青いまま枯れてゆく



 夏休みが開けて、二学期が始まった。まだ夏の残り香が強く、朝でもじゅうぶん暑い。いや、暑いのは私が走っているせいでもあるのかもしれないが。

 二年生になってから初の寝坊である。家族からは夏休みボケだと散々言われたが私は断じて違うと思う。

 夏休みに杏奈と映画を見て以来、どんな顔をして会えばいいか分からず、メッセージも送れずじまいだったのだ。そして今日からの新学期の身の振り方を考えていたら眠れなかったのだ。今となっては、もう会ってから考えるしかないと諦めた。

 改札を抜けて、次の電車の時間を確認すると、ギリギリ間に合いそうだった。一年生の頃の寝坊が役に立ったと、過去を正当化してみる。

 走ってきたことで乱れた髪を直しつつ、呼吸を整えていると、突然後ろから肩を叩かれた。

「わっ!」

「うわ、びっくりした……雪、おはよう」

「あ、杏奈……」

 急に話しかけられて、せっかく落ち着いてきた心臓がまたうるさくなる。急に話しかけられたからであって、杏奈だからではない。はず。

「あれ?ていうか何でここにいるの?」

 杏奈の最寄り駅は私と反対のはずで、学校に行くなら駅で会うことはないはずだ。

「寝過ごしちゃってさ、まだ間に合うかな?」

「ギリギリ間に合うよ。走れば」

「走るのかー、どうしよっかな」

 電車が到着したが、杏奈は何だかのんびりしている。急がないといけないのに、と思い、つい杏奈の手を引いて電車に乗り込んだ。

「ゆ、雪、ごめん。冗談だから」

「あ、うん。そうだよね。私こそ、ごめん」

 さっと手を離す。しかしまだ杏奈の指の感触と温もりが残っていて、落ち着かない。

「…………」

 何となく、沈黙が流れる。何か話題が無いかと考えていると、杏奈が話しかけてきた。

「雪、あの本読んだ?」

「あの本……ああ、あれね。うん、読んだよ」

 あの本とは、夏休みに杏奈と見に行った映画の原作小説のことだ。

「あの作者さんの本で他にもオススメあるんだ。もし興味あったら今度持ってくるよ」

「じゃあ、お願いしようかな」

 そこから少し話は膨らみ、沈黙にはならずに済んだ。

 話しているうちに学校の最寄り駅に到着し、また急いで改札を抜けた。初めは杏奈も私と同じ速度で走っていたのだが、しばらく経つと杏奈との距離が少しずつ離れてきた。

「杏奈、大丈夫?」

 杏奈は肩で息をして膝に手をついて、かなり苦しそうだ。

「あー、うん。大丈夫。先行ってて」

 杏奈の言う通り先に行こうかと思ったが、やっぱり振り返り、杏奈の手を握った。

「え、ちょ、雪?」

「置いてかないよ。もうちょっとだから、頑張ろう?」

 身体が暑いのも、心臓が跳ねるのも、遅刻のせいにしてしまえばいいと私は走った。杏奈も何も言わずに着いてきた。

「はあ、間に合ったね」

「はあ、はあ……久しぶりに全力疾走した。めちゃくちゃ……疲れた」

 いつもより早く走れたのか、ホームルームまで少し余裕のある時間に着くことが出来た。

 階段を上がり、教室の前まで来ると私のクラスの入口で二人の生徒が会話しているのが見えた。

「あ、雪……」

「優希ちゃん、雫ちゃん……おはよう」

 雫ちゃんは同じクラスで、優希ちゃんは隣の、杏奈と同じクラスだ。二人は仲がいいから、こうして話しているのは珍しくない。

「雪、あの……」

「雫」

「……ごめん、何でもない」

 雫ちゃんが私に何か言いかけたが、優希ちゃんに止められていた。

「……じゃあ、また後でね。杏奈」

「う、うん。また」

 何となく、足早に杏奈と別れ自分の席に向かった。雫ちゃんと優希ちゃんはその後少し会話をして、戻っていった。



「あ、杏奈来た」

 自分の席に座ると、後ろの純が読んでいた本から顔を上げて私を見た。

「純、おはよう。サボると思った?」

「ていうか、雪も来てなかったから駆け落ちでもしたのかと思った」

「するわけないでしょ……」

 冗談でもやめてほしい。それに、どちらかといえば連れ去られたのは私の方だ。

「そうね。二人で手繋いで仲良く登校してたみたいだし」

「み、見てたの?」

「仲が良くていい事ですねー」

「いや、あれは違うから」

 否定しようにも純は聞く耳を持たず、すぐに先生が来てホームルームが始まってしまった。

 さっき立花さんと話していた子は、雪に何を言おうとしていたんだろうか。そういえば、立花さんは確か軽音部だった。ギターケースを背負って登校しているのを見た記憶がある。そして、雪はピアノ経験者。

