未だ見えない気持ち



「杏奈ー!ごめん、待たせちゃって」

「大丈夫だよ。まだ時間あるし」

 白いロングスカートを揺らしながら駆け寄ってきた雪に思わず見とれかけてしまった。何とか己を律しながら、映画館へと向かう。

 二人で出かけるということが、まさか夏休み中にあるとは思ってなかった。

――――――

 一週間ほど前、朱音から電話がかかってきて少し話をした。

「まだ雪先輩のこと誘ってないの?」

「まだとかじゃなくて、誘わないって。二人でなんて」

「せっかく私がお祭り誘っていい感じになってたのに」

「あれは……そういうのじゃないでしょ。私が一人でテンパってただけで」

「ほんとにそう思ってる?雪先輩だって、嫌いな人にそんなベタベタしないでしょ」

「友達として、だから。雪は」

 そう、友達。自分にとってもそうだと言い聞かす。

「それに私はそういうの向いてないよ、やっぱり。誰かと深く仲良くするのは」

「杏ちゃん、私のこと小学生の頃から変わったって言うけど、杏ちゃんも変わったよね」

 朱音の言葉で、小学生の頃の自分を思い返した。あの頃は、外の世界に楽しいことがあると信じていた。ここには無い幸せも喜びも、どこかにあると信じきって、探し回っていた。

「……もう、疲れたんだよ」

「杏ちゃん……」

 暗くなってしまった空気を取り繕うのも、朱音が相手だと面倒になってしまう。こちらの気持ちをわかってくれるだろうという甘えからだ。

 朱音が何か言いかけたところで、電話口の向こうから元気な声が聞こえた。

「朱音ちゃーん!早くー!」

「あ、ごめん、真希と陽菜が呼んでるから……」

「うん、楽しんできな」

 聞くところによると、朱音たちは東雲さんの計らいで海に遊びに行っているらしい。随分高校生らしい夏休みをエンジョイしていて、いい事だと思う。

 電話を切り、机の上に置いてある読みかけの文庫本をパラパラとめくっていると、携帯が再び震えた。メッセージの送り主は雪で、その文面は「今度、この映画見に行かない?」というものだった。程なくして映画のサイトのリンクが送られてきた。それは私たちが一年生の頃、雪と出会うきっかけになった小説の映画だった。



「朱音ちゃん、誰と電話してたの?」

「杏ちゃんと。さて、真希。空気入った?」

「ばっちり!早く遊ぼー!」

 真希がパンパンに膨らんだビーチボールを掲げた。

「待って、日焼け止め塗るから。真希も塗ったら?」

 言ってみたものの、真希の肌はすでに健康的に焼けている。

「えー、いいよ。めんどくさいもん」

「真希ちゃん、綺麗に焼けるからいいよね。でもちゃんとお手入れしたほうがいいよ?」

 陽菜は対照的に真っ白だ。水着も白いパレオで、それがよく似合っていてさすがお嬢様だなと思った。

「うえー、陽菜ちゃんまで……わかったよ。じゃあ朱音ちゃん、塗って」

「はいはい」

 ここは陽菜の、というか東雲家のもつ別荘の近くにある海だ。陽菜の家がお金持ちなのは聞いていたが、別荘まで持っているとは驚いた。他にも冬用の別荘がもう一つあるらしい。

「よし。じゃあ遊ぼっか。荷物は……」

「私が見ておきますので、皆様はどうぞ」

「あ、はい。ありがとうございます」

 先程から私たちの横で微動だにしなかった黒スーツの初老の男性が荷物番を買って出てくれた。ここまで私たちを車で送り届けてくれたこの人は、陽菜の家の執事さんらしい。パラソルの下で、女物のカバンの前で直立している様はなかなかシュールだった。

 正直、女子高生三人で海に来るのは何かと危険なのではと思っていたのだが、この執事さんのおかげでその心配は無さそうだった。確かに、この真夏のビーチでスーツを身にまとい汗ひとつかいていないその姿はある意味不気味ではある。他の海水浴客も、あまり近寄ってこない。

