傷は見つけると痛みだす
初夏、すっかり馴染んだブレザーを着て、私、久保田雪は見慣れた通学路を歩いていた。少し丈の余っている一年生を見ていると、一年前のことを思い出す。
「杏奈、おはよう」
学校に着くと、下駄箱で杏奈の姿を見かけ、挨拶をする。
「雪、おはよ」
杏奈は去年の文化祭から、ちゃんと休まず学校に来ている。
それを確かめるためではないけれど、いつの間にかお互い何となく同じくらいの時間に登校している。
「……あのさ、もう大分経つのに、未だに新鮮な顔しなくてもよくない?」
「えっ、私そんな顔してる?」
「はぁ……まあ、いいんだけどさ」
「そうは言っても、結局授業中は寝てばっかりだけどね」
「あ、純。おはよう」
杏奈と話していると、後ろから純が来た。二年生になって、純と杏奈は同じクラスになった。
「純、それは言わなくても……ていうか、いつも起こしてくるじゃん」
「先生に言われるんだから仕方ないでしょ。後ろの席だからって、いい迷惑」
純と杏奈は文系クラスで、私は文理クラス。といっても、クラスは隣同士なのでそれなりに会うことはある。
「バイトが大変なんだよ。純は部活もバイトもやってるなんて、本当にすごいね」
「本屋さんだっけ、杏奈のバイト先って」
「そうそう。雪もバイト始めたんだって?」
「うん。家の近くの喫茶店で」
「……それってまさか、メイドカフェじゃないよね?」
「あ、杏奈!違うに決まってるでしょ!?」
「あはは。ごめんごめん。文化祭で着てたのが似合ってたからさ」
正直、あれで興味が湧いたのは事実だけれど。
「今度行ってみようよ。雪が頑張ってるとこ見たいし」
「それは……恥ずかしい、かも」
「そう言われると、逆に行きたくなっちゃうな」
杏奈が俄然やる気になっているが、教室に着いたので強引に話を切り上げて立ち去った。
「じゃあまた後でね。杏奈、ちゃんと起きてるんだよ」
「う……はいはい。わかったよ」
教室に入ると芽衣が先に来ていて、イヤホンを付けて窓の外を眺めている。何か音楽でも聞いているのかな、と思いつつ前まで行って挨拶をする。
「芽衣、おはよう」
「わっ、雪……お、おはよう」
ずいぶん熱中していたようで、私が来たことに驚いていた。
「何聞いてたの?」
「えっと、何て説明したらいいのかな……雪って、こういうの聞く?」
芽衣が見せてくれたスマホの画面には「Akaneのひとりごと」というタイトルが表示されていた。
「何ていうか、ラジオみたいなもの、かな」
「へえ、この人って有名人とかなの?」
「いや、普通の人なんだけど……ゲームで知り合って、何かやってるって言うから、たまたま聞いてみたの」
「そうなんだ。でも、結構熱中して聞いてたような気がしたけど」
「うっ……ま、まあ、割と聞きやすい話し方だな、とは、思ったかも」
つまり、かなりハマっているということらしい。芽衣にそう言っても否定するだろうけど。
「HR始めるぞー。席つけー」
もう少し芽衣から話を聞きたかったが、担任の笠原先生が来たのでそれ以上は聞けなかった。
うちの学校では、文系クラスと理系クラスの他に、私の選択した文理クラスがある。基本的には理系を選択した生徒たちが集まっているが、文系科目も学べる。芽衣は三年生から本格的に理系に進むつもりで来ているが、私はどっちつかずで文理クラスを選択した。
――――――
「じゃあね。芽衣、また明日」
「うん、部活頑張ってね」
放課後になり、部活に向かう。高校に入ってから始めたテニスも、今では中々上達してきたと思う。他のスポーツは、まだ苦手だけど。
「雪先輩!こんにちは!」
「真希ちゃん、お疲れ様。早いね」