「……考えすぎ、かな」

 雪はピアノを弾けることをあまり知られたくなさそうだった。純にも教えていないのに立花さんが知っているとは思えない。

 そもそも、私には関係……いやいや。

 そこまで考えて、自分の無責任さを実感した。でも、実際そうかもしれない。

 私には、関係無いことだ。

――――――

「あれ?芽衣、雪いる?」

 いつものように雪に借りた教科書を返そうと昼休みに雪のクラスに立ち寄ったが、雪の姿が見えない。

「何か用事みたい。教科書は机に置いといてって言ってた」

「ふーん。そっか」

 別にいいんだけど、お昼を一緒に食べようと思っていただけに少し残念だった。別にいいんだけど。

 仕方なく自分の教室に戻ろうとすると、芽衣にワイシャツの袖を掴まれた。

「たまには、付き合ってよ」

「ん?うん、いいよ」

 中庭に移動し芽衣はお弁当を、私は菓子パンを食べ始めた。芽衣と二人になるのは、ずいぶん久しぶりな気がする。

「そういえば杏奈がこの前探してた本、図書室に入ったみたい」

「ほんと?じゃあ今度借りに行くよ。芽衣も少しは読書するようになった?」

「まあ、中学の頃よりは。杏奈が色々勧めてくるし」

 そっけなく感じる言い方だが、芽衣は私の勧めた本はしっかり読んでくれるし読んでいる時もなかなか熱中している。

「芽衣の好きそうな物は何となくわかるからね。任せてよ」

「……うん。あの、さ」

 お弁当を食べる手を止めて、芽衣は私と目を合わさず質問をしてきた。

「杏奈って……雪のこと、どう思ってる?」

「え。どう、って?」

 予想外の質問をされて、質問で返してしまう。

「いや、その……珍しいなって、杏奈が誰かと仲良くなろうとするの」

 確かにそうだ。中学の頃はそれ程人間関係に執着していなかった。しかし、今では雪と休みの日に出かけたりしている。だってそれは、雪のことが……

「その……私、雪のこと」

「ご、ごめん。変な事聞いて。何でもない」

 芽衣に言葉を遮られてしまった。でも、芽衣は私が何を言うかわかっていたんじゃ。わかってて、遮ったような気がした。

「私、先に戻るね」

 芽衣はお弁当をささっと片付け、戻っていってしまった。

 残された私は、芽衣の質問の意図を探ろうと思ったが、気づかない方がいいような気がして、考えるのをやめた。

――――――

「桜井さん、もう上がっちゃって大丈夫だよ」

 時計を見ると、定時を少し過ぎていた。あとは掃除だけだし、別に少しくらい構わないと思ったのだが、店長にほうきを取り上げられてしまった。

「じゃあ、上がります。お疲れ様でした」

 着替えを済ませ、バイト先の本屋を出た。習慣として携帯を開いて通知を確認すると、雪からのメッセージが届いていた。内容は『急にごめんね。少し話せる?』というものだった。何の用かなと思いつつ、いいよ、と返信した。するとすぐ雪から『電話してもいい?』と返信が来た。