「あ、そうだ」

 海に入る前に、荷物越しに海の写真を撮って、「海来たよ!」のコメントと共にSNSに投稿した。



「杏奈、席どこがいい?」

「私はどこでもいいよ。雪はあんまり後ろだと見えない?」

「今日はコンタクトしてきたから、大丈夫」

 少し悩んで、席は後ろの方に取ることにした。

 発券されたチケットを嬉しそうに握りしめる雪を見ながら、朱音にはああ言った癖にいざ雪に誘われたらこうしてホイホイ来てしまう自分が我ながら情けないなと思った。

「どうしよっか、先にお昼食べちゃう?」

「そうだね。杏奈、何か食べたいものある?」

 私はどうも雪に対して警戒心が無さすぎる気がする。それでも絶対に超えてはいけないラインはわきまえてるつもりだ。しかしその分の距離を取ろうと私が離れると、雪はその分距離を縮めてくる。そして、もう私の背後には崖が迫っている。

「杏奈?」

「あ、ごめん。ぼーっとしてた」

「もう、また寝不足?」

「いやあ、どうだろ。それで、どうかした?」

「だからお昼、パスタでいい?」

 雪が言っていたのは、映画館が入っているショッピングモール内のパスタ屋さんだった。

 お昼にはまだ少し早いこともあって、他にお客さんの姿はあまり見えなくて、空いているうちに入ることができた。

「杏奈は小説読んだんだよね?」

 雪がたらこスパゲティをフォークに巻き付けながら聞いてきた。これから見る映画の話だろう。

「うん、あと映画も見たよ。最後のアクションシーンがすごかった」

「ね!私も、最後に二人が合流して背中合わせになるのがすごく良かったと思う!」

「今回のもまたすごいと思うよ。あのシーンが映画になったら映えるんじゃないかな」

「へえ、楽しみになってきちゃった」

 一瞬会話が途切れて、雪が私のカルボナーラをじっと見つめてきた。

「ねえ杏奈、一口貰っていい?」

「うん、いいよ」

 雪の方に皿を差し出したが、雪は一度フォークを近づけてから、引っ込めてしまった。

「味、混ざっちゃうから。食べさせて?」

「え、あ、うん」

 いやまあ、友達同士ならこれくらいは。

 何事も無いように自然にフォークを巻いて、雪の口に入れた。雪が口を離してから、自分が息を止めていた事に気づいた。

「おいしい。私のもあげるね」

「え、いいよ」

 反射的に断ってしまった。

「あ、苦手だった?ごめんね……」

 雪が悲しそうな顔になってしまったのを見て、私は慌てて訂正した。

「いや違くて!えっと、ごめん。やっぱり貰っていい?」

「そう?じゃあ、はい」

 ああ、結局私は雪に敵わないのか。



 机の上のスマホが震え、通知を知らせた。一旦ゲームを中断して確認すると、SNSへの投稿通知が表示されている。

「海か……」

 行ったことないな、と思いつつ投稿された写真を見ていると、並んでいる荷物のうち一つに見覚えのあるキーホルダーが見えた。

 以前、夏祭りの射的で私が撃ち落としたものだ。そして、戸田さんにあげた。この投稿をしているアカウントの名前は、「Akane」だ。

「やっぱり、そうなんだ……」

 薄々、勘づいてはいた。何せ声がそっくりなのだから。

 数ヶ月前にオンラインゲームのレイドボスに挑むため参加者を募っていた時、彼女が参加してきた。大抵はその場限りの協力関係なのだが、彼女はその後律儀にお礼のコメントと、SNSのフォローをしてきた。正直、リアルでもネットでも私は人見知りなのでその時はちょっと面倒臭いな、と思っていた。

 しかし彼女が個人的に行っている配信を何となく聞いてみて、印象が変わった。

 なんと言うか、軽快な口調の中に知性が感じられて、不快にならない話題を上手く選んで……まあ、正直に言うと声が好みだったのだ。

 その時にコメントで「いい声ですね」と送ろうとしたが、さすがに気持ち悪いかもしれないと思い、しばらく考えた挙句無難なスタンプを送るに留まった。何の変哲もない、適当だと思われかねないスタンプだったが、彼女は私がスタンプを送ったことをすごく喜んでくれた。

 カバンに付けられたキーホルダーをひとしきり眺めた後、アプリを閉じた。もう少し待ってからいいねを付ける。即いいねをしてしまうのは投稿通知を受け取っていることがバレる恐れがある。いや仮にバレたとして、何が困るのかは説明できないけれども。