部室には既に着替えを済ませていた後輩の宮川真希ちゃんが来ていた。今年入った一年生だ。いつもテンションが高く、リアクションも大げさで、話していると短い髪がぴょんぴょん跳ねるのが見ていて面白い。
中学は陸上部でテニスは未経験らしいが、とても運動神経が良くて、正直私より覚えがいいと思う。でもそれが全然嫌味にならないほど明るくていい子だ。
「じゃあ、まずはランニングから始めようか」
「はーい!」
一年生達への指導は基本的に二年生が行っている。といっても、練習メニューは決まっているのでそれを伝えるだけなのだが。
夏の気配が近づいてきて、外でのランニングは少し辛くなってきた。汗を拭いながら校舎の周りを走っていると、途中で真希ちゃんが誰かと話している姿が見えた。
「あっ、雪先輩。すみません!すぐ戻ります!」
「ううん、大丈夫だよ。その子、友達?」
「はい、同じクラスで……」
「東雲陽菜です。真希さんとは同じクラスです」
丁寧な言葉と綺麗なお辞儀で、私までかしこまってしまう。制服もぴっちり着こなしていて、育ちの良さが伺えた。
「陽菜ちゃんは美術部なんです!今もほら、このうさぎちゃんを描いてたんですよ!」
東雲さんのスケッチブックを見せてもらうと、そこには確かに可愛らしいうさぎの絵が描かれていた。
「本当だ、かわいいね。うちの学校、うさぎなんて飼ってたんだ。知らなかった」
「私は飼育委員も担当しているので、この子たちとはよく会うんです」
「陽菜ちゃんにすごく懐いてるんだよね!あ、そういえばこの子の名前、ユキって言うんですよ!」
飼育小屋の壁を見てみると「ユキ」と書かれた名札が貼ってある。もう一羽のほうは「サクラ」という名前らしい。二羽とも、東雲さんが優しく撫でると、気持ちよさそうにしていた。
「へえ、私と同じ名前なんだ。何だか親近感わくね」
「雪先輩も撫でてみますか?」
「いいの?やったことないけど、大丈夫かな」
「この子は背中を撫でてあげると喜びますよ」
恐る恐る手を出してみると、サクラちゃんの方が興味を示して寄ってきた。ゆっくり背中を撫でてみると、ふわふわしていて気持ちいい。
「嬉しそうですね。雪先輩、上手です」
「そ、そうかな……ふふ、かわいい」
「すごいですね!私、なかなか懐いてもらえなくて……」
確かに、真希ちゃんが撫でようと近づくと、サクラちゃんはさっと身を避けて、私の方に隠れてしまった。
「サクラちゃん、あまり初めての人には懐かないんですけど、雪先輩のことは気に入ったみたいですね」
「そうなんだ。ちょっと嬉しいかも」
「陽菜ー、そろそろ美術室戻るよ……って、雪じゃん」
向こうからスケッチブックを持った純が現れた。
「純、今日は美術部行ってたんだ」
「うん。雪はランニング中?」
「そう。あ、この子はテニス部の後輩の宮川真希ちゃん。東雲さんと同じクラスなんだって」
「宮川真希です!よろしくお願いします!」
「真希ね。私は雪の友達で美術部の汐見純。バスケ部も兼部してるよ」
「兼部してるんですか?すごいです!」
「汐見先輩は、絵もとても上手なんだよ」
「いやいや、私のは趣味程度だから」
謙遜しているが、純の絵は実際かなり上手いと思う。
「私がここの高校に来たのも、文化祭で汐見先輩の絵を見たからなんです」
「すごいじゃん、純」
「分かった、分かったから……ほら陽菜、もういい加減戻るよ」
いつも冷静な純が、珍しく照れている。なかなか見れなくて新鮮だ。
「はい。すみません、お二人も部活中なのに話し込んでしまって」
「ううん。私たちは大丈夫だよ。それより、またうさぎ触りに来てもいいかな?」
