らないでおく。食欲も無いけれど何とかヨーグルトだけでも食べ、着替えて支度をする。

 気を抜くとボーッとしてしまう頭はいつまでも雪のことばかり考えていた。きっと、これからは別々の道を進むことになる。雪はいつか私じゃない誰かを好きになって、その人と幸せになる。

 私の夢に雪は巻き込めない。大丈夫だ。私はもうたくさん貰ったから。今までの雪との思い出があれば、頑張れる。

 一年生の文化祭。あの日、雪と約束をした。これからは毎日学校に来ると。それから毎日、私は休まず学校に通い続けた。やっと見つけた私が生きる理由に会うために。あの日から私は生きられるようになったんだ。今日を名残惜しく感じて明日に期待をするようになった。

 だから、私は休めない。そう思っているのに体は倒れたまま動けなかった。

「うー、さむさむ……って、杏奈?どうしたの、大丈夫?」

 先に冬休みに入っていた姉が部屋から出てきて私を見つけた。慌てた様子で駆け寄ってきて私を抱えると、その体温に驚いたようだ。

「うわ、めちゃくちゃ熱あるじゃん。今日学校なの?休むって連絡しとくよ」

「いい……行く。大丈夫だから」

 口ではそう言うが体は動かない。ダメだ。私は、約束したんだ。

「何言ってんの。ほら、寝てな。学校には連絡しとくから。あと着替えちゃいなよ」

 自室のベッドに寝かされ、姉が学校に電話をしている声が聞こえる。

 ああ、約束を破ってしまった。結局私はその程度だったのか。元より雪には見合わない存在だったということだろうか。そのまま着替える気力も無く意識を手放した。



 駅から少し歩くと、純から預かった紙に書かれた住所に着いた。ここが、杏奈の家。周りより少し背の高いマンションでそこの真ん中辺りに杏奈の家があるらしい。一応、来る前に改めてメッセージを送ってみたのだけれどやっぱり返信は無い。

 覚悟を決めて、自動ドアをくぐる。オートロックになっていて部屋番号を押して開けてもらわないと中に入れない。誰が出るだろうかと少し不安に思いつつ、部屋番号を押す。少し待つと杏奈と少し似た、若い女性の声が聞こえた。

「はい?」

「あ、あの。私、杏奈さんの同級生の久保田雪です。えっと、プリントを届けに来ました」

「あー、わざわざありがとね」

 オートロックが開いて、中に入った。エレベーターで上がり部屋のインターホンを押すと扉が開き、さっき応答していたであろう若い女性が出てきた。恐らく、杏奈のお姉さんだろう。声は似ていたけれど顔はあまり似てない。

「お……いやー、ありがとね」

 お姉さんは私の顔を見ると何か思ったようだけれど、特に何も言わなかった。

「あ、あの……杏奈、大丈夫ですか?」

「ん?うん。あ、ちょっと様子見てく?お茶くらい出すよ」

 そう言うとお姉さんは私の返答を待たず私を家に入れて、ドアを閉めてしまった。そのまま奥に行ってしまい、私は玄関に取り残された。

「杏奈の部屋、右手の手前ー」

 奥からお姉さんがそう教えてくれて、恐る恐るその部屋に向かう。この向こうに、杏奈がいる。意を決してドアを開いた。

 杏奈の部屋は全体的に物が少なくて、質素だった。机の上も整理されている、というより元から物が少ない感じだ。本棚だけは大きなものが置いてあってそこにびっしりと本が並んでいる。

 ベッドの上では杏奈が眠っていた。制服のままで、苦しそうにしている。

「お茶、置いとくね。あ、杏奈……着替えなかったのか。じゃあ、私もちょっと出かけるから、ごゆっくり」

「え、あ、あの」

 見たところ、今はお姉さん以外にこの家には人がいないように思う。そのお姉さんが出かけてしまったら今から私は杏奈と二人きりになってしまう。いや、それは別に問題は無い……いや、ある、かも。

 動揺しているうちにお姉さんは出かけてしまった。杏奈は変わらず、苦しそうに眠っている。とりあえず汗で張り付いた前髪をはらっておく。枕元にタオルが置かれていたのでそれを濡らして、顔の汗も拭いておく。

