2 アズサさん
元の世界にいた頃、キリナは知人女性(としか形容できない人物)に連れられて、山奥のダムを見に行った。親にはいるはずのない友だちと出かけると嘘をついた。
彼女――
その日は朝から雲が空を覆い、雨が降りそうで降らない微妙な天気だった。空の色が白一色なので、緑の水を湛えたダム湖も紅葉に染まった山も絵のように見える。
放水による水しぶきと轟音だけが、キリナに目の前の景色が現実であることを知覚させていた。
「どうして私をこんな場所に連れてきたんですか?」
展望台の柵に手を置き、キリナは隣に立つアズサに尋ねる。彼女はダム湖に背を向け、白い曇天を見上げながら話す。
「最近キリナちゃんの元気がないように見えたから、気分転換になるかと思ってね。まぁ、この通りスッキリしない天気だけど……」
キリナも顔を上げ、真っ白い空を睨む。気持ち悪い空だ。中途半端で変化に乏しい。
「いっそのこと、雨が降ってくれたらいいのに……」
「そうだね……雨が降ってくれれば、賑やかで楽しいのに」
アズサの言葉を聞いて、キリナは少し気が和んだ。「晴れた方が良いじゃん」とか「雨が降ってないだけラッキーじゃん」と言ってキリナを否定せず、ありのままを受け止めてくれる。
そんなアズサに対して、キリナは自覚できるほど依存していた。親と喧嘩した時、学校で嫌な事があった時、塾をサボった時……現実から逃げ出したい時はいつもアズサの家に行った。
「また辛いことでもあったの?」
アズサの問いにキリナはゆっくりと頷く。
「母が、私を産まなきゃ良かったって、私に『死ね』って言ったんです……」
自然と言葉が口から零れた。
「中二に上がってからどんどん成績が落ちていって、テストの結果を見せる度に母は嫌味を言ってくるんです。祖母の話によれば、母はそこまで勉強ができた訳ではないみたいですが、人のこと言えないと言うつもりはありません。けど、教育指導要領が違う四十年前の基準で見られるのは納得がいかなくて……」
堰を切ったように憤懣が溢れ出す。キリナの気が済むまでアズサは黙って耳を傾けていた。
「二年生の時点でこの成績なら、もう市内の公立には行けないそうです。市内の公立に行けなかったら大学もヘンなところしか行けなくて、まともな企業には就職できないって……だから、母は私に『死ね』って言ったんです」
言葉と一緒に母に対する怒り、殺意が腹の底から湧き上がってくる。通知表を破り捨てられた時、どうして何も言い返せなかったのか? どうして「死ね」と言われて「お前が死ね」と母に殴りかからなかったのか? あの時抱くべきだった感情が今になってやってくる。
「殺したかった……です。私を否定する母を、椅子で殴り殺したいと思いました。けど、何もできなかった……私ってお利口さんですねへっ……イヒヒヒヒッ!」
最後は何故か笑ってしまった。気がつくと、キリナは笑いながら絶叫していた。
「ヴァアアアアアッ! 殺してやるッ! 許さねぇぞこのクソ女ァッ! ヴァアアアアアアアアアッ!」
めちゃくちゃに柵を蹴り、そこら辺に落ちていた小石をダム湖に向かって投げる。水面に小さな水柱が上がり、遅れてポチャリと情けない音が聴こえてきた。
「キリナちゃんは偉くもなんともないよ……」
肩で息をするキリナを、アズサの腕が包み込む。
「殺すのは流石にダメだけど、暴れて良かったと思うよ? 暴れて喚き散らして、ちゃんとキリナちゃんの想いを伝えなきゃ……」
耳元でアズサの声が聞こえる。その瞬間、キリナの中で煮えたぎっていた怒りは急激に冷めた。代わりに喜びなのか悲しみなのか判然としない気持ちが胸を満たす。
山の稜線が歪み、生温い涙が頬を伝った。
「アズサさんッ!」
キリナはアズサの腕を振りほどくと、彼女を押し倒す勢いでその胸に飛び込んだ。今のキリナは、怒りよりアズサを求める感情が強かった。貪るようにアズサの胸にすがり、声を上げて泣いた。
「全く、キリナちゃんは私の前だけでは素直なんだから。よしよし、悔しかったね……」
それからしばらくの間、アズサは泣きじゃくるキリナの頭を撫で、背中を擦ってくれた。
アズサの胸で泣きながら、キリナは彼女がいれば他に何もいらないと思った。いっそのこと、アズサと二人きりで遠い何処かへ逃げてしまおう、という考えも浮かんだ。
しかし、それはできない。キリナがいなくなれば、親はすぐに警察へ連絡するだろう。アズサだって仕事があるし、彼女の両親にも迷惑がかかるかもしれない。
逃げることができないなら、せめて今だけは二人きりでいたい。キリナはアズサの胸に強く額を押し当てた。
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