「もちろんです。この子たちも喜ぶと思います」
「雪、数IIの教科書貸してくれない?忘れてきちゃってさ」
「もう、杏奈って忘れ物多いよね」
そう言いつつ、雪はいつも貸してくれる。雪の教科書は丁寧に赤線やメモが入っていて見るだけで勉強になるから助かる。私の教科書なんて買った時のままだ。
「じゃあ、昼休みに返しにくるね」
「うん、じゃあ中庭で待ってる」
雪のクラスを出て、自分の教室に戻る。真ん中の列の後方に位置する自分の席に座ると、後ろから純がぐいと顔を寄せてきた。
「あんた、また雪に教科書借りたの?」
「うわっ、びっくりした……そうだけど?」
純は私の顔をじっと見て、何か言いあぐねている。それから少し周りを気にして、小さく口を開いた。
「杏奈って、雪のこと好きでしょ」
「は、はあっ!?」
驚いて、肘を勢いよく机の角にぶつけた。めちゃくちゃ痛い。痛みで悶絶していたが、純は心配する素振りもない。
「教科書借りるのを口実にしなくても、別に休み時間に話すくらい雪なら迷惑とか思わないんじゃない?」
「いや、口実とかじゃ……ていうか、まだ認めてないんだけど」
「え、隠せてると思ってる?返すのを口実にお昼まで一緒しようとしてるくせに?」
純はこちらを馬鹿にするのを隠しもしない呆れた表情で私を見ている。
「いや、えぇ……そっか……」
「まあ、雪は気づいてないでしょ。一年の時もクラスの男子に言い寄られてたけど、全然ピンときてない感じだったし」
「え、待って。そんなことあったの?」
「雪って天然人たらしみたいなとこあるからね。まあその男子には私から諦めなって言っといたから、特に何も無かったけど」
何も無かった、と聞いて安心したが、やっぱり雪のことをそう思う人は自分以外にもいるんだ、と思った。
「のんびりしてたら誰に先越されるかわかんないわよってこと。まあ私は協力しないけど」
「いや、私はそんなどうこうなろうとかは、思ってないし……」
「雪の教科書見てあんなニヤニヤしてるくせに、説得力無いんだけど?」
「……本当だよ。私なんかじゃ、雪に見合わないもの」
そう。今だけ、少しだけ、雪から幸せを分けてもらえれば、十分だ。
私が少し暗くなったのを察したのか、純が黙ってしまった。
「純ー!数学の課題見せて!」
何か言わなきゃ、と思っていたら丁度よく未来が駆け込んできた。
「わっ、未来。また?いつもじゃない?」
「いやー、悪いね。でも純が同じクラスで助かるよ。一年のときなんて杏奈も課題やってきてなかったからさ」
「いやいや、今はやってるからね?」
「教科書忘れるくせに?」
まるでわざとでしょ?とでも言いたげに純が悪戯っぽく笑った。
「それは、まあ……」
未来には言わないでよ、と目で合図を送ると、純はそれ以上は言わないでくれた。
――――――
「じゃあねー!杏奈、また明日!」
「うん、未来、部活頑張ってね」
放課後、いつもの様に部活に向かう未来を見送る。未来が行ったのを見届けてから純を見ると、向こうも待ってたように私に話しかけてきた。
「雪のことは誰にも言わないから、そんな心配しなくていいよ」
「いや、それは心配してないんだけどさ……」
純はそんな言いふらすような真似はしない。それは信じられる。
「本当に、その……付き合うとかは、考えてないから」
「そう。まあ、深くは聞かないわ。この話はこれっきりね」
「ごめん。ありがとう」
「純ー!早く行こー!」
「あ、未来。今行く!じゃ、また明日」
純も見送り、さて、と時計を見る。今日はバイトは無い。本当はなるべくシフトを入れてほしいんだけど、中々そうもいかない。
「はぁ……帰りたくないな」
