未来への証明


 夏休み。校庭からは部活動に励む生徒たちの声、そしてどこからか聞こえる吹奏楽部の音色。クーラーの効いた教室でそれらに耳を傾けていると、色々なアイデアが浮かんできそうだ。

「桜井、ボーッとするな」

「……はーい」

 これが補習などで無ければ、の話だが。

「ていうか、全然進んでないな」

「いやあ、難しくて……笠原先生、ちょっと教えてくださいよ」

 今日は監視役として、理科の笠原先生が来ている。白衣にメガネで、いかにも学者って感じだけれど、出勤するときはよれたジャージで来ていることは学校では有名だ。多分まだ若いし、女性にしてはかなり身なりに気を使ってないなあと思う。

「その手には乗らないし、そもそもそれ漢字の書き取りだろ」

 笠原先生は来てからずっと本を読んでいる。何の本か見ようとしたら、隠されてしまった。

 ひたすらにノートに漢字を書き綴る。が、すぐに飽きてまた校庭を見る。ここからだとテニスコートは見えなくて、雪の様子は伺えない。

「よそ見するなって」

「そうは言っても、集中出来ないですよ」

 いい加減右手も疲れてきた。諦めてペンを置いて、大きく伸びをする。

 笠原先生は本から目を離さず、意外なことを話し始めた。

「まあ、意味無いしな。そんなこと」

「え、そんなこと言っていいんですか?」

「個人の意見。桜井は別に現文の成績悪くないし。でも現文の補習ってそれくらいしかやらせることないから、仕方ない」

「結局仕方ないってことじゃないですか」

「そもそも、休むのが悪い」

「それは……そうですね」

 正論だ。もう少しだし、頑張るかとペンを持ち直すと、また笠原先生が話しかけてきた。

「カゲロウって、知ってるか」

「夏によくある、景色がもやもやっとするやつですか?」

「そっちじゃなくて、虫の」

「ああ、はい」

 正直、虫は苦手なのであまり興味が湧かないが、漢字の書き取りよりはマシなので、黙って聞く。

「カゲロウって、成虫になると口が退化して、餌を取れなくなるんだ。成虫に残された役割は子孫を残すことだけ」

「へー、そうなんですか」

 話の続きがあるのかと、待っていたが笠原先生はそれ以上特に話さない。

「え、それに何の意味が?」

「ん、いや特に意味は無い。ただこの前お前のクラスで授業したときにこの話をしたら、えーと、七瀬だったかな。可哀想って言ってた」

「そうなんですか」

 聞いた覚えがないから、休んでいたんだろう。

「桜井は可哀想とは思わないか」

「まあ……特に思い入れも無いですし。それに人間とは違いますしね」

「そうだな。人間にとっては儚い命でも、カゲロウはそれで満足なのかもしれない」



「ヘイパス!」

「前!前!」

「遅れてるよ!もっと早く!」

 体育館ではバスケ部が練習をしている。コートの右から左へ、左から右へ、忙しなく動いてて、すごいなあと思う。私はそれを眺めながら、コンビニでかった菓子パンを頬張っている。