 わざわざ電話というのも少し不思議だったがまあいいかと思い、またいいよ、と打ってから、やっぱり消してそのまま電話をかけた。少し間が空いて、雪が出た。

「もしもーし」

 雪は歩いているのか、パタパタと音がする。

『も、もしもし。ごめんね、急に』

「全然。雪の方こそ、何かしてた?」

『ううん。お風呂上がりだったから、自分の部屋に来たの』

 咄嗟に、お風呂上がりの雪の姿を想像してしまい、焦ってその妄想を振り払う。

「そ、そっか。大丈夫?髪、乾かした?」

『うん、大丈夫。杏奈、もしかして外?』

「うん、さっきバイト終わったとこだから」

『ごめんね、忙しいときに』

「全然いいよー。それで、何かあった?」

『本当は、学校で直接話したかったんだけど、人に聞かれたくなくて……』

 雪の言葉で一瞬、一つの可能性が頭をよぎったが、すぐに否定して雪の言葉を待つ。

『この間ね、文化祭のバンドに誘われたんだ』

「バンド?それはまた、急な話だね」

『うん。えっと……優希ちゃん、杏奈と同じクラスの立花さんね。あと天羽雫っていう子の二人と、私は同じ中学なの……』

 そこで雪は一瞬黙って、考えてからまた話しだした。

『それで、私がピアノ経験者なのも知ってて』

 そうだろうな、と思った。以前感じた予感は当たっていたわけだ。

『まあ、それで、文化祭のバンドを、一緒にやらないかって言われたの』

「そうなんだ」

 でも、そのことを私に言うということは……雪は、ピアノ経験があることはあまり知られたくないと言っていた。何か事情があるのかもしれない。

『……杏奈は、どうすればいいと思う?』

「え、私?まあ……やってみたらいいんじゃない?」

 思ったより、すんなりと言葉が出た。それが本心なのかは、自分でもわからない。

『そう、かな……』

 雪は私の言葉にあまり納得してない様子だ。それでも私は気付かないふりをして話す。自分のずるさが、嫌になる。

「雪のピアノ上手だったしさ。秘密にしておくのももったいないよ」

 曖昧な気持ちとは裏腹に、口は勝手に動き続けた。

『……わかった。じゃあ、おやすみ』

「え?雪?」

 いつの間にか、雪の声は少し震えていて、すぐに電話は切れてしまった。何かを決定的に間違えたような感覚があるが、何を間違えたのかはわからない。

「……仕方ないじゃん」

 止めることも出来たかもしれない。でもそれが雪のためになるのか?それがわからなくて、気づいたらあんなことを言っていた。

 私は、雪から逃げたんだ。

――――――

 何となく憂鬱な気分での登校になってしまった。

 雪に会ったら何と声をかけたらいいか考えては見たものの答えは見つからず、案外普通に接した方がいいんじゃないかという結論に至った。

 下駄箱まで来ると、いつも通り雪を見かけた。平静を心がけて、何気ない顔で挨拶をする。

「おはよう、雪」

「っ!…………」

 雪は驚いた表情で振り向いたが、私の顔を見るとさっと視線を逸らして、そのまま立ち去ってしまった。つまり、無視された。

 少し、いやかなり、めちゃくちゃ動揺したが、周りに他の生徒もいたのでその動揺は顔に出さないようにしつつ教室に向かった。

 その後の授業は全く頭に入らず、上の空だった。

「ちょっと杏奈、今日はいつにも増して抜けてない?」

 休み時間になると、純が声をかけてきた。

「あはは……寝不足かな」

「ふーん。ところで次の化学の授業、移動教室だけど」

「ああ、そっか」

 化学の教科書はもう行方不明なのでいつもの癖で雪に借りに行こうとして、足が止まった。

「どうしたの?」

「え、ああ、なんでもない。純は先行ってていいよ」

「何で?雪のとこ行くんでしょ?」

「んー……そう、だね」

 めちゃくちゃ怪しまれてるけど、今は雪に会いづらい。もう適当に言い訳してサボろうかな……と考えていると、タイミング悪く雪が教室から出てきてしまった。

「あ、雪」

「純、どうかした……」

 雪は純を見たときは普通に挨拶したが、私がいることに気づくとまたさっと目を逸らして何も言わず立ち去ってしまった。

「え、雪?」

 純の呼び掛けも応えず、雪はどこに行くつもりなのか遠くに走っていった。

「ちょっと、どういう事?」

「さあ……」

「あんたの顔見て逃げてたけど?何したの?」

 純の顔がどんどん険しくなっていく。

 面倒臭いことになったな。

「ちょっと、杏奈」

「あ、芽衣」

 雪が出ていった教室から、今度は芽衣が歩いてきた。

「今の見てたけど……何?」

 芽衣にも雪が逃げていくところを見られてしまったらしい。二人して私に詰め寄ってくる。

「あー……とりあえず、化学の教科書借りていい?」



「はぁ……」

 気づいたら教室からずっと離れた廊下まで走っていて、その場に座り込んだ。

 逃げるつもりは無かったのに、足が勝手に動いていた。行動が自分勝手過ぎて嫌になる。杏奈は訳が分からないだろう。

 バンドのことを杏奈に止めてほしかったのか、今となってはもうよくわからない。ただ、すんなりやってみたら、と言われたことが私の中でショックだった。それはつまり、杏奈に悩んでほしかったということだ。