家にいるのはあまり好きじゃない。とりあえず図書室で時間を潰そうかと行ってみると、改装のためしばらく閉めるらしい。
「うーん、どうしよっかな」
とりあえず当てもなく校舎裏のほうに行ってみると、おあつらえ向きにベンチが設置されているのを見つけた。ありがたく座らせてもらい、鞄から文庫本を取り出し読み進めた。
もうすっかり夏になってきたが、校舎裏は日陰になっているし風通しも良いので快適だ。どこかから聞こえる吹奏楽部の音色と運動部の声をBGMにしながら、本の世界に入り込む。
「ほら、朱音ちゃん!こっちこっち!」
「真希、わかったから……そんな引っ張らないで」
何やら騒がしい声が近づいてきた。三人組の女子生徒たちのようだ。私は特にそっちには意識を向けず本を読み進めた。どうやら飼育小屋に用があるらしい。
「ほら、この子だよ!かわいいでしょ?」
「かわいい、けど……やっぱり苦手かも。どう触ったらいいかわかんないもん」
「大丈夫だよ。この子は人に慣れてるから……あれ?ちょっと元気ない?」
「ほんとだ。ユキちゃん、あんまり動かないね」
微かに聞こえる話し声から、何となく良くない事が起きてるのかな、と思った。でも私には何も出来ないし、本当に大変なら先生を呼ぶだろう。
再び本に意識を集中させようとすると、三人組の一人が懐かしい名前を呼んできた。
「え、杏ちゃん?」
「……?朱音ちゃん、知り合い?」
驚いて、その子を顔を見た。そして、朱音という名前でピンと来た。
「……朱音?」
「やっぱり、杏ちゃんだよね?びっくりした。ここの高校だったんだ」
「うん。朱音、雰囲気変わったね、良い意味で。最初わかんなかったよ」
小学生の頃の記憶が呼び起こされる。その頃の戸田朱音は長い前髪で顔が隠れていて、いつも自信無さげに俯いていた。しかし今目の前にいる朱音は私と同じくらいの身長にまで成長して、手入れされてサラサラな髪は肩くらいまでで切り揃えられていて、薄くだがメイクもしているようだ。何より、声が明るい。
「そうかな、ありがとう。あ、この子達は同じクラスの真希と陽菜。で、この人は私の小学生の頃の知り合いの、桜井杏奈」
朱音がそれぞれに紹介をして、軽く挨拶をする。朱音の友達の二人は片方は元気そうで、もう一人は落ち着いた雰囲気で、両極端な感じでちょっと面白かった。
「ていうか、何か大変そうだったけど、大丈夫?」
「あ、うん。このうさぎが変なんだよね?陽菜」
「うん、何だか元気が無くて……」
確かに、小屋の隅で一羽のうさぎが丸まっている。私には元気かどうかまでは見極められないが。
「うーん、じゃあ生物の笠原先生でも呼んでみようか。何かわかるかも」
「桜井先輩、ありがとうございます」
先輩、と呼ばれたことに背中がむず痒くなりつつ、笠原先生を探しに行く。とりあえず体育館に行ってみようとすると、校舎の陰、隅の方でタバコを吸う笠原先生が見えた。
「あ、いた」
「ん、桜井?」
タバコ吸うんだ、と思ったけれどそれは口には出さないでおいた。
「あの、飼育小屋のうさぎの様子がおかしいみたいですよ」
「ああ、丁度見に行こうと思ってたんだ。もうそろそろだろうから」
笠原先生はタバコをもみ消して、飼育小屋の方に歩いていく。その手には何か袋を持っていた。
――――――
「笠原先生、連れてきたよ」
「さて……」
笠原先生はうさぎの様子を覗いている。うさぎは相変わらずじっとしていた。
「うん、やっぱり妊娠してるな」
「そうなんですか?」
「ああ。よし、それじゃあ……」
笠原先生は小屋の中に干し草を入れた。巣材になるらしい。そして小屋の片側に黒い布をかけた。
