第18話 聞きたくない



 風呂から上がった俺はガーデンベッドに寝そべり、髪をブローしている遥さんをぼんやりと眺めていた。

 しっとりとしていた髪が次第にさらさらになり、普段よく見る遥さんが完成されていく。


 俺は遥さんの突然のスキンシップに戸惑いを隠せずにいた。

 俺が女性に対して恐怖心がなくなった途端に遥さんは距離を詰めてきた。

たしかに、温泉に行きたいね、なんて話はした。俺も遥さんと外出できることを心底楽しみにしていた。

 でも、いくら血が繋がっているとはいえ、これはさすがに距離が近すぎるんじゃないだろうか。

 子ども同士でもない、いい年をした男女が一緒に風呂に入って、髪や体を洗い合うなんて。

 それとも甥と叔母の関係なんてこれが普通なんだろうか。

 いや、そんなことないだろう。女性に無関心だった俺でもそれくらいわかる。


 手のひらに残る遥さんの肌の感触が生々しい。

 遥さん、いったいどうしたんだろう。

 あの日以来、様子がおかしい。

 遥さんは違うと言っていたが、やはり×××からの電話に関係があるんじゃないだろうか。


 疑念を晴らしたい。でもそうすることでようやく縮まった遥さんとの距離が再び開いてしまうかもしれない。


「春、おいで。髪乾かしてあげる」

「じゃあ服を着てください」

「いやよ。ドライヤーって熱いもの。せっかくの浴衣が汗で湿っちゃう」

「ならバスタオルを──」

「ほら、早く座って」


 そして裸のままの遥さんは無邪気に俺をパーソナルスペースに招き入れる。


「金髪も似合っていたけれどやっぱり黒髪がいいかな。ねえ、そういえばシャルルってまだ予約が取れないそうよ。春効果絶大ね」


 でもそのせいで×××から電話がかかってきちゃったから。

 今思えば軽率な行動だった。


「春の柔らかい髪がね、大好きなんだ、私。また触れられるなんて感激」


 もう触らせてもらえないかと思ってたの──遥さんが俺の髪を手櫛で梳く。


「俺は遥さんの髪、すごく好きです」


 ヘーゼルベージュ、だったか。とても遥さんに似合っている。


「小さいころは嫌がってよく逃げていたけれど、じっとしていられるなんて大きくなったね、春」


 ドライヤーの風が熱くて嫌いだったのかな。


「だからもう高校生になるんだって」


 鏡の向こうの遥さんが懐かしむように瞳を細める。


「高校生……私ね、春のためだったらなんでもする。なんだって。だから──」


 ふいに温風が止み、ドライヤーが洗面台に置かれる。


「遥さん?」


 手を止めた遥さんの様子を鏡越しに窺うが、下を向いた遥さんの表情は確認できない。


「春はいつも笑顔を絶やさないでいてね。なにがあっても」

「はる、か……さん? え、泣いて……」


 俺は振り返ろうとしたが、そうさせないようにと、遥さんは俺の頭を抱え込んだ。


「遥さん、本当にどうしたの──」

「ほら、動かない。カッコよくしてあげるから」


 遥さんはニコッと笑顔を見せると、ドライヤーのスイッチをオンにした。



 やはり変だ。


 今日の遥さんとはどう接していいのか答えが見つからない。




 ◆




「うわなにこの部屋!」


 部屋に入った俺は度肝を抜かれた。


「ちょっとこれ広すぎ、ってか、え? こっちにも部屋がある! うお! キッチン!?」


 なんで旅館にキッチンが!?


「春! 来て来て! ガゼボがあるよ!」


 なんですかがぜぼって。


「なにこれ……もうプールじゃん……」


 広いテラスに海と一体化してるんじゃないかと錯覚するような広い露天風呂。

 屋外用のソファーがいくつも置いてあり、サイドテーブルには氷に入った瓶が冷えている。


「わぉ! シャンパン! 気が利くぅ! 春! せっかくだからいただこうよ!」

「や、未成年なんで」


 なんすかこの空間。

 え? 俺たち以外にもだれか泊まりにいらっしゃるんですか?

 二人だとちょっともったいないんですが。


「ん~おいし!」


 遥さんがシャンパンを愉しんでいる隙にスマホで検索。


 ええと、んーっと、え? なぬ? 貴賓室?

 海外の皇室やセレブ達が来日した際に宿泊するVIP専用ルーム?

 まじすか。それでこの設備。

 で、料金は……いちじゅうひゃくせんまんじゅうまん……っぐはッツ!

 あ、ありえない! 考えられない! 一泊するだけなのになにこの料金!?


 やばいっ!!


 ちょ、遥さんこれは俺のバイト代でも返し切れそうに──っぶはッ!


「は、遥さん!」


 こっちもやばいっ!


 すいーっと気持ち良さそうに泳ぐ遥さん。


「さっきお風呂入ったばっかなのになんでまた入ってるんですか!」

「大丈夫よ! 髪は濡れないようにしているから!」


 なんだあの美しい人魚は。

 そうか。遥さんはマーメイドだったんだ。

 泡になって消えないように見てなきゃ。

 じゃねえ!