 補習は何とか午前中で終わらせた。笠原先生も一応バスケ部顧問として顔は出さないといけないから、早く終わらせろと言ってきたし。

 パンを食べ終え、帰宅の用意をする。図書室に芽衣がいたら少し話そうかと思ったが、生憎今日の当番は違う生徒だった。

 午後になってもまだまだ気温は高い。帰りにアイスでも買おうかと考えながら歩いていると、自転車置き場から未来が出てきた。

「あれ、杏奈。来てたんだ」

「うん、補習でね。未来、バスケ部は?」

 ついさっき、体育館で走り回っている姿を見たのに、今はもう帰ろうとしている。

「ああ、これからバイトなんだ。そうだ、駅まで一緒に行こうよ」

 未来が自転車の後ろをポンポン叩いて誘ってきた。この暑い中、駅まで歩くのも一苦労だ。その誘いに乗らない手はない。

「自転車通学って大変じゃない?」

 私を後ろに乗せながらも、未来は軽々自転車を漕いでいく。未来も中学が同じなので、私と家はそこまで離れてないはずだ。

「確かに距離あるけど、まあいい運動になるからね」

「なるほど、偉いねえ」

 私だったら、三日も経たず諦めるだろう。

「ていうか杏奈、高校入ってからかなり休み増えたよね」

「えー、そうかな」

「まあ中学の頃は……姫野さんのことがあったから来てただけなのかな」

「さあ、どうだろう」

「私も良くないなとは思ってたんだけどね……って、今更言ってもダメか」

「……」

「でも最近、久保田さん達と仲良くなってるみたいだね。純からたまに話聞くよ」

「んー、そうなんだ」

「……じゃ、バイト先着いたから。またね」

「へえ、お弁当屋さんでバイトしてるんだ」

「うん。ここだけの話、廃棄とか貰えて助かるんだ」

「部活もやってバイトもして、すごいね」

 私はどっちもしてない。

「まあうちって兄妹多いから……何かとお金かかるんだよね。でもまあ、働くこと自体は嫌いじゃないし、バスケも好きだから!」

「偉いなあ。今度買いに行くよ」

「ほんと?お待ちしてまーす」

 この時、もっと未来に言うべきことがあったのかもしれない。いや、本当はわかってて、私はそれを無視した。



「いらっしゃいま……」

「あれ、汐見さん」

 補習終わり、日に照らされた体を冷まそうとファストフード店に入ると、雪の友達の汐見さんが働いてた。

「そっか、ここでバイトしてたんだ」

「そうだけど、注文は?」

「塩だなあ。えーっと、バニラシェイクといちごアイスにしようかな」

 そう伝えると、汐見さんは信じられないという顔で私を見た。

「なに?」

「……いや、変な組み合わせするなって」

「変かな?」

「甘い物と甘い物って、変でしょ」

「そうかな、そうかも」

 でも今の私は散々補習で頭を使って糖分不足だ。このくらいは必要だろう。

「そういえばあんた、未来とも中学同じなのね」

「ん?うん」

「最近……いや、ごめん。なんでもない」

「……?」

――――――

 今日も今日とて補習である。補習はサボらず来ていたら、「補習に来られるなら普段からちゃんと来なさい」と怒られた。ちゃんと来てるのに怒ることないじゃないか。まず褒めてほしい。

 そしてもはや恒例として、バスケ部の練習を眺めながらお昼を食べる。今日は模擬戦をしている。未来がパスを受けて、ドリブル、一気にコートを駆け抜けて、シュートの体制に入る。そこに汐見さんが待ち受けていて、ガードする。しかし未来はそのガードを掻い潜り、見事シュートを決めた。