「ん……」

 ふと、杏奈が寝返りをうって私に背を向けた。その拍子に布団もはだけて杏奈の背中が布団から出てしまう。布団をかけてあげようとすると、制服のままだったせいで杏奈のスカートが捲れてしまっていた。

「……っ!」

 慌てて布団をかけてやった。大丈夫。見てない。

 しかし、やっぱり制服のままだと苦しそうだ。着替えさせてあげたいけれど着替えの場所もわからない。

「んん……」

 再び杏奈が寝返りをうった。布団を剥いで、暑そうだ。首元にも汗が浮かんでいる。少しでも何かしてあげたくてボタンを少し外して首元の汗を拭いた。杏奈の鎖骨周りはとても細くて、こんな細い体でどれほどの苦しみを背負ってきたのかと思うと、抱きしめたい衝動に駆られた。

 あともう少しだけと、杏奈の鎖骨を指でなぞる。杏奈に触れられることが嬉しくて頭が働かなくなってしまう。どれくらいそうしていたか、気づくと杏奈の目が薄く開いていた。

「ゆき……?」

「あ、杏奈……!?ご、ごめん」

 慌てて手を離そうとしたが、杏奈に掴まれて動けなくなってしまう。

「ゆき、雪……ごめん」

「杏奈……?」

 杏奈は私の手をぎゅっと握ると、涙を流して謝りだした。

「私、約束守れなかった……ごめん。嫌いに、ならないで……」

「約束……?」

 約束というともしかしてあの文化祭のときの話だろうか。杏奈はそれで今日休んだことを悔いているのか。

 涙を流す杏奈を落ち着けたくて、そっと抱きしめる。いつか杏奈がそうしてくれたように。いや、あのときは私から抱きついたんだっけ……まあ、どちらでもいい。

「大丈夫。私は杏奈のこと……ずっと、好きだよ」

 思っていたよりすんなりと、当たり前のことのように言った。

「本当に……?」

「うん、本当。杏奈のこと、好き。大好き」

 目を見て、伝える。さすがに少し恥ずかしくなったけれど伝えたい気持ちのほうが大きい。目が合うと杏奈の顔はみるみる赤くなっていく。

「あ、あれ……もしかしてこれ、夢じゃない……?」

「……え?」

 数秒固まった後、杏奈はばっと手を離して布団を被った。

「あ、杏奈?どうしたの?」

「ま、まじか……うわぁ……」

 布団の中からは杏奈の呻き声が聞こえる。

「杏奈、顔見せてよ」

 布団を撫でながらそう言うと、杏奈はゆっくりと布団から顔を出した。髪はボサボサで制服は乱れ目元も赤い。そんな弱々しい杏奈がまた愛おしくて、私は笑いながら杏奈の髪を直してやった。

