第8話

彼女はそのあと屋上を出た。

俺は屋上に一人になった。

あまりの急展開に山の方を見ると、その前の電線には烏がいた。

空はすっかり夕暮れで、町も黒々としている。

そんな中にいる烏はまるで認めてもらえたかのように堂々と電線の上にたたずんでいた。

俺は心の中でこう話しかける。

おう、入学式ぶりだな、烏よ、調子はどうだい?

俺?俺はさっき見ていた通り初めての告白を受けちまったよ。

……まあ、俺も頑張るからお前もがんばれよ。

そう言うと伝わったのか烏はバサバサと夕暮れの空へ飛び去って、すぐにゴマになった。




その翌日になった。

俺はまた図書館で勉強していた。

すると彼女はいつものように、つまり昨日のことなど忘れたかのように俺のもとにきて微笑んでくる。

俺は彼女が記憶喪失でもしているのかと疑ってこんな風に昨日のことを聞いてみた。

「昨日のことは……覚えているか?」

「あ、もう答えを出してくれるの?」

そう言うと彼女は微笑む。

ということは忘れていないのだろう。

「いや、別にそんなわけじゃないが」

「そうか……私はいつまでも待っているからね」

それから俺たちはまたいつもの会話を始めた。




デカルトは言った。

我々が確固とした思考を築き、築きうるのは「思うこと」のみだと。

つまりデカルトは“方法的懐疑”というものの極致に立ったのだった。

方法的懐疑とは何か。

例を示そう。

例えば今、目の前にリンゴがあるとする。

しかしそれは本物であろうか。

本当はただの絵ではないのだろうか。

——いやいや、俺がちゃんとあそこに置いたのだからリンゴに決まっている。

では、俺たち全員が見ていない隙に、もしくは名だたる大怪盗もびっくりの方法を使って目の前で盗まれたかもしれない。

——では、触ってみよう。ふむふむ、この表面の滑らかさ、植物らしい冷たさは、やはりリンゴだ。

だとしても、それは精巧なサンプルかもしれない。

——それでは齧ってみよう……

……

このように、我々の知覚は少しでも疑いようのある物である。

これは方法的懐疑によって確固としたものではないとみなされ、切り捨てられる。

そうしてデカルトが辿り着いたのが、「思うこと」という確固とした自分だった。

これはかの有名な文言、「我思う故に我有り」にも通底する。

まあ、俺が言いたいことはつまり、デカルトが言うにはこの世界はそれぐらい不確実で、重要ではないのだ。




俺はそんなことを自慢気に彼女に話した。

彼女とはだれか。

そいつは少し釣り目のきりりとした目で、長いまつげで、ちょうどいい大きさで高さのある鼻で、潤っていて柔らかそうな唇を持つ、整った顔立ちの彼女だ。

それを彼女は微笑んだまま聞くと、しばらく考え込む。

その姿も様になっていて、いまなら“考える人”を作った人の気持ちも分かりそうだった。

そして彼女はこう答えた。

「この世がそれほど重要ではないということは多分、君がこの世に厭世的になっているのも少なからず影響しているんだろう。私も昔はそうだった。でもね、君に出会えて私の世界は変わったんだよ。君に出会えて私はこの世界も実はいいところじゃないのかなって思い始めたんだ。だから私にとっては……この世界はとても大切だよ」

これを普段の俺が聞いていたら照れていただけなのかもしれない。

しかし、先日あんなこと、つまり俺が彼女に告白されたことだが、それがあった俺には彼女の言葉の意味が痛切に感じられた。

と同時に、なぜか俺も同調できた。

それは彼女が俺の中で、仕方の違いはあるものの、大切だったからだろう。

と、同時に、彼女に告白されたあの日から、彼女の存在が変わってきているような感じがした。

このデカルトの説は常識破りなところがあろう。

つまり通俗的ではないということだ。

昔の俺だったら、それを首肯していた。

しかし、今の俺はそれに疑問を持ち掛ける。

デカルトで言えば、方法的懐疑で切り捨てられるものとなった。

論は何も間違ったことを言っていない。

しかし、どこかで俺はそのデカルトの論を拒絶していた。

俺は自分が変わってきていることに気が付いた。

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