「おー」

 お見事、と小さく拍手を送る。が、当の未来は喜んでおらず、汐見さんに向かって何か言っている。汐見さんは困ったような表情だ。

「だから、手加減なんてしてないって」

「嘘。自分が大会に選ばれたから、私が自信無くさないようにって、手加減したんでしょ!?」

 険悪なムードを察して、先輩たちが止めに入った。呆気に取られていると、未来が私に気づいて、ばつの悪そうな顔をした。

 見たくないものを見てしまった。いや、多分未来が一番見られたくなかっただろう。

――――――

「未来、こんばんは」

「杏奈……いらっしゃい」

 休日、出かけたついでに、近くまで来たので未来のバイト先を訪問した。実を言うと、少し話をしようと思っていたのだが。

「お弁当、色々あるね。迷うなー」

「……あのさ、杏奈」

「ん?」

「えーっと、私、もう少しで上がるんだけど、良かったら一緒に帰らない?あ、でも電車か……」

「いや、今日は自転車だから大丈夫だよ」

「じゃあ、ごめん。ちょっと待ってて」

 お店の裏で少し待っていると、未来が出てきた。

「お待たせ」

「ううん。大丈夫」

 二人で何とも言わず、自転車を押して進む。今は焦る必要は無い。

「……ていうか杏奈、こんな時間に夜ご飯?」

「ああ、うちの両親帰り遅いからさ。結構自分で用意してる」

「そうなんだ、まあうちも似たようなもんだけど」

 他愛のない話をしながら、ゆっくり進む。分かれ道が近づくにつれ、さらに未来の足取りは重くなっていって、遂に立ち止まってしまった。

「……この間、嫌なとこ見せちゃったね」

「…………」

「今度、大会があるんだ。それのメンバーに純が一年生で一人だけ選ばれて……それ自体は、私もすごく嬉しいって思ってた。つもりだったんだけど……」

「……うん」

「なんか、差があるなって思っちゃって。純は美術部と兼部なのに、私よりバスケ上手くて、何でも器用にこなして、それで……モヤモヤしちゃってさ。私、嫌な奴だよね」

 未来はそう言って、力なく嗤った。

「私には、未来も十分すごいように見えてるよ」

「はは、そうかな」

「ごめん。私は未来を助けられるほどできた人間じゃないから、何も言えない」

 それに、未来も汐見さんも、そんな弱くない。

「……未来。一つ、お願いしてもいい?」



「お邪魔しまーす」

「いらっしゃい、杏奈。荷物はどっか端の方に置いといて」

「はーい。お、未来の弟くんに妹ちゃん。初めまして。こんばんは」

「こ、こんばんは」

 確か、上の弟が十一歳で妹が九歳だったかな。妹の方は恥ずかしそうに、すぐ未来の後ろに隠れてしまった。

「ほら、結菜。私は夕飯の用意するから、杏奈と遊んでな」

「おいでー、結菜ちゃん」

 弟の颯太くんが、ゲームをやりたいと言ってきたので、結菜ちゃんと三人でテレビゲームをやることにする。

 未来にはお兄さんもいるらしいのだが、今日は友達と遊ぶらしく、帰ってこないらしい。

「杏奈、久保田さんは何時くらいに来るの?」

「んー、さっき駅ついたって連絡来たから多分もうちょい」

 言ってるそばから、インターホンが鳴った。

「お、来たみたい。私が出るよ」

――――――

「雪、ここって……?」

「大丈夫だよ、純のよく知ってる人の家だから」

 外から話し声が聞こえる。雪は上手く連れてきてくれたらしい。

「やあ、いらっしゃい」

「え?桜井さん?」

「雪、わざわざありがとね。さ、汐見さん。上がってよ」

 汐見さんは明らかに困惑したまま、雪に手を引かれて家の中に入った。

「久保田さん、いらっしゃ……って、純!?」

「み、未来!?え、ここって……」

「未来の家だよ。雪、なんて説明したの?」

「えーっと……夕飯食べに行こう、って」

「あはは、確かにそうだね。よーしじゃあ、颯太くん、結菜ちゃん。ご飯食べよっか」

 未来が作ってくれたカレーは、とても美味しかった。

「それで、杏奈。これはどういうこと?」

「ん?んー……まあ、何か話したいことあるだろうなって思って」

 汐見さんはずーっと黙っている。未来も話しかけようとしない。

 結菜ちゃんは何故か雪に懐いていて、べったりだ。私にはめちゃくちゃ人見知りしてたのに……