「東雲、しばらくは多めにエサと水をあげてやってくれ。小屋の掃除は最低限でいい」
「はい、わかりました」
「赤ちゃんって、いつぐらいに生まれるんですか?」
「一ヶ月くらいかな。夏休み中に近くの学校に連絡して引き取ってもらう予定だ」
「あの、夏休み中も見にきていいですか?」
東雲さんはどうやら飼育委員らしい。このうさぎ達のことをずいぶん気にかけているようだ。
「ああ、よろしく頼む」
「だから小屋分けてたんだ。こっちの子はオスってこと?」
確かに、さっきのうさぎとは別にもう一羽が隣の小屋にいる。そちらは特に問題なさそうに動き回っている。
「うん、サクラちゃんって言うんだよ」
「へー……杏ちゃんの名字と似てるね。サクラだって」
「はは、確かにね。何か親近感わくかも」
「早く赤ちゃんに会いたいね、サクラちゃん」
宮川さんがしゃがみこんでうさぎに話しかけているが、当のうさぎ自身は何だかポカンとしている。
「ユキちゃんに会えなくて寂しいのかな?」
「どうだろうね。サクラちゃん、感情がわかりづらいから……」
今のは、聞き間違いだろうか。確かに、ユキちゃんと言った気がする。
「えっと、こっちの子の名前って……?」
「ユキちゃんですよ」
「へ、へぇー」
まあ、そういうこともあるか。偶然だ。と、必死に言い聞かせ、動揺が表に出ないようにした。そして、絶対に雪には知られたくないと思った。
――――――
「杏ちゃん、よくここ来るの?」
「ん?まあ、涼しいしね」
別に雪、もといユキのことが気になってこうしてうさぎ小屋の近くでわざわざ読書をしているわけじゃない。決して、違う。まあ一応乗りかかった船として、ユキが無事に出産を終えられるかは少し気にしているが。
「あ、もしかして先輩って呼んだほうがいい?」
「いや、いいよ。朱音に先輩とか呼ばれたら変な感じするし」
「そっか、わかった」
きっと、他に色々聞きたいことはあるんだろうな、と思う。でも朱音は気をつかっているのかあまり聞いてこない。それがありがたくもあり、申し訳なくもあった。
「杏ちゃんって、彼氏とかいるの?」
「どうしたの急に。いないけど」
まさか朱音にはいるのだろうか。まあずいぶん垢抜けたし、いてもおかしくない雰囲気ではあるが……小さい頃を知っている身としては、心配してしまう。
「そっか。杏ちゃん、高校生になって更に大人っぽくなってたから、彼氏の一人や二人はいるのかと思っちゃった」
「二人もいることある?ていうか、そういう朱音はどうなの?」
「私?ないない。同級生の男子なんて子どもだもん」
同い年でしょ。と思ったけどそこは口に出さないでおいた。
「じゃあさ、気になる人とかは?」
朱音は尚も食い下がってくる。こんなグイグイくるタイプだったっけ?と、記憶の中の朱音とのギャップに困惑する。
「いないって。朱音、そんな恋愛とか興味あるタイプだったっけ?」
「うーん、まあ配……会話のネタになればなって」
「それなら悪いけど、私には無いよ」
これ以上話してボロが出ても困るので、会話は終わりと本を開く。朱音はつまらなそうに頬を膨らませていたが、無視しておく。
「朱音ちゃーん!」
「あ、真希」
向こうから宮川さんが走ってきた。部活のランニング中らしい。これで朱音の意識も逸れるかな、と期待していると不意に名前を呼ばれた。
「杏奈?珍しいね。こんな所で」
「ゆ、雪!?」
宮川さんってテニス部だったのか。ていうか、ここで会ったのは割とまずいかもしれない。
「杏ちゃん、どうかした?」
「い、いや?なんでもない」
「雪先輩!今ここでユキちゃんが頑張って赤ちゃん産もうとしてるんですよ!」