「春も一緒に泳ご! 気持ちいいよ!」

「ちょ、ちょっと売店に行ってお茶買ってきます!」


 俺は小銭入れを手に部屋を飛び出した。




 ◆




 部屋に戻ると、遥さんはソファーに寝そべりグラスを傾けていた。

 海をバックにとても映える。さすが大人。

 ちゃんと浴衣も着ている。さすが大人。


「あ、帰ってきた。ちょっと一人で寂しかったんですけど!」

「ごめん。ちょっと喉が渇いちゃって」

「冷蔵庫にいっぱい冷えてるのに」

「んん。お土産も見たかったから」


 私も一緒に見たかったのに、と口を尖らす遥さんに、


「散歩行ってみようよ」


 外へ誘った。

 今日の遥さん、二人でいると気が変になりそうだ。

 人前でならいつもの遥さんに戻るだろう。





 と思ったんですが。




「ちょっと春! どうしてこのぬいぐるみ取れないのよ!」


 ちょっとガラス叩かないで! 店員さんこっち見てるから!


「いや、だからこういうのは確立があって──」

「むきっ! 確率ってなによ! 絶対欲しいのにぃ!」


 俺は酔っ払いを宥めていた。

 ふらりと寄ったゲームセンター。

 クレーンゲームの景品にウサギと亀が合体した巨大ぬいぐるみを発見し、絶対に欲しいといってきかないのだ。

 めっちゃ不細工なのに。


「ぜぇったいとるから!」


 遥さんて酔うと激しいのね。


「あ、あっちのあれはどうですか! ほら、もうちょとで落ちそう──」

「私はこれが欲しいの!」


 そうですか。愛と勇気だけが友達なキャラはお気に召しませんか。


「じゃあもう一回だけやってダメだったら宿に帰りましょう。ほら、そろそろ夕食の時間ですし」

「じゃあ最後春がやって!」

「いいですけど、取れなくても怒らないでくださいよ」


 こういうのは俺より美咲が得意なのに。


「だめぇ! とれなかったら罰ゲーム! だから春ぅ頑張ってぇ?」


 ちょっとそうやって暴力的なものを押し当てないでください。

 それは理不尽な発言をうやむやにする免罪符にはなりませんから。たぶん。

 っていうか、こういうことにならないように外に来たのに。


 ほんのりと肌をピンク色にした遥さんは妖艶な色気を振りまいている。

 道行く誰もが振り返るのだが、遥さんにはその自覚がない。

 いや、自覚があったとしても眼中にないのだろう。


「どうせ取れないからっておかしな罰ゲームやめてくださいよ」


 温泉卵一気食いとか。

 宿泊費ワリカンとか。

 いや、ワリカンでも全然いいんですけど、ちょっとだけ猶予ください。


 硬貨を入れて慎重にポジションを決める。

 ちょっと遥さん離れてください。狙いが定まりません。あとその香水の香り好きです。


「ここだぁ!」


 クレーンが獲物を捕らえる。


 おお!?


 そして奇跡的にぬいぐるみを持ち上げ──


 いけるんじゃない!?


 数センチ手前で落ちた。


 おっしい! 超おっしい!


「はいぶっぶー。春罰ゲーム決定!」

「まあ、惜しかったけどしょうがないです。取れなくてごめんなさい」

「では罰ゲームを発表します! 春は今夜私と一緒のベッドで寝ること!」


 でたよ。周りの空気を読まないこのお姉さん。

 さっきから人だかりができてるの知ってるでしょ?


「それは後ほど協議しましょう。さ、遥さん、宿に戻り──」


 と、そのとき。

 男の店員さんが俺たちの方へ寄ってきた。


「彼氏さんと彼女さん、お客さんをたくさん呼び込んでくれたので──」


 そういいながらガラスを開けると、


「これお店からサービスです。また来てくださいね!」


 遥さんに不細工なぬいぐるみを手渡した。


「え、いいんですか?」


 遥さんが大きなぬいぐるみを抱っこする。


「見てください。元は十分に取れますよ」


 店員さんがウインクするので店内を見ると、さっきまでがらんとしていた店の中がカップルで溢れている。

 なるほどそういうことか。


「遥さん、ここは遠慮なくいただいておきましょう」


 店員さんにお礼を言って店を出る。





「私のこと彼女さんだって。いいお店だったね」


 うんそうですね。


「でも、いただいてしまって良かったのかなぁ」


 いいんです。いいんです。

 経緯はどうあれGETだ。


「これで罰ゲームはチャラですね」


 勝ち誇った顔をすると


「それはずるいよぉ」


 遥さんが今にも泣きだしそうな顔をする。


 うんずるかった。俺最低だ。

 罰ゲームは後で協議しましょう。




 ◆




 食べきれないほどの夕飯を堪能し、俺と遥さんは就寝までの時間をまったりと過ごしていた。


「遥さん、今日は本当にありがとう。すっごい楽しかった」

「すっごい楽しい、でしょ? まだ旅行は終わりじゃないんだから」


 遥さんも酔いが醒めたようだ。

 いつもよりふにゃんとしているように思えるのは、ぬいぐるみを抱っこしているからだろう。

 ペットとか飼いたいのかな。今のマンションじゃ飼えないけど。


「でもこの部屋、すっごい高そうですよね」


 実は密かに調べましたとは言わない。

 あくまで高そうだという話だ。


「んん。まあまあ。でも春との一緒の時間の方がプライスレスだから」


 きゅー! 愛されてる! 俺愛されてる気がする!