 何かコメントを送ってもいいかもしれない。

「かわいいキーホルダーですね……いや、気持ち悪いな」

 ゲームをしながら考えてみたが、何もいい案は浮かばなかった。

――――――

「ん?……ふふ」

「朱音ちゃん、どうしたの?」

「あー、いや。何でもない」

 SNSを見ていると、さっきの私の投稿へのいいねの通知と、「ネコ、かわいい」

という投稿が目に入った。

「直接言ってくれればいいのに、面白い」

 



「はー、面白かったね」

「うん、期待以上だった」

 映画を見終わり、劇場から出た。映画はもちろん面白かったのだが、隣の雪の表情が映画のシーンに合わせてコロコロ変わるのも面白かった。

「やっぱり小説も買おうかな。主題歌もすっごく良かったし、それのCDも欲しいかも」

「じゃあ探してみよっか。多分どっちもショッピングモールの中にあると思うし」

 本屋とCDショップを探して歩いていると、楽器店の前を通りかかった。表にはピアノが何台か並べられていて、それを見た雪が何か思いついた顔をした。

「そうだ、杏奈。ちょっと見ててね」

 雪は鍵盤をいくつか押してから、両手で滑らかに鍵盤を叩いた。その音は確かに、先程の映画の主題歌のメロディーだった。

「え、雪ってピアノ弾けるの?」

「えへへ、ちょっとだけね」

「ちょっとってレベルじゃなくない?絶対音感?」

「小さい頃に習ってただけで……ほんとに、大したことないよ」

 謙遜しているが、確実にかじっただけのレベルじゃないのは素人の私でもわかった。楽器店の店員さんもさっきの雪の演奏を聞いて驚いた顔をしていたし。

「実はこれ、純たちにも言ってないんだ。あんまり言いたくなくて……」

 何か事情があるのか、雪の表情が曇ったが私は何も言えなかった。

「でも、杏奈には知っててほしいって思ったの」

「え……?」

「な、何となくね、何となく。だから秘密だよ!」

 何が、何とないのか。何と何だ。なんなんだ。

 他の人が知らない、雪の一面を知ってしまった。それを背負うには、私は非力過ぎる。

「と、とりあえず行こうか。店員さんも見てるし」

 これ以上崖の下は見てられなくて、急いでその場を離れた。

 朱音が電話で言っていたことを思い出す。「雪先輩だって、嫌いな人にそんなベタベタしないでしょ」と言っていた。友達として、だ。私はそう答えたし、今でもそう思っている。だから私の気持ちは絶対に伝えられない。

 それでも雪は、私を落とす手を緩めようとしない。いや、私が勝手に落ちているのかもしれない。

――――――

「CDと本、買えてよかったね」

「うん。帰ったら読んでみる。そしたら感想送るね」

 内容は映画とほとんど変わらないけど、と私が言いかけたら、雪が小さくくしゃみをした。そして、その姿勢のまま固まった。

「雪?」

「コンタクト、取れちゃった」

「まじか、ちょっと待ってね」

 雪に動かないでもらい、踏まないよう気をつけつつしゃがみ、床を見つめる。

「ソフトだから、危なくはないと思う……」

 雪の視線の方の床をじっと見てみる。手を床に添わせて進ませると、指先にコンタクトが触れた。

「あった。けど、これじゃもう付け直せないね。片目だけ?」

「うん。ごめん、ありがとう」

 雪は私の指からコンタクトを取ろうとしたが、距離感が上手く掴めてないようだ。

「大丈夫?」

「うん……でも、お手洗いまで連れてってもらっていい?」

 雪が差し伸べた手を、煩悩を振り払い掴んだ。これは困っている友達を助ける行為だ。

「ごめんね、待たせちゃって」

「全然、じゃあ行こっか」

 無事コンタクトは外せたようだし、そろそろ時間も時間だし帰ろうと歩き出すと、雪に服の裾を引っ張られた。

「雪?」

「その……見えないから、手、繋いでてほしい」

「え」

 雪は部活のときはコンタクトをしていて、授業中はメガネらしい。それ以外の休み時間は裸眼で過ごしているはずだ。ここから帰れないほど目が悪いとは思えない。

 が、頬を赤くして、伏し目がちに私に懇願する雪を前にそんなこと言えるはずもなく、私は雪の手を引いて、出口に向かった。

 冷静になろうとすればするほど、手のひらに意識が集中してしまい、熱が溜まっていく。

――――――

「ごめんね、杏奈」

 駅のホームで、雪は心底落ち込んだ顔で謝ってきた。

 私と雪の家は逆方向なのだが、先程、改札を抜けてから私が雪の家の方向のホームに行こうとすると雪が「あれ、杏奈こっち?」と不思議そうに尋ねてきたので、見えてないんでしょ?と聞くと雪は恥ずかしそうにまた顔を赤くしていた。

