3 あの日の翼

 随分長い間、キリナはアズサと抱き合っていた気がする。そろそろ誰かに見られるかもしれないと不安になって、ゆっくりとアズサから身体を離す。


「落ち着いた?」


 目を擦るキリナに、アズサが柔らかい声で尋ねる。キリナは湿った声で「ありがとうございました」と返した。


「ごめんなさい。アズサさんの服、汚しちゃいましたね……」


 キリナはさっきまで自分が顔を埋めていた場所を見る。涙や鼻水、潰れた額のニキビから出てきた血が、アズサのウェスタンシャツにシミを作っていた。


「良いの良いの。どうせ家に帰ったらすぐ洗濯するんだし」


 そう言って微笑むと、アズサはキリナの頭にポンと手を置いた。


「さ、気分転換が済んだら帰ろう? もうじき暗くなる」


 アズサの言葉に促されて、キリナは展望台を去ろうと足を一歩踏み出す。


 その時、遠雷のような音が聴こえてきた。


「何ですか? この音?」


 アズサに訊いてみても、彼女は「さあね」と肩をすくめるだけだった。


 音は次第に大きくなっていき、こちらに近付いてくるようだった。その正体が気になったキリナは、振り返ってダム湖の方に目をやる。


「あっ!」


 ダム湖の奥、山の稜線が重なった渓谷から飛び出した音の発生源に、キリナは思わず声を上げた。


 轟音を響かせながら空を翔る、灰色の鳥の形をした機械。空に融けてしまいそうな色なのに、その機会は圧倒的な存在感を放っていた。


 灰色の翼が巻き起こした風が、ダム湖を激しく揺らし、木々をなぎ倒していく。キリナはその光景をどう表現したらいいのか解らない。美しいとは違う、もっと相応しい形容詞があるように思えたが、中々見つからない。


 キリナが言葉を探しているうちに、鳥の形をした機械は渓谷の下流へ消えていった。後に残ったのは、さっきと同じ遠雷のような音だけ。


「あれは、きっと在日アメリカ軍の戦闘機だね。こんなところで訓練をしているなんて……」


 アズサは戦闘機の飛んでいった方向を恨めしそうな目で見ていた。


「アズサさんは嫌いですか?」

「まぁ、いい気分じゃないね」


 戦闘機のエンジン音はもう聴こえない。アズサは踵を返して駐車場に向かう。


「何だか、似てる気がしました」


 キリナはアズサの後を追いながら、あの戦闘機に対して抱いた感想を口にする。


「似てるって、何に?」


 振り返ることなく、アズサは聞き返す。


「あの戦闘機……上手く表現できないんですけど、アズサさんみたいだなって思いました」

「なんじゃそりゃ? 褒めてんの?」


 クスっと笑って、アズサは車の鍵を開ける。


「まぁ、時々羨ましく思うことはあるよ。色々なしがらみを振り切って、空の高いところまで飛んでいきたいって……」


 運転席に就いたアズサは、遠くを見るように顔を上げる。キリナは助手席から彼女の横顔を見ていた。


「やっぱり、似てる……」

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