「ん?結菜ちゃん、眠くなっちゃった?そしたら先にお風呂入ろっか」

「うん……」

「じゃあ、七瀬さん。お風呂借りるね」

「あ、うん。どうぞ」

 雪に手を引かれて、お風呂場に行く結菜ちゃん。

「杏奈?どうかした?」

「えっ?いや、別に」

 無意識に目で追っていた。なんか恥ずかしいな……

「……杏奈ちゃんも、入る?」

「いやいや、狭いし。いいよ、雪と入ってきな。颯太はゲームの続きやろっか」

 ちょうど、テーブルには未来と汐見さんだけが残った。後は二人に任せるだけだ。

「じゃあ、食器片付けちゃうね」

「あ、私も手伝うよ」

「……ありがと」



 未来と汐見さんの口論を見かけた後、何か言うべきか、何を言えるのかと思い、体育館の前まで行った。そのとき、笠原先生と未来の会話を聞いた。

「……すみません。雰囲気悪くして」

「そうだな。でも謝るのは私にじゃないだろ」

「でも……何て言えばいいのか……」

「まだ心のどっかでは、汐見が選ばれたことに納得してないのか?」

「いえ、それは……そう、かもしれないです」

「そうか。まあ私は顧問とはいえバスケに詳しいわけじゃないし、大会メンバーは三年に任せっきりだから……何も言えないが」

 笠原先生がボールを構えて、シュートをした。しかし全く見当違いの方向に飛んで、かすりもせずボールは床に落ちた。

「私はバスケ……いや、運動は出来ない。でも頭はいい」

「は、はあ」

「向き不向きの話だ」

「それで言ったら……私には何も向いてることなんて無いですよ。勉強だって苦手だし……」

「たとえ百人の専門家が、お前に才能が無いと言っても、その全員が間違っているかもしれない。全人類がそう言っても、全人類が間違っているかもしれない」

「え……?」

「昔は地球が平らだと皆が思っていた。でも地球は丸かった。七瀬、お前の才能は、お前が証明するしかないぞ」

――――――

「やったー!また勝った!杏奈姉ちゃん、弱ーい!」

「はは、颯太上手いねえ」

 正直、キッチンの二人の会話が気になってゲームどころではない。そっと聞き耳を立ててみる。

「純、この間は、ごめん」

「そんな、私の方こそ……」

「ううん。正直さ、嫉妬してたんだよ。何でもできる純に。でも、それってすごくかっこ悪かった。だから……もっと頑張るよ。いつか純と一緒に、試合に出られるように」

「うん……ありがとう。私の方こそ、無意識に未来に手加減してたんだって、気づいた。それがどれだけ自分勝手なんだろうって……思った」

「もう、手加減しないでよ。全力の純を超えてみせるから」

「うん。私も、負けない」

――――――

「おーい、杏奈姉ちゃん!」

「あ、ごめんごめん。」

 焦ってゲーム画面に意識を戻す。良かった。しっかり話せて。

「お風呂上がったよー」

 雪がキッチンで談笑している汐見さんと未来を見て、嬉しそうに笑った。

――――――

「雪、協力してくれてありがとう」

 帰り道、駅に向かいながら雪にお礼を言う。雪が汐見さんを連れてきてくれたおかげで、今回は解決できた。

「私は大したことしてないよ。杏奈が色々頑張ったんでしょ?」

「そんな……あの二人なら、私が余計なことしなくても仲直りしてた気がするけどね」

「でも、放っておけなかった?」

 何だか、雪は嬉しそうに話している。

「まあ、ね」

「ふふ、杏奈ってやっぱり優しいね」

「そうかな……そう思われたいだけなのかも」

「え?どういうこと?」

「……駅、着いたね。私逆方向だから。またね」

 雪に背を向けて、ホームに向かう。電車に乗り込むと、携帯に姉からメッセージが来た。

『今、荒れてるから帰ってくるなら静かにね』

「はぁ……」

 またか。今日はせっかく、いい気分で帰れそうだったのにな。

 憂鬱な気持ちで電車に揺られる。

 このまま、走り続けてくれたらいいのに。

――――――

「ただいま……」

「杏奈、おかえり。丁度さっき終わったとこ」

 姉が部屋から顔を出してそう言った。リビングを覗くと、食器の破片が散乱していて、ソファで母がうずくまっていた。

 私は特に声をかけず、自室に戻った。

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