「私、最低かも……」

 教室に戻らなきゃと思うが、立てない。どうしようもない感情が渦巻いてきて、溢れそうになった瞬間、名前を呼ばれた。

「雪?」

「優希、ちゃん……」

 優希ちゃんは、私の顔を見て驚いていた。その時私は、自分の目に涙が浮かんでいることに気づいた。

「どうかした?大丈夫?」

「う、うん。優希ちゃんこそ、どうしたの?こんな所で」

「次の授業で使う資料を頼まれたんだけど……ちょっと待ってて」

 そう言うと優希ちゃんはダッと走っていって、またすぐ戻ってきた。

「お待たせ。立てる?」

 優希ちゃんが差し出してくれた手に掴まり、立たせてもらう。優希ちゃんの指は中学の頃よりも固くて、それだけギターを練習したんだな、と思った。

 優希ちゃんに連れられるまま歩いていくと、保健室に着いた。中には先生が座っていて、優希ちゃんは私を休ませるためベッドを借りることと、クラスに連絡しておいてほしいと伝えた。先生はそれを了承し、連絡のため保健室から出ていった。

「雪、少し休みな。ほら」

 さっき買ってきていたのか、水も差し出してくれた。一口飲むと、優希ちゃんにゆっくりベッドに寝かされた。

「……聞かないの?」

「何を?」

「何で、泣いてたか」

「聞かないよ」

 優希ちゃんが私の耳にかかった髪を指で優しく梳いた。そのままゆっくりと頭を撫でられる。

「ほら、寝てな。時間になったら起こしてあげるから」

 優希ちゃんの声と手はとても優しくて、吸い込まれるように優希ちゃんの背中に手を伸ばしていた。

「優希ちゃん……」

「ん?」

「……私、バンドやるよ」

――――――

 放課後、テニス部に文化祭までの間はバンド練習のためあまり部活に来られないことを伝えに行った。真希ちゃんはとても残念そうにしていたが、文化祭は必ず見に行くと言っていた。

 優希ちゃんから指定された教室は音楽室ではなく別の校舎の端の空き教室で、ギターのチューニングの音だけが廊下に響いていた。

「失礼します……」

 恐る恐るドアを開くと、優希ちゃんと雫ちゃんが立っていて、中学時代を思い出す。

「雪、待ってたよ」

「雪……本当に来てくれたんだ」

 雫ちゃんは私が来たことに驚いているようだった。元々は、雫ちゃんに文化祭のためにキーボードを弾いてほしいと頼まれたのだ。

 優希ちゃんがギターを、雫ちゃんがベースを構えて立っているその光景を見ていると、中学の頃を思い出してくる。楽しかったことも、辛かったことも。

『あんたが、奪ったんじゃない……!』

 脳裏に浮かぶ記憶を振り払う。大丈夫。今はもう、こうするしかないんだから。

「……っ」

「雪、とりあえず何か一曲、やろうか」

 私の不安を察したのか、優希ちゃんから演奏を提案された。言葉で話すよりも、私たちには音がある。

「……じゃあ、あれにしよう。初めて三人で合わせた曲」

「いいね、雫。雪もそれでいい?」

「うん、大丈夫だと思う」

 雫ちゃんがメトロノームでカウントを取って、演奏が始まる。確か、中学生の頃に流行っていたアニメの主題歌だった気がする。まだキーボードにあまり慣れてなくて苦戦したことを思い出す。

 久しぶりの演奏で上手く弾けるか不安だったが、指が覚えていて意外と弾けた。ただ優希ちゃんも雫ちゃんもあの頃より上手くなっていて、余裕がある感じだった。優希ちゃんの声も中学生の頃より少し低くなっていて、歌の幅がある。