「私は大丈夫だよ。早く帰ってもやることないし」

「そ、そっか」

 まもなく電車が到着するというアナウンスが流れた頃、アナウンスの声に混じって、後ろから声が聞こえた。

「お姉ちゃん?」

「……っ!?さ、沙織!?」

 雪は咄嗟に手を離した。そしてかなり驚いている。

 そこにいたのは、以前文化際にも来ていた雪の妹だった。部活帰りなのか、セーラー服姿だ。

「えっと……沙織、今帰り?早いね」

 一瞬で私から離れた雪が何事もないような顔で話し始めた。

「いつも通りだと思うけど……えっと、久保田沙織です」

 雪の妹、沙織ちゃんは私の方を見て挨拶してきた。声のトーンは少し低くて、少し警戒心が見える。

「うん、文化祭来てたよね。私は桜井杏奈。雪の同級生だよ」

「あの、姉とは……」

 沙織ちゃんが何か言いかけたがちょうど電車が到着して、雪が沙織ちゃんの手を引いて慌てた様子で駆け込んでしまった。

「さ、沙織と帰るから、もう大丈夫!杏奈、またね!」

「あ、うん。また」

「ちょ、お姉ちゃん!」

 電車のドアはすぐに閉まり、走り出していった。

「……はぁーっ」

 電車を見送ってから、私は大きくため息をついた。右手はまだ熱を帯びたままだ。

 雪にも、バレているだろうか。

――――――

 家に着き、部屋の明かりを点けてベッドに横たわった。今日は色々あって疲れた。

 何となく、クローゼットの中からダンボールを出して、中身を確認してみた。そこには小学生の頃の作文コンクールで入賞したときの賞状が入っている。雑に保管していたからくしゃくしゃだ。

 少し眺めてから、すぐにダンボールに戻して、クローゼットを閉めた。

「何で今更……」

 もう、過ぎた夢なのに。雪の話を聞いて、影響されたのかもしれない。

 でもこんなこと、雪に話しても仕方ない。



「……はあ」

「お姉ちゃん、手、痛い」

「あ、ごめん」

 沙織に言われて初めて、私は沙織の腕を握っていたことに気づいた。

 手のひらを見つめる。さっきまで杏奈と繋いでいた左手だ。まだ熱を帯びたままで、杏奈にもきっとこの熱は伝わってしまっていたと思うと、恥ずかしさでどうにかなりそうだった。

「さっきの、桜井さんってさ」

「え!?な、なに」

「……お姉ちゃん、あの人のこと好きでしょ」

「ち、ちがっ!」

 急に大声を出してしまい、他の乗客に睨まれてしまった。声のボリュームを落として、改めて返答する。

「違う、っていうか、まだわかんない……」

 わからない。わからないのだ。私の中にある杏奈への執着が、恋なのか、なんなのか。

「あっそ」

「あっそって……冷たくない?」

「別に興味無いし。ただ、お姉ちゃんの好みはわかりやすいから」

「そ、そうなの?」

 詳しく聞きたかったが、沙織はイヤホンを取り出して、会話終了としてしまった。

 今日の……というか、最近の私の行動は、自分でも制御できてない部分が多々ある気がする。気がつくと、杏奈に触れたい、近づきたいという気持ちが先行して、思いがけない行動をとっているのだ。

 もしかしたら杏奈は、迷惑だと思っているかもしれない。実際、私が距離を詰めると杏奈は離れようとする。私の身勝手で、杏奈を困らせている。

「そういえば」

 いつの間にかイヤホンを外していた沙織が急に話しかけてきた。

「去年の文化祭、優希先輩と雫先輩出てたよ」

「……そっか。頑張ってるんだね」

「キーボードは、いなかったけど」

「……うん。そっか」

 中学生の頃の記憶が蘇る。今となっては、色褪せた記憶だ。

「まあ、お姉ちゃんには関係無いか」

 沙織はまたイヤホンを付けた。


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