「そっか。頑張ってるんだね」
「真希、あんまり大きな声出さないほうがいいんじゃない?」
「あっ、そっか。ごめんね……」
宮川さんは声のボリュームがゼロか百しかないのか、囁くような声しか出さなくなってしまった。いや、そんなことよりも……
「杏奈もうさぎ小屋を見に来てたの?」
「ユキちゃんが妊娠してるとき、杏ちゃん……桜井先輩が先生を呼んでくれたんです」
「朱音、そんなこと言わなくていいから……!あ、雪、この子は私の小学生の頃の知り合いの、戸田朱音」
「そうなんだ、よろしくね。杏奈の友達の、久保田雪です」
「雪先輩……そっか。よろしくお願いします」
朱音が雪と私を見て、ニヤりとした。私に対して、完全にわかった、という顔を見せた。
「朱音……後でゆっくり話そうか」
「うん。是非」
何だか、墓穴を掘ってしまった。初めからここに来なければ……
「ユキちゃん、どんな感じなのかな?」
宮川さんがうさぎ小屋の中を伺おうと俊敏に動き回っている。
「こら、あんまり刺激しちゃ駄目って言われてるでしょ?」
「朱音ちゃん……そうなんだけど、気になっちゃって」
「うん、私も気になるけど……でも今はそっとしておいてあげよう?真希ちゃん」
「うぅ……はい。わかりました」
まあ、雪はうさぎの名前まで気にしてないみたいだから、大丈夫か。でもそれはそれで、私がめちゃくちゃ意識していたのがかなり恥ずかしい。
「あ、そっか……」
安心したのも束の間、雪が何かに気づいた顔をして、私の顔を見た。何に気づいたのかは、直感的にわかってしまったが、務めて冷静に、何も知らない顔で聞く。
「どうしたの?雪」
「ふふ。杏奈、知ってる?こっちの子はユキって名前なんだよ」
「雪と同じ名前だね」
「そう、それでこっちの子はサクラって名前なの」
大丈夫かな、顔に出てないかな。
表情筋一つ一つに注意しながら話を聞くのはとても疲れる。
「桜井と、雪なんだよ。ふふ、私たちと同じだね」
ダメかもしれない。なんか、もう。色々と。
今すぐ全力疾走して、叫びたかった。それをしない理性を褒めてほしい。
「そっか。そんな偶然あるんだね」
「ね。純とかにバレたら恥ずかしいかも」
顔を赤くしないでほしい。心臓がもたない。あとさっきから視界の端で朱音がめちゃくちゃ笑いをこらえてるのが見えてめちゃくちゃ腹立たしい。
「じゃあ私は部活戻るね。真希ちゃん、行こっか」
「はい!じゃあまたね!朱音ちゃん!」
――――――
「はぁ……疲れた……」
「ふふ、杏ちゃん、お疲れ様……ふふ」
朱音はまだ笑ってる。私は全身の力が抜けて、つっこむ気力も無い。
「杏ちゃんのあんな姿、初めて見た。杏ちゃんって、ああいう人が好みなんだ?」
同性とか、他にも気になることがあるだろうに、そこには触れてこない朱音の優しさがちょっと嬉しかった。
「いや……正直、友達の中でのちょっと特別、くらいだと自分の中では思ってたんだけど……思ってた以上に、だったなって……」
多分、純や朱音にバレて、目を背けてた気持ちと明確に向き合わされたこともあるんだろうけど。
「私、いくらでも協力するからね」
「いいから。ほんとに」
「遠慮しないで。真希とも仲良いから、そっちからもサポートできるし」
朱音が完全にやる気モードだ。しかし私にはもう止める気力は無い。さっきので体力は空だ。
「もうすぐ夏休みだもんね。色々できそう。ふふ、楽しくなってきた」
「そりゃ、何よりです……」
今年の夏休みは、忙しくなりそうだ。
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