「……よし、いい感じじゃん」

「そうかな。優希、所々で入りがズレてたよ」

「わかってるよ。雪の話だから」

「うん、雪は久しぶりにしては悪くなかった」

「ありがとう、雫ちゃん。でも、二人ともすごく上手くなっててびっくりしちゃった」

「まあこのくらいはね……で、これが文化祭でやる予定の曲なんだけど」

 褒められても謙遜しないところが二人らしいなと思う。それだけ自分たちの演奏に自信があるんだ。

 渡された譜面は聞いたことの無い曲のもので、雫ちゃんが作曲したオリジナルらしい。

「これって……」

「うん。キーボードがかなり要だから、雪の力が必要だった」

「どう?雪、出来そう?」

 正直まだ少し怖いけれど、もう選択肢は一つしか無かった。

「……うん、やる」

「ありがとう、雪……今度は絶対、守るから」

 優希ちゃんがすっと私の手のひらを包んだ。優しさと、温もりのある手だ。なのに私は、杏奈の手の感触を思い出していた。杏奈の手は、優希ちゃんと比べたらずっと頼りなくて、私に触れるときはとても、臆病な手だった。

「……雪?」

「あ、ごめん。うん、私こそ、よろしく」

 何を考えているんだ。その手を振りほどいたのは、私なのに。



「ねーえー、杏奈ー?」

 未来が私をユッサユッサと揺らしている。私は机に突っ伏して寝ている設定なのに、未来はしつこく私の脳を揺らしてくる。一時間目からかれこれずっとこの姿勢で過ごしている。今日の授業が何だったのかも知らない。

「ねえ純、杏奈が起きないよー」

「はあ……ちょっと杏奈、いつまでそうしてるつもり?もう昼休みなんだけど」

 純が私の頬を突いてくる。リズム良く当たる指は段々と強くなってきて、痛い。

「あ、雪」

「っ!」

 ガバッと顔を上げて確認すると、確かに雪が教室のドアの前に立っていた。しかし私とは目を合わさず、視界の間に立花さんが割り込んできて、そのまま二人で廊下に出ていってしまった。