 言ってみたい! 俺も一度言ってみたい!


「んで、遥さんって仕事なにしてるの? 昼に訊いたとき、夜教えてくれるって」


 まさか人に言えない仕事ってことはないよな。


「女優」

「え?」

「昔ね。女優をしていたの。映画とか、ドラマとか」

「女優! 全然知らなかった! すごい! だからサイン貰ってたんだ!」


 びっくりした。一瞬頭に浮かんでしまった女優じゃなくてよかった。

 本当にごめんなさい。もう想像しません。


「っていっても少しの期間だけだけどね。でもそのときかなり忙しくしていたから貯金は結構余裕があるの」


 なるほどそういうことだったんですね。


「今でも観られる作品ってあったりする? 俺、遥さんが女優しているとこ観てみたい」

「ん~家に帰れば。でも恥ずかしいから春には観られたくないかも」


 裸で泳いでいるのにそこは恥ずかしがるんですか。


「じゃあ、遥さんが観てもいいよっていうのだけでいいから。お願い」

「わかった。じゃあ、選んでおく。週末一緒に観よ?」


 やった! ねえ、男子校で友達が出来たら俺の叔母さん女優だぜ! って自慢してもいい?


「綺麗な女優さんだったんだろうなぁ。遥さん。人気あったでしょ」

「どうだろ。あの世界には私なんかより綺麗な女優さんいっぱいいるから」

「いや、断トツで遥さんが一番でしょ。今でも遥さんより綺麗な女優さんなんて──あ、でも昔ってことは今は女優の仕事はしていないの?」

「姉さんが亡くなって少しして引退したの」

「あ、それって、俺を引き取るために……」

「ううん、そうではないの。その辺はまた複雑なんだけれど……」


 そんなことはない。俺を引き取ったことと関係あるのだろう。


「話せば長くなるの。ほら、春の実家が関係しているから……」


 実家──。だから遥さんも話そうとしないのか。


「えっと、ほら、遥さんには特定の人はいないのかなっていう質問も……」


 俺は話題を変えた。

 遥さんが気を遣ってくれているのに、それを無下にするほど馬鹿じゃない。


「いません」

「いないの? 遥さん綺麗だから付き合いのある男性の一人や二人──」

「ねえ春? 綺麗って言ってくれるのは嬉しいけれど、私は男性とお付き合いしたいなんて少しも考えたことないの。だって、私の隣には春がいるのよ? 春に勝る男がどこにいるっていうのかしら」

「それは……まあ……俺もうれしいけど」


 男としては嬉しいが、甥としては心配だ。


「でも遥さんも結婚とか、子供とか、俺のせいで普通の女性が──」

「春! 私には春だけいればいいの!」

「は、遥さん?」

「私の心はすでに満たされているの。春でいっぱいなの。だから春、こっちに来て」


 遥さんがソファをポンポンと叩く。

 俺は言われるがまま、遥さんの隣に腰掛ける。

 テラスは夜風が気持ちいい。


「春。膝枕してあげる」


 おとなしく従った。

 遥さんの髪の隙間から星空がみえる。


「春。私はいまからとても大切なことを言います。すごく驚かせてしまうかもしれないけれど、最後まで聞いて。そして考えて」


「──っ!」


 胸がざわつく。

 この話は聞いてはいけないと、第六感が警告する。

 遥さんが話そうとしているのは、俺が抱いていた違和感、それの答えだ。

 それがなにであるかを知ってしまった瞬間、遥さんと保っていた距離が、心地いいこの関係が、すべてが変化してしまう、そう訴える。


 まさかその話をするために、こんなに高級な部屋を──。


「遥さん、ちょっと──」


 俺の唇を遥さんが人差し指で抑える。


 それならば──


 立ち上がろうとすると、


「──だめっ!」


 遥さんの胸に抱え込まれてしまう。


 聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。

 きっとよくないことだ。


 遥さんが俺の頭をより強く抱える。


 聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。

 だってよくないことに決まっている。



 だが、遥さんが口にした言葉は──。


「春。私、もう長くは生きられないの」


 ハンマーで殴られたような衝撃が全身を襲った。


「姉さんと同じ病気だって、先生が」


 遥さんが口にした言葉は、俺が想像しうるすべての可能性の中でいずれをも大きく超えた、悪夢よりも残酷なものだった。


 それは死刑を宣告されたのと等しく──容赦なく俺を奈落の底へと突き落とした。




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