「完全に、夢だと思ってた……」

「夢じゃなくて、よかった?」

「それは……よかった、けど」

 杏奈はまだ何か言いたそうだ。制服も直しながら、杏奈の言葉を待つ。

「……本当に、いいの?私は、もう諦めるつもりで……」

「いいの。私、決めたの。杏奈のこと、ずっと隣で見てるって」

 今、やっとわかった。私が杏奈に伝えたいこと。

「杏奈の夢は、応援したい……上手くいったら、一緒に喜びたい。けどもしダメでも、そのときはそのときで支えたい。杏奈一人に抱え込ませたくない。私も、一緒に抱えるよ」

「でも、約束も守れなかったし……」

「それはいいってば。あと、今回のことでわかったの。私の知らないところで杏奈が苦しいの、嫌だって。だから、ずっと一緒」

 杏奈の手を取って、伝える。枷じゃなく、二人で分け合うことを。楽しいことは二倍に、辛いことは半分にできるように。

「ありがとう、雪……」

「うん……あ、でもまだ杏奈から聞いてないよ」

 そう言うと、杏奈は恥ずかしそうになりながらも私の目を見た。

「私も、雪のことが好き。ずっと一緒にいてほしい」

 杏奈が言い終えるとどちらからともなく近づいて、お互いの体温を分け合った。

――――――

「杏奈、制服だと苦しくない?」

「あー、うん。そうだね。着替えとくよ」

 杏奈が着替えを用意して、私を見る。その顔は着替えるから出てくれと言いたそうだが、私はそれを無視する。

「えっと……雪?」

「杏奈は病人なんだから、着替えさせてあげる。ついでに背中も拭いとかないと」

「い、いいよ。自分でできるから」

「いいから、ほら」

 杏奈の制服のボタンを外していく。不思議とさっきまでの恥ずかしさはあまり無くなっていた。それよりも杏奈のためにしてあげたいという気持ちのほうが強かった。

「ゆ、雪。急にグイグイ来るね」

「もう、ごちゃごちゃ言わないの。ほら拭くよ」

 しっかり汗を拭いて、着替えを着せる。後半は杏奈も諦めてされるがままだった。

「あと何かしてほしいことある?あ、ご飯食べる?」

「いい、いいから。もうすぐお姉ちゃんも帰ってくると思うし。移したら悪いし」

 移るのは正直、もうあれだけ近づいてたら仕方ない気もするけど。

「そう……?じゃあ、お姉さん帰ってくるまでは、いるね」

 杏奈を寝かせて、手を握る。杏奈はどこか居心地が悪そうだ。

 特に会話もなく私はしばらく杏奈の手を握って遊んでいた。

「杏奈、もっと甘えていいんだよ?」

「え、いや、もう充分だよ」

「んー……だって、杏奈っていつもあんまり弱いとこ見せないから。私の前では、甘えてほしいな」

 そう言うと杏奈は少し迷ったような顔をしてから起き上がり、私の肩に顔を埋めた。

「私も、もっと甘えたいけど……雪のこと、大事にしたいから。今は、これだけで我慢させて」

 耳元で囁かれて、体が熱くなる。私のほうが我慢できるか怪しいくらいだ。

 しばらくするとお姉さんが帰ってきたので私は帰ることにした。

「じゃあ、またね」

「うん、えっと……色々ありがとう」

 ふと、杏奈が何かに気づいたような顔をした。

「あ……今日、クリスマスイブか……ごめん、せっかくなのに何もできなくて」

 そういえばそうだった。確かにもう私たちはお互い好き同士なわけで……けれど、杏奈は風邪をひいてるし明日は出かけられないだろう。

「大丈夫だよ。来年のクリスマスも一緒にいるんだから。再来年も、その次だって」

「そっか……ふふ、そうだよね。ありがとう、雪」

 そうだ。これから私たちは数え切れないほどの日々を過ごしていく。それなら一回くらい、こんなクリスマスがあってもいい。けれど何も無しというのも寂しいので、せめて私からはプレゼントを送っておこう。

「ねえ、杏奈」

「ん?なに?」

 私が手招きすると杏奈は顔を寄せてきた。その頬に、そっと口付けをする。

 固まってる杏奈に笑いかけ、足早に玄関を出た。唇の甘い香りが、鼻をくすぐった。



 雪が出ていってから、しばらく私は玄関で放心していた。様子を見に来た姉は私の顔を見ると笑いながら去っていった。

 鏡を見ると頬に薄く紅い跡が残っていて、洗うかどうか悩みに悩んで、いずれ洗わないといけないという結論に達し洗うことにした。洗っている間、寂しすぎて少し泣いた。

 数日休むと体調はすっかり良くなった。雪にも回復したことをメッセージで伝える。雪に風邪は移らなかっただろうか。

『よかった。私は全然平気だったよ』

 ほっと胸を撫で下ろす。安心していると雪からもう一件メッセージが来た。

『愛のパワー』

 思わず吹き出してしまった。恥ずかしさと面白さで気持ちが迷子だ。何と返せばいいのかと思っているうちに、メッセージが削除された。

『何で消すの』

『やっぱり恥ずかしくて……』

 画面の向こうで恥ずかしがっている雪が想像できる。かわいいなあと思い、にやけてしまう。

 その後もいくつかメッセージをやり取りしていると、雪からこんなメッセージが来た。

『そういえば、三十一日、少しだけ会えるかも』

 三十一日、私の誕生日だ。覚えていてくれたのか。

『そう?無理しなくていいよ』

『私が会いたいの。時間とかはまだわかんないんだけど、また連絡するね』

 無理しなくていい、と言ったが正直言うと私も会いたいと思っていた。今まで誕生日は日付が日付なだけに誰かに祝われることなどあまり無かったし、祝われたいとも思わなかった。けれど雪には祝ってほしいと思った。願わくば、少しでも会いたいと。