「……はぁ」

「ああー、また寝ちゃった」

「……立花と雪って知り合い?」

「どうなんだろうね。私も立花さんとあんまり喋ったことないからなー」

 結局二人とも、私の机でお昼を食べ始めた。私の頭の上で会話が進んでいると、途中から芽衣の声も加わってきた。

「雪、文化祭でバンドやるんだって」

「へー、すごい。久保田さんって楽器弾けるの?」

「キーボードの担当らしいよ。うちのクラスの天羽さんと、こっちのクラスの立花さん?と一緒に」

「立花か……」

「純、どうかした?」

 純は何か思うところがあるようで、小さく唸っている。

「あんまり、良い噂聞かないんだよね」

「立花さん?頭いいってことくらいしか知らないや」

「成績はね。ただ……あんま言いたくないんだけど、何人かの女子と付き合ってるとか、他校の女子にも手出してるとか、そういう話」

「え、そうなの?」

「いや噂だけど。まあ火のないところに煙は立たないって言うし」

 純の言葉に芽衣は少し嫌悪感を示しているが、未来はあまりピンときてない顔だ。

「煙……?よくわかんないけど、確かに立花さんってイケメン系だし、モテそうだよね」

 そう言う未来も、今となってはバスケ部部長で後輩からは中々人気らしいが。当の本人はそういったことに関心が無いらしい。

「じゃあ雪も、その内の一人ってこと……?」

「そうとは限らない……っていうか、雪に限ってそんな奴に引っかからないと思いたいけど」

 それは私だってそう思いたい。

「それで、あんたはどうすんのよ」

 純が再び私の頬を突く。三人のお弁当の香りに散々弄ばれた私の空腹が先に返事をした。

「……お腹空いた」



「いらっしゃいま……なんだ、優希か」

 楽器店のドアをくぐると、制服の上からエプロンを着けた雫が出迎えた。私に気づくとすぐいつもの無表情に戻る。

「なんだ、って……冷たいな。ねえ、湿布ある?」

 赤く腫れた頬を擦りながら尋ねると、雫は裏に探しに行ってくれた。ここは雫のお父さんが経営している楽器店兼自宅で、小さい頃からの私たちの遊び場だ。

「持ってくる。久しぶりだね、そういうの」

「まあ、三発連続だと中々効くね」

 別れを告げられたことは多いけど、別れを告げたことはあまり無い。告白も、されるけどしたことは無い。

 雫が湿布を持ってきて、貼ってくれた。かなり勢いよく貼られて痛かったけど。

「何?今更一途になったの?」

「別に遊びのつもりは無かったんだけど……まあ、そういうことかな」

 雪をバンドに呼び戻したいと雫が言ってきたときは驚いた。それを言うのは私の方だと思っていたし、私はもう雪とは終わったと思っていたからだ。

 でもあのとき雪が蹲って泣いているのを見て、やっぱり私が守らなくちゃいけないと思った。

「まあこれで少しは練習時間が増やせるならいいけど」

「任せてよ。雪のために、全力でやるから」



 文化祭が近づき、各クラスとも準備に取り組んでいる。私はバンドに参加するのでクラスの仕事は軽めにしてもらった。と言っても私たちのクラスの出し物は屋台のクレープで、私は当日の呼び込みくらいしか仕事が無いので準備期間は手持ち無沙汰だ。

 芽衣と話してもいいんだけれど、杏奈のことがあってから少し皆とも気まずくてあまり話せていない。教室にいるのが段々気まずくなってきて、隣の教室を覗いてみた。

 杏奈の姿が見えたけれど、私には気づいてないようで何か作業をしている。見回していると、優希ちゃんが私に気づいて近づいてきた。私も手を振って近づこうとしたが、突然後ろから肩を叩かれた。

「雪、どうしたの?」

「わっ、純。いや、えっと……」

 教室の方に視線を戻すと、優希ちゃんは既に踵を返していた。

「ねえ、暇なら少しいいかな?」

「う、うん。いいけど」

 純ともここ最近話していないし、何なら少し冷たい態度も取ってしまっていたかもしれない。私の気持ちを察してか、純は優しく話してくれている。

「ちょっと、場所変えよっか」

 純と一緒に中庭の方まで移動した。文化祭の出し物で使われるステージの組み立てが行われていて、少し賑やかだ。私たちはそこから少し離れた場所に座った。

「何か、雪と二人で話すのって久しぶりだね」

「そうだね。入学したばかりの頃はよく二人でいたけど」

 そして、杏奈と出会って、芽衣と友達になって、七瀬さんとも話すようになった。

「……杏奈と、何かあった?」

 やっぱり、その話か。予想はしていたけれど、回答は用意できていない。どう言っても私が悪いのだ。

「……私の、わがままだから」

「それが、立花とバンドやることの理由でもあるの?」

 純は、わかってて聞いているのかもしれない。でも肯定はできなくて、俯くしかなかった。

「ごめん、責めるつもりは無いよ。ただ友達として、放っておけなくて」

 純の真っ直ぐな目が私を見つめている。その目には私は酷くずるい人間に写っているような気がして、いたたまれない。

 それでも少しでも純の気持ちに応えてあげたくて、思い出したくない過去の扉を開いた。

「……小さい頃、ピアノを習ってたの」



「何それ、犬……いや、馬?」

 急に横から話しかけられてびっくりしてしまった。顔を上げると、立花さんが私の書いているポスターを見ている。

「いや、猫……」

 絵が下手なのは認めるけど、これは私に任せてどこかに行ってしまった純が悪い。立花さんはまだ私の横から動かない。

「あの、何か用?」

「桜井さんって、雪のことどう思ってる?」

「……何?普通に、友達だよ」

 本音を言えない弱さに腹が立つ。立花さんはそれを知ってか知らずか、嘲るように笑った。

「ふっ。ああ、そう」

「は?何が」

 どことなく高圧的な態度を取られて、反射的に私も眉間に皺が寄る。

「怒らないでよ。ただの友達なら」

 更に感情を逆撫でされる。何だか無性に腹が立つ。立花さんに掴みかかろうと立ち上がったが、それじゃあ中学の頃と何も変わらないと思い直し、じっと立花さんを見つめる。

「……知らないよ。知らないけど、今の雪のことは、私の方が知ってる」

 自分の言葉に、自分で驚いた。

 完全に虚勢だ。本当に知っていれば、あのときもっと雪が必要としていた言葉を言えたはずだ。

「そっか……じゃあ教えてあげるよ。桜井さんが知らない雪のこと」

 



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