 雪は大晦日から母方の実家に帰省するらしく、その前に少し会えるかもしれないらしい。当日まで時間はわからないということで私はそわそわしながら大晦日を迎えた。

「ふぁ……あれ、杏奈。随分早起きだね」

「そ、そうかな」

 実際、あまり眠れなくて早起きしてしまった。しかも出かける準備まで整っている。姉は何か察したらしく笑っていた。

「雪ちゃんによろしく伝えといてね」

「……はいはい」

 バレるか……まあ、バレるよな。別に母に言ったりはしないだろうから構わないけれど。

 何度か携帯を確認していると雪からメッセージが来た。

『今、駅にいるよ。会える?』

『すぐ行く』

 返信すると急いで家を出た。駅まで走ると、広場に雪の姿が見えた。

「杏奈、走ってきたの?大丈夫?」

「はあ、はあ……うん。大丈夫。それより、時間ある?」

「うん。一時間くらいは話せるよ」

 とりあえず私は走ってきたせいで足がガクガクなのでベンチに座らせてもらう。いい加減私も体力をつけたほうがいいかもしれない。

「ふう……ありがとね、わざわざ時間作ってもらって」

「ううん、全然。えっと、じゃあこれ、プレゼントなんだけど……」

 雪が差し出してくれた袋の中を見ると、一冊のアルバムが入っていた。しかし中にはまだ一枚も写真は無い。

「アルバム……?」

「うん。あの……これから、一緒に埋められたらいいなって思って……ごめんね。杏奈の誕生日なのに、私のやりたいことで」

「そんな、全然いいよ。ていうかめちゃくちゃ嬉しい。ありがとう」

「本当に?」

「うん。いっぱい写真撮らなきゃね」

「そうだね。あと、もう一つ……」

 雪がまた何か言おうとした。これ以上何があるんだろうと思っていると、それは意外な言葉だった。

「まだ、杏奈からクリスマスプレゼント、貰ってない」

「え、クリスマスって……」

 あの日の記憶が蘇る。雪の唇が、頬に触れた感触。一生忘れられないかもしれない。

 それのお返しっていったら、もうそういうことしか無いのではないか。

「え、や、それは……」

「私も、杏奈からのプレゼント、欲しい」

 雪の唇に目が行く。前と同じ、私があげたリップで紅く色づいた唇だ。その香りを思い出すと思考がままならなくなる。こんな人を狂わせる香りを生み出して、メーカーは大丈夫だろうか。

 雪がいつの間にか目を閉じてこちらに顔を向けている。人通りが少ないとはいえ、外だ。しかしこれ以上雪を待たせるのも……

「……っ」

 決心して、雪の頬に唇を当てた。正面はさすがに勇気が足りなかった。

「……え?」

「今は……こっちで」

 雪も意外だったようで、少し不服そうだ。

「……意気地無し」

「な、何でよ。お返しなんだから、いいでしょ」

「倍返しにしてよ」

「いやどういう理屈なの。それは、その……やっぱりまだ、恥ずかしいよ……」

 雪は尚も不機嫌そうだが、やがてふっと笑って私に抱きついてきた。

「ちょ、雪」

「しばらく会えないから、充電」

 一瞬迷ってから、私も雪の背中に手を回して抱きしめた。

「ふふ、杏奈。力弱い」

「え、そうかな」

 すると、雪がめいっぱいの力で抱きしめてきた。

「いたたた、痛い。痛い」

「えへへ。ぎゅーっ」

 お互い、めいっぱい抱きしめあって離れた。

 顔を見合わせて、笑う。

「じゃあ、良いお年を」

「杏奈も、来年もよろしくね」

 雪を見送り、家に戻る。手元のアルバムを見て未来を想像した。

 これからは、楽しいことも、辛いことも、全部雪と一緒に感じられる。そしてそれをこのアルバムにしまっておける。辛いことも、いつかしわくちゃのおばあちゃんになった頃には二人で笑えるだろうから。




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